はなごろも

 生温い春の風が、頬を優しく包む。ほんのりと漂ってくる、花の香りが心地いい。

 わたしの隣に並ぶ幼馴染の彼は、いつもそうしてくれるように、わたしに歩幅を合わせて歩いてくれる。今や当たり前すぎて気づきにくいことだけど、彼のわたしに対する何気ない気遣いは随所に表れていて、感じるたびに嬉しくなってしまうのだ。

 彼は普段もっぱらのインドア派で、今日もわたしが半ば無理矢理に誘って外へ連れ出した。とはいっても、作戦自体は簡単なもので、電話にただ一言『振られたから慰めて』と吹きこんでおいただけなのだけど。

「僕なんかじゃなくて、もっと適役がいるんじゃないの」

 呆れたように溜息を吐く彼は、それでもわたしの誘いを断ることなくこうして付き合ってくれる。この優しさに、申し訳ないと思いながらも、わたしは何度も甘えてきた。

「いいじゃん。こんなに天気がいいんだもの、たまには外へ出ないと」

「人を引きこもりみたいに言わないでよ」

「だって休日はいつもそうじゃない」

 そんな風に、くだらない会話をしながら、川沿いを歩く。桜並木はどこも満開で、青空の下、薄紅色が眩しく映えている。とっても、好きな景色。

 はらはらと満開の木から、花弁が離れて空を舞う。そのうちの何枚かは、傍らの手すりを越えていった。手すりの向こうの川は、既にたくさんの花弁で覆われている。薄紅の絨毯と化した水面を見るとはなしに眺めながら、立ち止まったわたしは、つられて足を止めた隣の彼に言った。

花筏はないかだ、っていうんだよ」

「花筏?」

「川を見て」

 わたしが手すりに身体をもたせ掛け、目の前に広がる川を見つめると、彼もわたしのすぐ傍に両手を置き、手すりを掴んだ。

「たくさん花弁が浮かんでるでしょ。あぁやって、花弁が連なって川に浮かぶ様子が、いかだのように見えるから、花筏。そういう名前の植物も別に存在はするんだけど、一般的に花筏っていうとこの風景を指すことが多いの」

「へぇ。相変わらず、植物のことに詳しいね。君は」

 感心したように言ってから、彼は何かを思い出したようにクスッと笑った。陽だまりのように落ち着いた笑みは、あったかくてなんだか落ち着く。だからわたしは、昔から彼が笑っているのを見るのが好きだった。

「なぁに、どうしたの」

 心のうちを悟られないように、こてんと首を傾げてみせれば、彼は「いや、ね」と口に手を当てて笑みを深めた。

「実は、落語の演目に『花筏』っていうのがあるんだよ。とある提灯屋さんが、花筏というお相撲さんの代わりをしてくれないかって頼まれる話なんだけど……」

「お話に出てくるお相撲さんの名前が、花筏っていうの? だからタイトルも『花筏』? なんだか、イメージに合わないね」

 でっぷり太ったお相撲さんが汗だくになる姿を想像しながら、目の前の川を見る。一ミリも、共通する要素が見当たらない。

 わたしの変な顔を見ておかしくなったのか、彼は声を上げて笑った。

「しかも内容はコメディだからね。風流とか何にもないし。全然、合わない」

「作った人も、何でそんなタイトルにしたのかなぁ」

「さぁ、何でだろうね。それっぽい名前なら、何でもよかったんじゃない?」

 楽しそうに笑う彼の横顔に、ホッとする。その黒い瞳には、多分さっきまでわたしが見ていた川の風景が映っているのだろう。きっと、『花筏』という言葉を想像しているに違いない。

 少し上の方にある、彼の顔をしばし眺めた。はらはらと、彼の頭上を桜の花びらが踊るように舞う。胸の奥深く、柔らかく儚い部分が、きゅうっと絞られるように痛んだ。

「……そろそろ、お昼にしようか」

 よく分からない気持ちになって、いたたまれずに絞り出せば、わたしに顔を向けた彼は「そうだね」とひっそり笑った。


 桜並木から少し離れて、歩道を歩く。

 どこで食べようか、と隣の彼に話しかけようとしたところで、彼が唐突に手を伸ばした。大きな手が、わたしの頭を掠める。思わず、目を強く瞑ってしまった。

 さらっと、人肌の温もりがわたしの頭を撫でる。一枚の花弁がはらはらと無慈悲に落ちていくのが、視界の端に見えた。

「……髪に、花弁がついてたから」

 ごめんね、びっくりした? と彼は笑みを浮かべる。その表情はどこか強張っていて、気まずそうにも見えた。

 そんなに、今のわたしは酷い顔をしているだろうか。まるで、彼に触れられることを拒否しているような。

 わたしはただ、そんなつもりはなくて。さっきから心をじわじわと侵食し始めている、奇妙な感情に、戸惑ってしまっているだけなのに。

 それきり黙ってしまった彼に、どう説明したものかとおろおろしていると、ざぁっと少し強めの風が吹いた。向こうから流れてきた何枚もの花弁が、わたしたちを覆って、視界を桃色に染める。

 怯むように細めた目を、そっと開く。

「……大丈夫?」

 こちらに気遣う言葉を掛けながらも、乱れた前髪をさっと払う彼に、わたしは知らず釘付けになった。

 手触りの良さそうな髪に、男の子っぽい服に、広い肩に。そして、襟首から覗く色づいた鎖骨に――いくつもの花弁が、張り付いている。

 こくりと、知らず喉が鳴った。

 絵に描いたような恋なら、何度も繰り返してきた。その度にときめいて、喜んで、苦しんで、泣いた。

 それなのに、どうしてだろう。男の子に対して――それも、ずっと傍にいたはずの身近な幼馴染に対して、こんなにも艶やかな色を感じたのは初めてだった。

「どうしたの?」

 動かないわたしを不審に思ったのか、彼が首を傾げる。その拍子に、髪や肩に乗っていた花弁が、はらりと落ちた。

 それもまた、言葉を失うほどに綺麗で。

「……花弁、ついてる」

「え、どこ」

 うわ言のような呟きでそう教えると、彼は本当に気付いていなかったのか、きょろきょろ忙しなく自らの服や頭に手をやり始める。一歩近づいて距離を詰めたわたしは、彼の身体にまだ残っていた花弁へと――彼の鎖骨へと、手を伸ばした。

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はなのあめ/はなごろも @shion1327

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