第3話

   ◆◆◆




 児童書コーナーを抜け出して、カフェブースに移動したとたんに、怜は自分のリズムを取り戻したようだった。


 地下一階の半分ほどを占めるカフェブースでは、数組の客がコーヒーを飲んだり、肩を寄せ合ったりしながら読書をしている。

 彼らの頭上では、シーリングファンが人々の時間と空間を守るようにゆっくりと回り、まるでそれ以外のすべてが静止してしまっているように見えた。


 僕たちは空いている席に座る。

 昼食をとるには少し遅い時間だったためか、席を探すのには苦労しなかった。


 テーブルを挟んで二脚ずつ配置された余裕のある二人がけのソファは高級なものではなかったが、すわり心地は良くて、しっかりと手入れされていた。


 怜と夏織さんが並んで座り、僕はその向かいに座った。

 スタンドからメニューを取り、夏織さんに渡す。素朴な丸っこい文字が手書きで並んだ、楽観的な印象のメニュー表だった。

 夏織さんはメニューを開き、怜の声を聞き取りやすいように彼のほうに体を寄せる。


「怜くんは、なに食べたい?」


 たぶん、怜にとってそれはすばらしく刺激的な接近だったのだろう。

 大理石のように体を硬直させた彼が、辛うじて指し示した商品は、こちらからは判別できなかった。

 それから僕はエビのサンドウィッチを、夏織さんはチキンのサンドウィッチを選び、それぞれコーヒーを注文することにした。

 僕はソファから立ち上がり、カウンターへ向かう。


「ご注文ですか?」


 髪を短く刈り込んだ、活発そうな若い男性店員が僕に声をかける。

 コミカルなライオンの図案に、英字で「EASTSIDE LIVERPOOL」という文字が描かれたTシャツを着ていた。


 イングランド北部の都市名と、一般的な日本人といった彼の容姿に関連性は全く見出せなかったのだけれど、それがやけに似合っていた。


 イーストサイドリバプール。

 僕は心の中でその言葉を何度か繰り返す。

 なるほど。

 僕はうなずき、注文を伝えて代金を渡す。

 チキンと、エビと、卵のサンドウィッチ。

 コーヒーが二つに、オレンジジュース。




   ◇◇◇




 修一が注文に向かったあと、わたしたちは彼の背中を眺めていた。


「ね、かおりちゃん」


 怜がわたしの名前を呼び、修一の背中を見つめながら言った。


「しゅうちゃんって、けっこう格好悪いよね」


 思いがけない一言に、わたしは吹き出しそうになる。


「そう見えるの?」


「うん、もっと近くで見てみなよ。あの服、毛玉いっぱいだよ。しゅうちゃん、ソザイは悪くないのにさ」


 怜の真剣な表情と、背伸びした口調に、わたしは我慢できずに声を立てて笑ってしまう。

 どうして笑うのかよく理解できていない風な顔をしている怜に、わたしは答える。


「そうね、ソザイは悪くないかもしれない」


「うん、そうだよ」怜は自分の手のひらとわたしを交互に見比べながら、言葉を考えているようだった。

 それから一瞬の間を空けて、「それでも、たまにちゃんとした服を着ると、格好いいときがあるよ」と言った。


「へえ、そうなんだ」


 わたしは彼に調子を合わせて、さも驚いたような顔をつくる。


「だからさ、今度は、ちゃんとするように言っておくからさ、見せてあげるよ」


 わたしは少し考えた。

《今度》は無いかもしれないが、それを怜に打ち明ける意味も無い、と思った。


「それはすごく良いアイディアだと思う」


「うん」怜はうなずいて頬杖をつき、ため息を吐く。


「だからさ、もうちょっと仲良くしなよ、二人とも」


 不意打ちだった。

 表情筋がこわばるのがわかった。

 わたしは絶句して、笑顔を貼り付けたまま天井を仰ぐ。

 見上げた先、わたしたちのちょうど真上では、大きなファンがゆったりと一定の速度で回っていた。

 なんだか馬鹿馬鹿しくなって、今度は本心から言う。


「それは、すごく良いアイディアだと思う」


 彼もそう思ってくれていれば、あるいは。




   ◆◆◆◆




「かしこまりました。少々お待ちください」と彼は言い、手際よく料理を作る。

 僕はテーブルに寄りかかり、彼の作業をぼんやりと見つめる。

 まな板に載せられたチキンやエビや卵やレタスなんかが、それぞれ三枚のバゲットに乗せられていく。

 まるであるべき場所に戻るように、そういう風に見えて、僕は素直に感心する。


「手際よくやるもんだね」


「たいしたことじゃないですよ。バゲットに野菜を乗っけて、チキンをそっと寝かせる。ソースをかけて、またバゲットをかぶせる。それから上からやさしく押してやる。誰だってできる」彼は歌でも歌うように言う。


「僕もたまに作るんだけど、どうしてもはみ出してしまうんだ」僕は人差し指で鼻の頭を掻く「どうしてだろう?」


「料理、作るんですか。いい旦那さんじゃないですか」男は手を止めずに言った。

 三つのサンドウィッチはいつの間にか出来上がっていた。彼は素早く、かといって慌ただしくもなく、オレンジをジューサーに放り込む。


「いい旦那さん?」僕は聞き返す。

「たまにでも、作るのと作らないとじゃ大違いですからね」彼は笑う。

 Tシャツのライオンとそっくりの笑顔で。


「どっかの海坊主は悪い旦那だったみたいですけど」


 ガラスポットから、二つのカップに濃い琥珀色の液体が注がれ、香りが漂ってくる。


「はい、出来上がり。お待たせしました」


 彼の渡してくれた茶色のプラスチックトレイに、三人分のサンドウィッチと、三人分の飲み物が行儀良く整列していた。


「ありがとう」


 僕は飲み物をこぼさないようにトレイを両手で持ち、席で待つ二人のほうを振り返る。

 その途中に、彼が言った。


「サンドウィッチを上手く作るコツはね、欲張ってなんでもかんでも乗せないことです。バゲットの大きさをちゃんと把握して、その上にきっちり具材を配置する。結局、サンドウィッチはバランスが一番重要ですから。海坊主が言ってたんですけどね」


 厨房の奥を気にしながら、彼は小声で続ける。

 おそらくは、彼の注意の先に「海坊主」の住み処があるのだろう。


「海坊主の人生哲学らしいですよ、これ。たまにいいこと言うんですよね」


 海坊主の人生哲学。

 なんだか自己啓発本のタイトルみたいだ。

 けれど、僕にはそのサンドウィッチの話が人生においてどのような指針になるのか、よくわからなかった。


「つまりどういうこと?」僕は彼に尋ねる。


「そりゃあ、あれですよ」


 そう言って、彼はしばらく黙る。その間、彼の目線はずっと我々の頭上をさまよっていた。

 僕が彼の回答をあきらめようとするころ、彼が口を開く。


「パンはでかいほうがいい」彼は確認するようにうなずき、「つまりそういうこと。多分」と言った。


「なるほど」僕は納得する。

 彼の言い分はひどくまっとうだった。

 パンはでかいほうがいいに決まっている。


 僕はもう一度「ありがとう」と言い、「またお越しください」と彼は言った。


 席に向かいながら考える。

 またお越しください。

《また》なんてあるのだろうか。

 それは、現状では少し難しい問題のように思えた。

 だけど、それを考えることに、何かの意味はあるのだろうか。





 僕たちが《ワールドエンド・ブックストア》を出たのは、夕方になってからだ。

 席に戻ったあと、しきりにひそひそと何事かを言いあっては、かみ殺したような笑い声を上げる二人とサンドウィッチをたいらげて、小一時間ほどかけて本を選んだ。

 僕と夏織さんがさまざまな書籍をふるい分け、精選している間、怜は眼鏡の女性店員と少し離れた椅子に腰掛けて話し込んでいた。


 人見知りの彼と、あの無愛想で科学的な女性が、何故ああも仲良く話し合えるのかは疑問だったけれど、邪魔をするのも忍びなかった。


 結局、夏織さんが選んだ絵本とほかに二冊の本を購入して、僕たちは階段を下りた。

 僕たちが本を選びおわるころには、怜は疲れて眠ってしまっていて、僕は彼を背負って夏織さんと並んで歩いた。

 暖色の照明が、本棚や人々の顔を淡く照らしだしていた。


 僕はなんとなく立ち止まって、店の奥を見渡す。

 雑誌コーナーの片隅で、若い男女が神妙な顔をして向かい合っていた。

 女の子のほうは高校の制服であろうブレザーに身を包んでいて、整っているのにどこか小動物を思わせる愛くるしい顔立ちと、つやつやとした黒髪が印象的だった。


 彼女はずいぶん狼狽した顔で、対面の男に何かを謝ろうとしているようだった。

 小さな焦りと、ささいな失敗。

 たぶんそんなところだと思う。


 二人の間には、どこかおろしたてのワイシャツに似た初々しい空気があって、同時にきっとうまくいくだろう、という確信に似た雰囲気があった。

 僕はそれを素直にうらやましいと思う。

 あの黒髪の女の子の、せめて十分の一くらいの必死さが僕にあれば、我々はもっと上手くやっていけるのかもしれない。

 これまでも、これからも。


「どうしたの?」と、夏織さんが立ち止まった僕に問いかける。


「いや、なんでもないよ」

 僕は答える。


 夏織さんは僕の視線の先を見つめ、きっかり一秒置いてから、いつかテレビで見た古いからくり人形みたいに、ゆっくりとこちらに顔を向けた。


「高校生はさすがにまずいと思うんだけど?」


「残念だけど、あの間に入り込む余地はなさそうだね」


 馬鹿、とあきれたように夏織さんは言い、きびすを返して真ちゅうのドアノブを押す。

 僕も振り向き、彼女が開けてくれたドアをくぐる。




   ◇◇◇◇





 本を買い終えて、わたしたちは階下に降りる。

 左手に抱えたワールドエンド・ブックストアのロゴが入った紙袋が、小さく乾いた音を立てる。

 修一は怜を背負ってわたしの右側を歩く。

 間近で見た彼の横顔が、とても懐かしいもののように見えた。

 彼の瞳は、何を見つめているのだろうか。


 階段を降りきって、不意に彼が立ち止まり、店の奥を振り返る。


「どうしたの?」とわたしは問いかける。

 彼の視線の先には、二人の若い恋人たちが居た。

 修一と同じくらいの背丈の男性が、高校生の女の子と話している。


 何か大きな声でも出したのだろうか、近くの客の物珍しげな視線が彼らに注がれていた。

 わたしは、彼の背中に修一の姿を重ね合わせる。

 彼の顔はこちらからはうかがえなかったが、その立ち姿には決意のようなものが見て取れた。

 もしわたしたちが彼らだったら、どうだろうか。

 修一は、あんなふうに、わたしを受け止めてくれるのだろうか。

 修一は、彼らを見て、何を思うのだろうか。


「いや、なんでもないよ」と、修一は答える。


 わたしはため息をつきそうになるのをこらえる。

 修一はどうあっても修一で、遠くの雑誌コーナーにいる彼ではない。

 わたしはそれを知っている。

 修一の、優しく、穏やかに見える性格は、ただ臆病で鈍感なだけだ。

 どうせ今も、頭の中で小難しく理屈を並べているのだろう。

 そんなことを考えるわたしに、きっと修一は気づいていない。

 そのことが少しだけ楽しかった。


「高校生はさすがにまずいと思うんだけど?」


 わたしは言う。


「残念だけど、あの間に入り込む余地はなさそうだね」


 彼はロットワイラーの顔で笑う。


「馬鹿」と、わたしは言って、ドアを開く。

 本当に、馬鹿で面倒くさいのだ。この男は。


 肩をすくめ、わたしは彼に期待するのを本当にあきらめる。




  ◆◆◆◆◆




 僕たちは店の外に出る。

 入り口の脇に置かれたオリーブの鉢植えは何時間か前と同じ顔をしてそこにあって、けれども数時間ぶんの年齢を証明するかのように夕映えに赤く染まっていた。

 コンクリート造りのマンションも、道路に引かれた白線も、レンガ造りの建物の背に見える海も、風の匂いも、すべてが赤く染まっていた。


 僕たちはどちらともなく、出来るだけゆっくりと、短い駅までの道のりを歩く。

 怜が眠ってしまった今、当たり前のように僕たちに大した会話は無く、僕はアスファルトの荒れた皮膚をただ漠々と見つめ、夏織さんのミュールのかかとが立てる音を聴いていた。

 ゆっくりと歩く僕たちの横を自転車が追い抜いていく。


「ねえ、修一くん」


 僕は夏織さんのほうを見る。彼女は地面のその先の、どこか遠くの地中を覗いているように見えた。


「そのカーディガン、毛玉だらけなの、知ってる?」


 夏織さんの表情は、俯いているのと逆光のせいでこちらからは見えず、僕は彼女の意図をはかりかねていた。


 正確に言えば、はかりかねていたというよりは、、迷っていた。


 正直なところ、こういうことは初めてではなかった。

 だから僕は、今度も少しの痛みや罪悪感さえ我慢すれば、うまくやり過ごすことができるだろう。そう思っていた。


 だけど、何故だろう。

 どうして僕の口の中は、こんなに埃が積もったように乾いているんだ?


「知ってる。実は虫食いもあるんだ」僕は何とか声帯を震わせ、答える。


「怜くんが言ってたよ、格好悪いって」


 相変わらず彼女の表情は夕焼けで読めず、滔々と手紙を読むようなその声からも、彼女がどういう結論に達したいのかを予想することはできなかった。


「確かに、格好悪いかもしれない」


 夏織さんが立ち止まる。

 彼女のミュールが鳴らしていた規則的で硬質な音も、彼女に寄り添い停止した。

 僕は少し遅れて彼女を振り返る。

 夕日に背を向けて、夏織さんに向かい合って初めて、僕は彼女の顔を確認することができる。


 ここのところ、子供に向ける顔ばかり見ていたから、僕は忘れていた。

 紅く染まった彼女は――夏織さんは、こういう顔をする女性だった。


「夏織さん」


 僕は無意識に彼女の名前を呼ぶ。

 けれどその呼びかけに夏織さんは答えなかった。

 そのかわりに、彼女は僕に向かって一歩踏み出す。


 僕らの間の、ほんの少しの距離を、彼女が埋めた。


「格好悪いよ」


 彼女は言った。

 譲歩の余地の無い、きっぱりとした口調だった。

 その声は、怒っているようでもあり、泣き出しそうでもあった。


「うん」


 僕は答える。

 それから僕たちは十秒ほど押し黙り、往来の真ん中で向かい合って立っていた。

 僕の背中には、寝息を立てる怜が居る。


 夏織さんはあきれたように腰に両手を当て、フリスビーを投げても取りにいかない犬を見るような顔で、大きくため息をついた。

 顔を上げ、髪をかきあげる。

 茶色に染めた髪が、透き通って見えた。


「ねえ、気づいてた? あなたがわたしの名前をちゃんと呼んだのって、きょう一日の中で、今のがはじめてなのよ。おどろくべきことに」


 気づいていた。

 僕は意識的に彼女の名前を呼んでいなかった。


 そうすることで、出来るだけよそよそしく彼女に接することで、逃げ回っていた。

 逃げ回っているうちに、ほかの、彼女にふさわしい誰かが、彼女を連れていってくれるだろうと、思っていた。


「もう一度呼んで」


 彼女は言った。


「夏織さん」


 僕は彼女の名前を呼ぶ。

 出てきた言葉の代わりに、僕の中の何かが消えていく気がした。

 ややこしく幾何学的な何かが、がらがらと崩れていく音を、僕は確かに聴いた。


「もう一度」


 彼女はもう一歩踏み出す。

 僕たちの距離は完全に無くなってしまう。

 彼女は僕の頬に手を置いた。

 四十度にも満たないはずの彼女の手のひらが、火傷しそうに熱かった。

 彼女の瞳の中には僕が居て、はなはだ混乱した顔で僕を見つめ返していた。


「言って」


 彼女は言った。

 火傷しそうな温度を頬に感じたまま、彼女の名前を再度呼ぶ。


「夏織さん」


 全身の皮膚があわ立ち、僕の口から吐き出された彼女の名前が、僕を揺さぶり、洗い流す。

 もう、そこにあるのは、のっぺりとした平坦な砂浜だけだった。

 小難しくて面倒なあれこれが、波に飲まれてどこかに流されていくのがわかった。


 僕は固く目を閉じ、それから開く。

 間近で僕を見上げる夏織さんは、もう怒っていなかったし、泣き出しそうでもなかった。

 彼女の手が、僕の頬をなだめるように撫で、ゆっくりと離れる。


 一歩下がった彼女は「次は、もうちょっとさっぱりした格好、してきなさい」とだけ言って、もう一度ため息をついた。


 言うだけ言って、夏織さんは歩き出す。

 先ほどまでのゆっくりとした歩調ではなく、早足で。


「そうするよ。次からはさっぱりした格好をしてくる」


 僕は開いた彼女との距離を縮めながら、枯れた喉から声を出す。

 夏織さんは振り返らない。

 それでいいと思った。

 本当は、歩み寄るべきなのは、僕なのだろうから。


「約束したわよ。もうはこの一回だけだからね」


「わかってる」


 夏織さんの背中に僕は答え、これから何をするかを考える。


 電車に乗って、怜を送り届けたら、クローゼットから持ち物すべてを引っ張り出そう。

 窓を開け、積み上がったビールの空き缶を片付けよう。

 彼女の言葉を借りれば、それは《確定事項》だ。




(ダブル・トーキング・ヘッズ 了)

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