第2話

   ◆◆




 郊外の海沿いにある本屋――《ワールドエンド・ブックストア》は、倉庫を改修して作られたらしく、大きめの二階建てに小さな窓が規則正しく六つ並び、赤レンガの壁はところどころ欠けていた。

 扉の脇には文字の刻まれた鉄製のプレートがはめこまれており、静かに自己を主張している。

 入り口には三人が座れるくらいのベンチがあり、スタンド付きの灰皿がそばに置かれていた。

 脇に据えられたオリーブの鉢植えは、排気ガスと副流煙をいっぱいに吸い込んでたくさんのつぼみを実らせ、向かいの通りを無感情に眺めている。


 僕たちは真ちゅう製のドアノブを引き、中に入る。

 比較的広い店内には余裕を持って本棚が置かれていて、照明や空調は眠る書籍たちのために最適化されていた。


 突き当たりの壁際の本棚で品出しをしていた店員が、僕たちに気づき微笑む。


「いらっしゃいませ。どうぞゆっくりご覧になってください」


 店員は緩やかにカールした茶色の髪に、趣味の良い丁寧な仕立てのワンピースを着て、大事な友人をもてなすように喋った。

 彼女の周りだけ、時間の流れが緩やかに見える。

 そういう印象の女性だった。


「児童書って、一階だった?」と、夏織さんが言い、「いや、二階だったはずだよ」と、僕は答える。


 入り口のすぐ脇にある吹き抜けの階段を、僕たちは登る。


 階段からは、一階の様子が見わたせる。

 余裕をとって区切られた店内のあちらこちらには、座って本を読むためのテーブルが設置されていた。

 そこには小説や雑誌を片手にくつろぐ客や、幸福そうに静かに笑いあう恋人や家族たちがいた。


 彼らから見れば、怜が居なくなってしまうと途端に交わす言葉を失う僕たちも、彼らと同じようにどこにでもいる恋人や家族のように見えるのだろうか。

 けれど我々に目を向ける人はいない。

 彼らの目は色とりどりの背表紙に刻印された文字を、あるいは隣にいる恋人たちを目で追い、ひそやかな声で何事かを話し合っていた。


 いったい彼らはどんなことを話しているんだろう? 

 そう考えて、僕は思う。

 潮時だと。


 正確にはもう何ヶ月か前からわかっていたことで、きっと夏織さんもわかっているんだろうということは、半ば確信的だった。


 仮に誰かに、彼女を好きでなくなったのかと問われれば、自信を持って違うと答えることが出来る。

 僕は彼女が好きだ。

 けれど、なぜだか、僕たちはこのままでは終わってしまうのだと、そう感じる。

 ひどく矛盾しているようだけど、世の中のものごとなんて大体そんなものだ。


 なんにしろ、「潮時」という言葉の主語はどれを当てはめてもぴんとこないけれど、恋人と呼ばれる人たちの交わすべき言葉を思い浮かべられない――忘れてしまっているこの現状は――やはりそういうことなのだろう。


 どちらにせよ、階段を登りきるまでに考えるのをやめよう。

 うやうやしく夏織さんの手を取って、エスコートするように階段を登っていく怜を見て、そう思った。




 児童書のコーナーは二階の端にあって、スペースを区切って瓶詰めのゼリービーンズを床一面にこぼしたみたいに色鮮やかなタイルが貼られていた。

 並ぶ本棚のそこここにバイクや動物や飛行機を模した真鍮細工の玩具が置かれていて、最大限の愛想を振りまいていた。


 ただひとつだけミスマッチなものがあるとすれば、そこで本を並べている飾り気のない女性店員だろうか。

 投げやりとも取れるくらい適当にまとめた黒髪に、セルフレームの眼鏡をかけて、淡々と仕事をしている。

 どう見ても児童書を扱うよりは、どこかの研究室で薬品を調合していた方が似合いそうだった。


 彼女は僕らに気づくと、「いらっしゃいませ」と、無機質な声で言った。

 僕たちは会釈で答え、コーナーの中に足を進める。


「ね、これなんか良いんじゃない」と夏織さんが本を手に取る。


「さすがに怜も、もう絵本を読む年じゃないよ」と僕は答える。


「そう? 案外深そうな内容だけど」


「それならなおさら不相応じゃないかな」


「それもそうね」


 そう言って彼女は絵本を棚に戻し、物色を再開する。

 アイアンを慎重に選ぶプロゴルファーのような顔つきが、なんだか面白かった。


 怜の方を見やると、なんだかばつの悪そうな顔をして俯いていて、僕には彼の表情の意味するところが、漠然とだけれど理解できる。

 きっと、このブースの可愛らしい内装が恥ずかしいのだろう。


 彼にとって夏織さんは精一杯のお洒落をして待ち合わせるべき価値のある女性で、だからこそ、こんな子供じみたところで買い物をするところを見られたくないのだろう。

 そんなことを考えていると、何かの手違いでタイムカプセルを掘り起こしたような奇妙な感覚に襲われて、僕は苦笑する。


 はじめて怜が僕たちの外出についてきたのは、いつ頃のことだっただろうか。

 一年も前の話ではないことは確かだ。

 その日の僕の妹にはどうしてもはずせない用事があり(どんな用事だったかは覚えていない)、さらには彼女の夫は僕と違って多忙な人だった。


 彼らの近くで生活している僕にその話が回ってくるのは、当然の帰結といってもいい。

 妹は普段フィリピンメダカぐらいにしか思ってない僕を比喩でなく拝み倒し、「彼の面倒を一日だけ見てくれないか」と持ちかけた。

 その日は夏織さんと出かける約束があり、彼女との約束を破ることは当時の僕には自殺に等しかった。

 妹が僕に何かを懇願することはとても珍しく興味深いものだけれど、僕にもはずせない用事があることだってたまにはある、ということを懇切丁寧に説明した。


「すまないけど、どうしても会わないといけない人が居るんだ。残念に思うけど、こればかりは絶対に譲れない。怜は人見知りが激しいし、彼にとってもあまりよくないと思う」


 それでも結局のところ、妹の押しの強さに僕が根負けしてしまい、しぶしぶ夏織さんに連絡をつけることになった。

 僕が未曾有のダブルブッキングを何とかあしらうことができたのは、彼女の快諾あってのことだ。


 僕たちの行き先はイタリアンレストランから水族館に変わり、僕たちの昼食は、ピザやパスタの変わりに信じられないくらい高価で油のしみこんだフライドポテトになった。

 人見知りの怜は、一日中僕のズボンの端をしわくちゃになるほど強く握り締め、夏織さんのほうをちらちらと横目で見ているだけだった。


 その日以来、味を占めた妹にはだんだんと「はずせない用事」が増え、月に一度ほど、僕たち三人で出かける日というものが、ある種の既成事実として出来上がっていた。

 僕の心配をよそに、怜は二度三度と夏織さんと会うたび彼女になじんでゆき、彼がその手に握るものは僕のジーンズの端ではなく、夏織さんの右手になった。


 本当に、いつのことだったんだろう。

 はじめて、怜が居ないと関係を維持できないと気づいたのは。




   ◇◇




「それもそうね」と、わたしは言った。

 想像していたものよりも平坦で抑揚のない自分の声を聞いて、思わず口元を押さえそうになる。

 不機嫌なわけでも、疲れているわけでもなかったが、出会ったあの日の第一声に似通った、冷たい響きをはらんだ声だった。


 わたしは彼に混乱を気取られないように、絵本をさがすふりをしながら目線をそらす。

 横目で盗み見た修一の顔は、やはりあの時のように事もなげだった。


 わたしは、わたしたちの関係性まで最初の日に退行してしまったような錯覚を覚える。

 あとほんの少しだけ巻き戻せば、他人になってしまう。

 そんな位置だ。


 きっと近いうちにわたしと修一はまったくの無関係になるのだろう。

 あとはどちらが悪役になるか、それだけのことだ。


 どうしてこういう風になってしまったのか、わたしには上手く説明することができない。

 相性――性格的なものや、肉体的なものを含め――が悪いということはないし、むしろ今までの恋人の中では一番といっていい。

 些細なけんかすらしたことも無い。

 ほかに好きな人ができたわけでもない。

 単純に飽きてしまったわけでもなく、理由が見当たらないことが余計にわたしの思いを茫漠とさせる。


 わたしは黒く冷たい沼のほとりに立っていて、もう一人のわたしがゆっくりと沈んでいくのをぼんやりと眺めている。

 おそらく、これも《確定事項》なのだと思う。

 そもそもがいいかげんな脚本の上に成り立っていて、最終回もきっと投げっぱなしなのだ。


 すでに最後のページは終わっている。

 しかし終わりを告げる拍子木は一向に鳴らないから、わたしたちはどういう風に役回りを演じていいのかわからない。

 その気になれば余白にシナリオを書き足すこともできるかもしれないが、そうするにはいささか余力が少ない気がする。


 日々弾力を失っていくわたしたちの気持ちが限界に達したとき、それはきっと終わりを迎える。


 わたしは小さく息をつき、気持ちを切り替える努力をする。

 今は怜も一緒なのだ。

 妙な事を気取らせてはいけないと思った。


 わたしは固まった表情筋を動かして笑顔を作る。

 胸の奥にあるそれに蓋をして、鍵をかけて、砂に埋め、それから一呼吸置いて、振り返る。


「ね、怜くん。面白そうな本、あった?」


 怜は落ち着かないそぶりで、足をもぞもぞさせながら、いやいやをするようにかぶりを振る。


「どうしたの? おなか、痛い?」


 わたしは出来るだけ優しい声を出して、彼に尋ねる。

 それでも、やはり、彼は小さく堅く首を振る。

もしかして、既に妙な空気を出してしまっていたのだろうか。


「お腹、へってるんだろう?」


 不意に、横合いから修一の声がする。

一言一言を区切るように、彼は言う。


「怜は、、下で、何か、食べたいんじゃ、ないかな?」


 彼の言葉に、怜は、はっとしたように顔を上げて大きくうなずく。

 修一は小さく微笑んで言った。


「それじゃ、早く降りよう。僕もお腹がすいてるんだ」


 怜は、怪訝な顔をする眼鏡の店員の隣を早足ですり抜け、階段へ向かった。

 わたしと修一もそのあとを追う。


「ねえ、彼、どうしたの?」


 わたしは小声で修一に尋ねる。

 修一は笑ってわたしの耳元に唇を寄せ、「男の子にしかわからないことっていうのもあるんだよ」と言った。


 本当に重大な秘密を打ち明けるような口調と、彼の吐息がくすぐったく、わたしもつられて笑ってしまう。

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