ダブル・トーキング・ヘッズ
逢坂 新
第1話
◆
日曜日の正午近くだというのに、駅のホームにあまりひとけは無かった。
五月の陽光が、牛の反芻のように牧歌的に降り注いでいる。
僕たちはベンチに腰掛けていて、十分ほど後に来る電車を待っていた。
「ね、しゅうちゃん、あと何分?」怜が落ち着き無く足をぶらぶらさせながら、僕に尋ねる。
「もうすぐだよ」と僕は答える。
「もうすぐ、じゃなくて、あと何分?」
僕は腕時計を見る。
「あと十一分。十一分だけ待てば、むこうから列車が来て、そこの黄色い矢印ぴったりに止まる。その後ドアが開くから、降りる人たちを待って、それから乗り込む」
そう答えると、怜は列車が来る方向をうらめしそうに睨みつけ、「待ち長いね」と言った。
膨らませた薄桃色の頬がまるで未知の美しい果実のようで、僕にその果肉の甘さと種子のつるつるとした質感を想像させた。
「どうしても待たなきゃいけない時っていうのがあるんだよ」と、僕は言う。
列車が来たのは、それから十三分経ってからのことだった。
赤と黒のツートーンに塗られた電車が、金切り声を上げながらホームに滑り込み、あちらこちらに静止する帯状の陽の光を切り裂いていく。
僕と怜はベンチから立ち上がり、口を開けたドアから車内に滑り込む。
列車の中はホームと違い、少しばかり混んでいて、空気は温かった。
通路に立っている客は少なかったが、さりとて僕たちが座るスペースも無かった。
だから僕はつり革をつかみ、怜は僕のズボンの端をつかんで、立ったまま乗らざるを得なかった。
どちらにせよ僕たちはすごく遠くへ行くわけではなかったから、特に問題にはならなかったけれど。
怜は僕の妹の最初の子供で、今年の秋に八歳になる。
好物はオムライスと朝七時半からテレビで放送している戦隊ヒーローの番組で、好きな色は青色。
休み時間に運動するよりは図書室で児童文学を読むほうが好きで、日光に当たることをよしとしない肌は、きめこまやかで白かった。
彼は今日も僕が迎えに行く時間ぎりぎりまで本を読んでいたようで、妹の家のリビングに散らばる服を座布団に、下着一枚で寝転がりながらページをめくっていた。
それから僕の姿を認めた怜は、座布団にしていた服にアイロンをかけることを彼自身の母親に要求し、僕に当初乗るはずだった電車に間に合うことを諦めさせた。
いつか彼には、出血し続ける時間の貴重さを教えこまなければならない。
僕は週刊誌の吊り下げ広告を見ながら思う。
「ね、しゅうちゃん」
不意に、隣に立っていた怜が僕を呼んだ。
彼のほうを覗き込むと、どことなく不安めいた笑顔を見せ「この服、変じゃないかな」と言った。
「よく似合ってるよ。アイロンもばっちりかかってる」
僕は言いながら、自分の格好と彼の服装を見比べる。
怜はチェックのシャツに紺色のパーカー、(これも裏地にチェックの生地が使われている)その下に、どう見ても新品なのにひげのついたジーンズを履いていた。
それらはおそらくすべてバーバリーの製品で、そうでないのは戦隊ヒーローの描かれたぴかぴかのズックだけだ。
どうせ、また彼の祖父母――つまり僕の両親だ――が買い与えたのだろう。
それに比べて僕はと言えば、よれよれのボタンシャツの上から毛玉の浮いたカーディガンをはおり、ぼろぼろのリーバイスを履いている。
すべて合わせて一万円足らずで買った古着だった。
ジーンズなんてすそ上げすらしていない。
一言で言えば「どうでもいい」服装で、だから、もしかしたら、僕たちは見ようによっては不審者が小金持ちの子供を引き回している風に見えるのかもしれない。
けれど、と僕は思う。
最近の子供は、そこまで人の目を気にして服装をあつらえたりするものなのだろうか?
僕が彼くらいの年齢のときは、川遊びに行く従兄弟について行って、川に投げ込まれた挙句に水浸しの服装で同じように電車に乗って、駅員さんに怒られたりしていた。
そういう記憶が、確かにある。
ともあれ、適度に見た目を気にするのは悪いことではない。そう結論付けた。
「うん、いいんじゃないかな。すばらしく格好いい」と僕は付け加える。
怜はなんとなくじれったそうに、それでも少しばかり安心した様子で笑った。
列車はがたがたとその身を振動させながら走り、怜の小さな体もそれに合わせて揺られていた。
彼の体が、振動に飲み込まれて大きくバランスを崩してしまわないように、僕は注意深く、さりげなく、彼の肩に手を置く。
彼は窓の外の風景を眺めていて、その目線の先には、僕の生まれ育った街の海があった。
ひどくあいまいな、灰色がかった色彩が凪いでいた。
僕を見上げ、怜が言う。
「青いね」
それが何についてのことなのかがわからなくて、僕は聞き返す。
「何が?」
「海に決まってるじゃない」怜が笑う。
「――そうだね、青い」僕は答える。
自分に言い聞かせるように、僕は答える。
それでも海は、僕の目には灰色に映っていた。
しばらくして、列車はゆっくりと減速し、目的地の駅の名を告げる。
僕たちは人波に押されてはぐれない様に、手をつないでホームに降りる。
待ち合わせの駅から目的地の《ワールドエンド・ブックストア》までの約十分、僕の数メートル前を、夏織さんと怜は並んで歩く。
怜は夏織さんを見上げて生真面目な顔で何かを話し、夏織さんは笑いながら時折うなずいている。
なんだか今度は幸せな親子をつけまわす不審者みたいになってしまったな、と煙草をくわえながら僕はぼんやりと考える。
「修一くん、修一くん」振り向いて夏織さんが僕を呼び、急に顔をしかめる。「煙草」
「火はついてないよ」僕は答える。
「どっちにしても将来有望な甥っ子の教育によくないでしょう?」
キョウイク、と僕は心の中で繰り返す。
確かに煙草を咥えながら歩くのはキョウイクに悪いかもしれない。
将来が有望ならなおさらだ。
僕は咥えていた煙草をソフトパックに戻す。
「まあ、いいわ」夏織さんは小さくため息を吐く。
「ところで、この間話してたコロコロのついた靴、もう流行ってないらしいよ」
コロコロのついた靴というのは、子供用のスニーカーで、かかとに一対ずつ大きなローラーがついている。
つま先を浮かせることによって、すべるように移動できる画期的な商品だ。
僕が子供のころにはローラースケートが流行ったものだけれど、これは靴を履き替えるのが手間だ。
その点、この靴にはそれがない。
正直なところ、これを考えた人間は天才だと思った。
そのコロンブスの卵的な発想に満ちた商品に感銘を受けた僕は、折を見て怜に買い与えようか、ということを以前夏織さんに話していた。
「そうなの? きらめき通りの靴屋、まだ表に出してたと思うけど」
「だからあそこはつぶれる寸前でしょうが。どうせ売れないから表に出してるのよ」
「ああ、だから最近かかとで滑っていく子供を見なかったのか」
「よかったね、買わなくて。もうダサいんだって、それ」
夏織さんはそう言って笑う。
なんだか馬鹿にされたような気がして、僕は少しだけ落ち込む。
彼女らに気取られそうなのが悔しくて、顔に出ないように注意して、話をつなぐ。
「そういえばシャノワール、つぶれてたよ。靴屋のはす向かいの」
「え、じゃあもうモンブラン買ってきてくれないの?」
「きみんちの最寄りの駅前のケーキ屋のほうがおいしいんじゃなかったかな」
「でもモンブランはあっちのほうが好きなのよ。……前にも言ったわよ、これ」
会話に加わろうと、怜は声の音量を上げ、『コロコロのついた靴』がいかに格好悪いかを声高に訴えていた。
◇
彼と出会ったのは、二年くらい前になる。
わたしは、東京に住む友人の結婚パーティに参加するために新幹線に乗り込んでいた。
そのころはまだちゃんと喫煙車両というものが存在していて、煙草を吸う人間はそこに押し込まれていた。
服に煙草の臭いが付くのは嫌だったが、一時間の道のりを煙草を吸わずに過ごす自信も無かった。
ひどくいらいらしていて、疲れていたからだ。
昨夜の仕事は最悪に忙しかった。
今晩がヤマだと言われていた患者が病棟に二人いて、案の定そのうち一人は真夜中過ぎに危険な状態に陥った。
必死で彼の命をつなぎとめていたら、勝手に夜が明けていた。
申し送りを終えて、前日に用意していた重たいスーツケースを引っ張り、病院をあとにしようと思ったら、今度は研修中の新人に捕まって仕事の相談を受けた。
仕方ないので相手にしていたが、なぜか話題が彼女の付き合っているドクターの話になり、いい加減どうでもよくなって適当に話を切り上げ、自分自身の恋人に電話をする暇も無くタクシーに飛び乗った。
些細な一言が発端で、どうでもいい喧嘩をし、彼とはもう一ヶ月も連絡を取っていなかった。
出発の前に仲直りをするつもりだったが、もうタイムアウトだ。
わたしがホームに駆け込むのと、新幹線が到着するのはほとんど同時だった。
新幹線の自由席に座って、とにかく落ち着こうと、わたしはかばんからシガレットケースを取り出して、その軽さに気づく。
仕事の休憩中に吸ったのが、最後の一本だったことすら忘れていた。
「最高だわ」
最高に間抜けだった。
独り言が勝手に口から漏れているのに気づかないくらいに。
「煙草、無いんですか?」
隣から男の声がする。
淡白で乾いた声の男だった。
そういえば、同じ駅で列車に乗り込んだ気がする。
急に話しかけられて驚いた上に、どうにも不機嫌だったので、怒ったようなそっけない声が出た。
「ええ、そうみたい」
男はその声に特にたじろいだ様子も無く、ポケットから新品の煙草の箱を取り出し、「僕にもよくありますよ。そういうこと」と微笑んだ。
「だから、いつも何箱か持ち歩いてるんです」
そう言って、男はわたしの席のトレイの上に煙草を置いた。
見たことのない、黒い箱にインディアンの絵の描いてあるパッケージ。
「いいんですか?」
男は笑って言った。
「いいんじゃないかな、まだ二箱ありますから」
彼の行き先も東京で、同じパーティに出席しているのを知ったのは、それから一時間半くらい後のことだ。
あとでわかったことだが、彼――香坂修一は、わたしより年下だった。
落ち着いた乾いた声と切れ長の瞳が、彼を実際の年齢よりも成熟したように見せていた。
パーティの会場、中目黒にある小ぢんまりとしたイタリアンレストランで、カウンターのスツールに修一が一人で座っているのを見つけて声をかけると、彼は照れたように笑って言った。
「知っている人が居て、よかった」
ロットワイラーの仔犬のような笑顔が、なんとなく彼にはミスマッチな気がして、わたしは吹き出してしまう。
怪訝そうな顔をする彼に、わたしは自分の名前を名乗り、彼の隣に腰掛けた。
「こういうことって、確定事項なのかしら」
「確定事項?」と、彼は聞き返す。
「つまりは、えっと――奇遇だとか、そういったこと」わたしは答える。
「どういう風に説明したらいいのか難しいんだけど、こういう偶然って、いいかげんなドラマの脚本みたいじゃない?」
彼は、使い込まれたジッポライターを、華奢な指でもてあそびながら言う。
「いまのところは筋書き通りに進んでる?」
「その台詞も、いいかげんなドラマみたい」
わたしたちは顔を見あわせて苦笑する。
彼はグラスに残ったギネスビールを飲み干して、わたしの目を覗き込んだ。
「おかわりを頼もうかと思うんだけど、きみも何か飲む?」
「赤ワインを――」
頼もうとして、カウンターでグラスを磨いている若いバーテンダーが、こちらに期待の眼差しを向けていることに気づいた。
さりげない動きの端々に、意志のようなものがみなぎっている。
カクテルを頼まなければ、申し訳なくなってしまうほどに。
「バラライカをお願い。レモンジュースは少なめで」
カクテルには詳しくなかったが、バラライカの名前くらいは知っていた。
当時の恋人が行きつけのバーで毎回頼んでいたからだ。
「かしこまりました」
よく訓練された若いバーテンダーは誇らしげに一礼し、作業に取り掛かる。
「バラライカ、好きなんだ」
修一が言った。
無理をして注文したのが、なんとなくわかったのだろう。
「好き、だと思う。いや――きっと、なんとなくね。多分」
わたしの答えに、彼は再びロットワイラー犬の怪訝な顔をする。
修一と話すうちに、わたしは彼にいくらかの好意を覚えていた。
髪は清潔にカットされ、心もち神経質そうな、整った顔立ちに似合っていた。
シャープな黒のスーツを、気取らずに無理なく着こなしているところにも好感が持てた。
何より話が面白かったし、話を聞くのも上手かった。
わたしたちは自然に意気投合し、自然に連絡を取り合うようになった。
当然にデートを重ね、当然に寝た。
わたしたちは至極当たり前にかみ合っていた。
かみ合っていたと、思う。
衛星が惑星の周りを回るように、もしくは、カール・ベームと『影のない女』のように。
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