俺はどこにいるべきか

馬田ふらい

俺はどこにいるべきか

『せんせー、私の自殺を幇助ほうじょしてくれない?』


 仕事中の宛に一通、メールが届いた。何気なく開いた一文目に、は度肝を抜かれた。


 差出人は「篠目絵里花シノメ エリカ」、の指導生徒のひとりだった。


 ーーーーーーーーーー


 絵里花は彼の知る限り、明るくて元気溌剌といった感じの女子生徒だ。いつもグループの輪の中心にいて、学級内でも自分の意見をきっちりと表現できる子で、先生たちへの愛想もよく、敬語は使えないが、だからといって失礼な感じはしないという、模範的な「健全な子」だった。だから、この文面の破壊力だけでなく、そういう意味でもは驚いたのだが、しかしすぐに、調子のいい篠目のことだから、これはなにかの冗談だろう、からかっているだけに違いない、とは思い直して、それでも念のためメールに記載された「自殺幇助」の待ち合わせ場所と時間を確認してからメーラーを閉じた。


 放課後、一応は待ち合わせ場所に向かう。廊下は快晴の空が覗く窓から風が吹き抜けて心地よい。本棟の職員室に対して指定された教室は別棟にあり、そこに行くため橋のような渡り廊下を渡るわけだが、これには大方のペンキが禿げ上がって汚い赤錆びや真っ焦げ茶色の腐蝕が目立つ柵だけが両脇に設置されているひどく老朽化したもので、はこの上を何度も歩いたが一向に慣れず、今でも十分恐ろしいのだった。例に漏れず緊張しながらその橋を渡ったは、その満天の青空と思われたその片隅に、むくむくと綿雲の発生していたのに気づかなかった。


 教室の古い木製の引き戸はすでに開かれていた。彼は思い切って中に入る。その教室はちょうど日陰で外の青天とは対照的に薄暗く、縁のの歪んだ窓のせいで空気の循環も良くないので、なんとなく澱んだ雰囲気だった。


「せんせー、こっちだよー。」


 聞こえた声はいつも通り明るかったが、に近づいてきた絵里花の手には太めの麻紐が握られていた。


「綺麗に死ねる括りかたはググってあるから首に巻きつけるのは自分でできるんだけど、私の力じゃもう片端がきつく括れるかが心配だから、先生はそっちお願い。ほどけちゃったら、死ねずに骨折するだけかもしれないからさ。」


 飄々とした顔つきのまま、「死ぬ」「括る」という単語を連呼する絵里花に、はゾッとした。また、腹も立った。は「自殺幇助」を拒んで、今まさに首を括ろうとする少女に制止と説教を語調強めに試みる。が、


「それなら、先生、『死ぬな』っていうなら、なんで死んじゃいけないかを教えてくれる?」


 絵里花から笑顔が消えた。

 は少し考えて、腹を痛めて産んだ子に自分勝手に死なれたら親が悲しむとか、生きていればいいことがあると知っていながらそれ命をもろとも見在みすみす捨ててしまうのは勿体ないとか、道徳の教科書から引用した説明をした。あるいは、人の死に際して掛かる費用や、若者の自殺率増加が将来の労働者人口の低下につながり国家運営が難しくなるといった、現実的な視点でも話をした。しかしこれらは、要するに、は絵里花の自死欲求に一切の共感を示さなかったということで、したがってひと通り話終えてもなお絵里花は不満そうで、「でも」と彼女は反論を始めた。


「それってさ、全部『他人』の都合じゃん。親が悲しむから、お金がかかるから、労働力が減るから。で?死んだら私それ関係なくなるし、って感じ。二つめだって、『いいことあるよ』って自分が思い込みたいがために言う言葉じゃん。だって生きてきて明らかに辛い記憶の方が多いんだから。要は、どれもこれも『私を生かす』口実であって、『私が生きる』理由にはなんないわけ。ねえ先生、言ってみてよ、『生きる』理由を。」


 は閉口した。外の天気が悪くなり、ただでさえ暗い部屋がますます息苦しくなる。


「あ、やっぱり答えられないんだ。先生にもわからないんじゃ、私にも、誰にも、わからないのも当然だよね。それなのにみんな『死ぬな』って言う。誤魔化すのが得意なカウンセラーや、死にたい人と対極にいる人生の成功者のポスターを設置して、根拠も何もなしに説得する。『生きる』理由を教えられない自分たちの罪を認めず、いじめとか、家庭内暴力とか目に見える理由に責任を転嫁する。挙げ句の果てに、本質の問題を考えもせで、『死ぬのは弱いやつだ』なんてかす人までいる始末よ。」


 絵里花は自分が般若の面になっていることに気づいて、意識的に表情を緩めたが、ぎこちなさが残った。彼女は努めて穏やかに、しかし声の震えを抑えられないままに問いかける口調になった。


「ねえ、先生、なんか言ってくださいよ。答えてくださいよ。」


 実際、は何か反論したい気分だった。しかし何を言っても嘘になってしまいそうで、言葉が浮かばず、暗がりに小汚い染みだけが見える床板を情けなく見つめるばかりである。堪え切れず、絵里花の口調は烈しくなる。


「言えないんですか。答えられないんですか。だったら、『死ぬな』とか、軽々しく言わないでよ!」


 それは、生への不信が絶叫する瞬間であった。その甲高い声の、鋭い言葉は、薄暗い教室を紫電一閃に切り裂いて、瞬間教室はガラガラと轟音を上げて崩れ去った。そんな気がして、は震え上がった。本当は彼女を抱きしめて、心からの説得をすべき時だったのだろう、ところがはそれどころではなく、理性の軛から脱した本能は驚懼せしままに絵里花の声のした方に掴みかかり、薙ぎ倒し、なにやら罵声を浴びせた気もする、最後に俺は彼女の握っていた縄を窓から放り投げ、破壊するほどの勢いで扉を開けて教室から出た。


 正気を取り戻したのはかの崩壊しかけの橋の上であった。しかしその恐ろしさもその時の精神状態に比べれば微々たるものであった。はズカズカと音を立てて橋を渡る。さっきまで晴れていた空は見る影もない漆黒で、時折視界がパッと光って爆音が鳴っていた。


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 は帰宅後、風呂に浸かった。はっきり言って、今日のことは考えたく、早く寝てすっかり忘れようと思ったのだ。化学的には間違っているが、どうも疲労困憊の身体は40度の湯にも容易に溶解するらしく、どんどん湯船に飲み込まれて、意識も微睡みの中に溶けていく……。と、生暖かい流体が全身の孔から侵入する。鼻奥や喉元にじんじんとする痛みはの生命の危険信号だったのは明白なのに、重い身体は少ししか動かせず、その痛みを堪えるほかどうしようもなかった。すると、しばらくして凶悪な痛みは、なんとなく心地よく甘美なものに変質したような気がして、「君、ここいらで、諦めようよ。」と穏やかに言う優しげな声が聞こえた。声は続ける。


「ねえ、君。ここで頑張っても、いいことはないよ。むしろ、今君に見えている夢の世界への切符を手にする方が、明らかに有意義じゃないか。」


 はされど抵抗する。こんな幻惑に負けてなるものか。


「いやいや、に言っているのではないよ。君、つまりそこで見ている君に語りかけているんだ。なに、まだのふりをするか。なら、こうしてやろう。」


 声の主は手を伸ばして、俺の顔面に貼り付いた「・」を爪の先で摘むと、一気に向こうへ引っ張って、めりめりと顔の皮を剥いだ。痛みは感じないが、声の主の手にはと書かれた覆面があった。


「やれやれ、いい加減に『・』が鬱陶しくなったからね。それに、その態度もさ。ねえ、君。とても賢明な君なら、わかるよね。本当の、君はどこにいるべきなのか。本当は、なにを望んでいるのか。」


 この時、俺は初めて勘違いに気がついたのだ。俺は、どこにいるべきなのか。俺は、なにを望んでいるのか。

 俺は、至極正直に選択した。


 ーーーーーーーーーー


 ああ、俺はなんと数奇な運命にあったのだろう。俺は自分の思いに反して、そしての望み通り、きちんと目を覚まして、風呂場の床に横たわっていた。「ゲホッ、ゲホッ」肺に入った水を抜くその瞬間の、咳で身体が弾け飛ぶような、地獄のごとき心地よ!そして平常まで戻ると、は息を吹き返した。


 翌日、教室に来たはクラスメイトと楽しげに笑う絵里花を見て、昨日のは一つの気の迷いだったのだろうと安堵した。しかし俺には、


「なんだ、死ねなかったのか。」


 と残念がるような、失望するような気持ちもあった。


 絵里花はに気がつくと、振り向いて表情筋を動かす。しかし敏感にも俺は気づいた。彼女は、もう全く空ろな目であったことに。


 この日以来、俺は絵里花と顔を合わせることはない。

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