祖父 1

ぼくらは普段、「生」を意識せずに生きている。


何気なく会話し、何気なく時間を無駄にする。

生きていることが当たり前で、明日があるのが当たり前。

祖父母に甘えてダラける休暇が日常で、幼なじみと屈託なく笑うのが日常。


そんな中で「死」を経験した人は、どうなってしまうのか。

「死」と向き合うことが出来るのだろうか。


ぼくは、今の「ぼくら」には出来ないと断言出来る。


ぼくらは平和の中に生きている。

平和の中で死んでいく。

ぼくらはきっと、「死」と向き合うことから、目を背け続けてきたのだ。


――これは、一介の高校生である「ぼく」が、身近な人の「死」を実感したときに考えたことの話。


ーーーーーーーーーー


「生から死というのは、不可逆的な現象であり、可逆的な現象で表されることは無い。」


ぼくが初めて死を意識したのは、母方の祖父が亡くなった日だった。

心拍数は0から戻ることはなく、機械のアラームに嗚咽とすすり泣きの音とが重なり、不協和音を奏でていた。


そのときのぼくの感情はこうだ。「死ぬって、何なんだろう?」と。

例えばそれは、物理的現象から表されるものであるかもしれない。

呼吸が停止し、やがて心臓も停止、死に至る。これもひとつの『死』である。


しかしながら、『死』の数日まえに、祖父がぼく等の声に反応を示さなくなったとき。

このとき、祖父は果たして「生きて」いたのだろうか?


答えは、「Yes」だ。


祖父は、現在の日本社会に置ける「生死」の定義からすると確かに「生きて」いた。


けれども、ぼくの中では、このとき、祖父は「死んだ」のだった。

もう互いにことばを通い合わせることは無いのだと、アイスキャンディーを食べながら河川敷をぶらつくことは出来ないのだと、そうぼくが思った時点で、一度祖父は「死んだ」のだ。


祖父が「死んだ」と感じながら、ぼくは祖父が「死ぬ」まで、ひたすら声をかけ続けた。「きっと、この声も届いてる。おじいちゃんはまだ生きている。」そう一縷の望みをかけながら。


この二つの心理は、背反で、矛盾しているようにも思われる。

けれども、ぼくはこの二つの感情を同時に有し、そしてそれぞれの感情から導かれる行動をとっていた。

家では祖父との思い出を心に浮かべ涙し。祖父の前では懸命に声援を送り。


ともすると前者は、「もうすぐ祖父が死んでしまう」という恐怖感から生じた「擬似的な臨死感情」だと捉えられるかもしれない。

実際に、心のどこかで「まだ死んでいない」と思っていたことには、否定の余地がない。



だが、「既に死んでいる」と思っていたことも、また否定できないのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

死幸 㐂夕(たななばた) @penuzugu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ