オッフェルトリウム《月を蝕む祈りに》

大逆無道のキリエ

Ⅰ. イントロイトゥス 「永遠の安息を」

⑴「その呪いは人には話せないからね」



嗚呼ああ、潤いが足りない、足りないのだわ……」

 月奈ルナがぼそぼそと呟くと、図書室の長机テーブルの向かいに座る栞凛カリンが、お行儀よく小首をかしげた。

「ルナさん、いま何かおっしゃった?」

「いいえ、なんでもないわ……」


 月奈はたったいま読み終えたトーマス・マンの『ヴェニスに死す』に顔をうずめ、こっそりと溜息をつく。私もこの小説の主人公になって、絶世の美少年(!)と、とびきり耽美でプラトニックなひと夏を過ごしてみたいものね、などとはいくら親友である栞凛にも言えなかった。

 (カリンさんが文学を真面目に研究する熱心な文芸部員であるのに対し、わたしがこの部に入った動機のなんと不純なこと……)

 月奈はそれこそ月並みな言葉でいえばなるものだった。それも、美少年同士の禁断の恋物語を主食としていた。この『ヴェニスに死す』はおじさまの一方的な片思いではあるものの、とかく美少年タッジオの描写が素晴らしかった。月奈は、映画でのタッジオ少年の登場シーンを回想しては、ひとり悶絶した。栞凛は、ときどき本から目を上げて、挙動不審な月奈を心配そうに見つめた。


「ルナさん、なにを読んでらっしゃるの」

「なななななんでもないわ!ただの広辞苑よ!」

 月奈が慌てふためいて本を伏せると、栞凛は肩をすくめた。

「ねえ、ルナさん。もしなにか人に言えない悩みがあるのなら、ここにいる親友に聞かせてくださらない。文芸部の活動はこのくらいにしてお茶でもどうかしら」

「カリンさん、ありがとう。とても嬉しいわ。でもこれは自分との闘いなの。わたし、いつかこの手に自由の翼を勝ち取ってみせるわ」

「そ、そう。なんだかよくわからないけれど元気そうですわね」

「そんなことより、さあ!ティータイムですよ、カリンさん!」



               *

 栞凛との放課後のお茶会を終え、執事の迎えを待つあいだ、月奈は公園のベンチから向かいの男子校をぼんやり眺めていた。制服ブレザーを身にまとい、輝かんばかりの姿でじゃれあう少年たちが校門から出てくるたび、食い入るように見つめる。そして膝下からすらりと伸びる生足を心ゆくまで堪能すると、月奈は「明日も生きよう」としみじみ思った。これが生来せいらい女子高育ちの箱入り娘にとって、最も心を潤してくれる時間だった。幸せをかみしめている月奈の前に、黒塗りのセダンが音もなく停車した。

「お嬢様。……ルナ様!お迎えに上がりました」

「ちっ、思ったより早かったわね……。仕方ない、帰りましょう」



               *

 月奈を乗せた高級セダンが繁華街を離れ、ゆるやかな丘の道を上っていく。丘の斜面にはそれなりに大きな屋敷が立ち並び、高級住宅街として知られていたが、彼女の屋敷はその最も奥まったところにあった。セダンが白樺の並木が整然と並ぶ通りに入った。ここからは宝生ほうしょう家の私有地だ。前庭の英国式庭園イングリッシュガーデンの奥に佇む石造りの洋館が、仰々しく月奈を迎えた。

「お帰りなさいませ、お嬢様。本日はご友人と寄り道をなさったそうで。近ごろ頻繁ではありませんか?もう少し宝生家のご長女としての自覚を……」

 帰宅するなりばあやの説教がはじまった。いつもの事だ。くどくどと同じことを耳にタコができるほど聞かせてくる。

「ばあや、ごめんなさい。いつも心配をかけて。今日はね、落ち込んでいる友人の相談に乗っていたの。次からはもう少し早く帰るようにするわ。約束する」

 長年の勘で、こういう場合はしおらしく、しかし口を挟まれない程度にすばやく謝ることが最善の策だと知っていた。ばあやは口を開きかけたが、次に言うことを飲み込んで夕食の支度にいそいそと向かった。

 (はあ。わたしはまるで籠の中の鳥ね)

 こんな些細なやり取りでも、毎日毎日積み重なればそれは微量の毒となり、心をむしばむ。心の中で悪態をつき、月奈は重い足取りで自室に向かった。


 月奈が着替えて階下のダイニングに行くと、そこには珍しく父の姿があった。いつもならもっと遅くに帰ってきて、食事は会食で済ませていることが多い。だが今日はやけに機嫌がよさそうだ。しわが深く刻まれ、疑り深いその目は、今日はどことなく柔和な表情をしている。

「おお、帰っていたか、ルナ。今日はいい知らせがある。まあ、まずは食事にしよう」

 嫌な予感がする。母が亡くなって早三年、父はシングルファザーとしてますます月奈を厳しく育ててきた。そろそろ「再婚」の二文字を父の口から聞く日もそう遠くないと、予感はしていたのだ。月奈と父が席につき、たった二人だけの夕食が始まった。父はさっそくワインに口をつけたが、なかなか前菜に進もうとしない。月奈はいつまでたっても話を切り出さない父にじれったくなり、フォークを置いた。


「お父様。いい知らせって、一体なんなの」

父はその言葉を聞き、待ってましたとばかりに話し始める。

「ふふふ。実はな、お前にいい縁談があるんだ」

(!? そっちだったか……)

月奈の顔がみるみる青ざめる。そんな話は正直もっと先だろうとタカをくくっていたのに。

「取引先の社長の御曹司だ。なかなかのハンサムだぞ。それにあのオックスフォード卒だとか。今は婚約だけでいいんだ。ルナも当然大学に進みたいだろうからな」

「ちょ、ちょっと待って!わたしはその方とお会いしたこともないのに……まだ結婚なんてとても考えられないわ……」

「ルナ。それは困る。この宝生家の跡取りであるおまえは女の子だ。お相手には婿むこに入ってもらうことになる。少し早いかもしれないが、あんなに立派な経歴の青年はそうそう現れないぞ。しかも次男だ。条件が良すぎるくらいだ。なあ、よく考えて……」

 月奈ははじけるように立ち上がった。

「いやよ!時代錯誤もはなはだしいわ。結婚の相手は自分で決める。どうせお父様は自分の面子メンツしか考えてないんだわ!」

「ルナ!なんて言葉を!父親にむかって……」

 月奈はスープしか口をつけていなかったが、激昂していて食事どころではなかった。頭をかかえる父をよそに、自室へと階段を駆け上った。



               *

 宝生家・二階角部屋。 

なにやらぼそぼそと呟く声が廊下までもれている。

「ああ、もう……最低だわ。まだ恋だってしたことないわたしが、結婚?冗談じゃないわ。そもそもノンケの成人男性なんてアウト・オブ・眼中よ。この言い方、古いかしら……まあいい。自分の身体でさえ忌々いまいましいのに!この、女の身体じゃ、誰も愛せないもの……。この体は誰にも渡さないわ。ああ、こんなの呪いよ。誰にも言えない呪い。待って、こんなセリフがどこかに出てきたわね。思い出せない……。とにかく!わたしには美少年BLがあればそれでいいのよおお」


 そうは言ったが、実は腐女子であることは誰にもカミングアウトしていない。過去にたった一人、心を許していた大親友に趣味を共有するつもりで打ち明けたことがある。その結果、月奈の心に深く消えない傷がついた。彼女は翌日のうちに、親しくしていたグループ内でそのことを暴露してしまったのだ。由緒正しきお家柄の子女たちから当然理解されるはずもなく、その日から月奈は仲間外れにされた――。


 月奈はベッドに沈み込み、足をじたばたさせて絶望のまっただ中にいた。

「どうにかしてこの縁談を諦めてもらえないかしら。はあ……。家出、するしかないのかな。『しきたりだ結婚だ』って誰もうるさく言わないところに行きたいわね」

 ベッドの上でむくりと起き上がると、ふとパソコンが目に入った。

「同じような悩みを抱えた人がいるかもしれない」

 

 ひょんな思い付きだった。検索窓に「失踪 方法」と入力すると、思ったより多くの検索結果が出てきた。色々な人々がブログを書いている。中には集団自殺の同志を呼びかける怪しいウェブサイトも見受けられた。だが、まともなサイトはだいたい家出を思いとどまらせようとするもの、成人向けの方法しか提示していないものばかり。家出するのもそう簡単ではないようだ。月奈が半ばあきらめかけていた時、とあるタイトルに目がとまった。

「――この世界から完全に失踪する方法?なによ、それ」

 ページを開いても、ほぼ真っ黒な画面のままだ。そのままスクロールしていくと、下のほうに音声ファイルがぽつりと置いてあった。月奈が深く考えずにクリックすると、突然スピーカーから機械的な音声が流れ始めた。


【このページにたどり着いたあなた!あなたはとてもラッキーです。このURLは一日として同じではありません。メモをとるなどしてしっかり聞いてください。

 さて、あなたは今の人生に満足していますか。少なくとも今このページを訪れている方は、人生に少なからず不満を抱いているはずです。これからお話しする内容は、非常に有効で、しかし危険を伴う方法です。もう二度とこの世界に戻れなくていいという覚悟をもった方のみ、このまま音声をお聞きください】


 そこまで言うと、声の主は沈黙した。もう二度とこの世界に戻れない……。

「なんだか想像できないわね。あまりにもオカルティックだわ。信ぴょう性に欠ける。でも方法を聞くだけ聞いてみましょう」


【1分経ちました。まだあなたがそこで聞いているということは、覚悟がおありのようですね。いいでしょう。私が言う通りに行動してください。そうすれば扉はひらけましょう。――まず決行日ですが、いつでもいいというわけではありません。その月の第一日曜日、それがあなたの運命を変える日です。他の日に同じ方法を試しても効果はありません。くれぐれもお間違えの無きよう。……】


 月奈はカレンダーを見上げた。

「次の第一日曜日……って、明後日じゃない!あまり時間がないわ」


 声の主は続ける。

【準備はいいですか?では本題に入ります。まず――、××県の、日曜だけに開いている『子羊画廊』という名前のギャラリーに向かってください。××県にそういった名前の画廊はひとつだけなので間違いようがないでしょう。遠方の方は、覚悟がおありならご自身の判断でどうぞ。……】


 声の主がいう××県というのは、まさに月奈が生まれてから現在までを過ごしてきたこの場所だった。この奇妙な偶然に、月奈は少しだけ背筋が寒くなる。なぜ?東京や関東圏ならまだわかる。でも、この特徴に乏しいわが県が、どういった理由で選ばれたのだろう?


【さて、メモはとれましたか?無事、ギャラリーにたどり着いたら、一番奥まで進んでください。壁に大きな鏡がかかっているはずです。あなたはその鏡をのぞき込む。すると数字が見えるはずです。その数字を必ず覚えていてください。ギャラリーを出たら裏手に個人の貸金庫がありますので、さきほどの数字を言って一通の封筒を受け取ってください。そこで続きをお話ししましょう。では――】


 音声はそこで終わっていた。月奈の胸中はざわざわと落ち着きを失っていた。




――次回、「アリスは兎穴に落ちる」




 





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