光の黙示
らきむぼん
光の黙示
ナイフの切先が心臓の壁を切り裂いて進む感触を、ぼくは感じとった。その感触が本当に存在したのか、それとも妄想なのか、ぼくには判らない。
その弱々しい体躯は絶命するまでに一言も音を発さなかった。声にならない息の結晶がぼくの顔に触れた。身体がぐらりと揺らめく。ぼくの視界が揺れているのか、眼前の細胞の集まりが支えを失ったのか、それもよく判らなかった。
視界からそれは消えた。どうやら、倒れたのはぼくではないらしい。
視界が狭い。黒く縁取られた視界の窓の奥に黒い空が見える。
宙に浮いている。意識は体から離れ、空に舞う。夜空だった。男が見えた。その傍らに女がいる。
遙か上空には先程からずっと「何か」が在った。それは光っている。太陽やライトの明かりとは違う。光は風に揺れるカーテンのようで、寄せては返す波のようで、そして――「何か」を
光の粒子が粉雪のように舞降りた。あるいはぼくが光の雲間を上がっているのか。天から溢れた光の粒は視界の外までも
そして「何か」は光の中で、ぼくを呼んだ。
「これが『光』――」
*
「光……ですか」
女が絞り出した言葉はそんなあっけないものだった。僕としてはそれは致し方ないことだと思う。残念ながら、そんな光はこの世のどこにも存在しない。物理的には、だが。
「僕の言うこと、信じますか?」
意地悪な質問かもしれなかった。信じてなどいないだろう。見た者でなければ解らない。あの光は科学に当て嵌めるようなものではないのだ。それでも、アレは確かな現実なのだ。僕の脳内でどのような変化や異常が起きていても、僕にとってアレはリアルに違いはない。
「あなたの見た光は、いわゆる神秘体験だとか臨死体験だとか、その類のものですよね?」
「そうでしょうね。しかし、僕は『殺した』方であって、『死んだ方』ではないのです」
そう、僕は殺人者だ。十年前、僕は交際していた彼女を殺した。そして、僕はその時、光を見たのだ。赦しの光を。
「死んだ者……いや、死にかけた者がそのような光、あるいは三途の川や仏の姿を見る、または幽体離脱のような体験をする、といったことはよく聞く話ですが、殺した側にそのような現象は起きるものなのでしょうか」
女は無表情のまま静かに問うた。
どうも、彼女は他の作家や記者とは違う。少年法によって刑が軽かった僕は、去年の春に釈放された。それから、僕は自分が殺人者であることを隠そうとは思わなかった。殺人者とはいえ、僕は光を見たのだ。この社会で生きることを、僕は赦された。隠すべき罪は僕にはなかったのだ。だから僕には時々、作家や記者から取材の依頼が来る。
しかし、大凡の作家や記者は僕に対して直接的な物言いはしない。光の話の後などでは特にそうである。つまり、僕を「危険人物」と思っているのだ。
その点、今回の取材は毛色が違う。今眼前に居るこの女性記者は、「殺した側」などとハッキリと言うではないか。このような記者ならば、話したいことは存分に話せるのではなかろうか。
「本来、光を見るのは死の際にある者かもしれませんね。だが事実、僕はそれを生きながらにして見たのですよ」
「なるほど。では、これは私の推測に基づく質問に過ぎませんが、あなたは何故、その彼女を殺してしまったのでしょう? 私はもしかしたら、そこに光の意義があるのではないかと思うのですが」
やはり、この女は他とは違う。
「鋭いですね。まさにあの光は、僕の心に対する啓示だったのです」
「啓示……、では少々そのあたりの話を伺ってもよろしいでしょうか?」
女は冷徹な瞳を僕に向けた。そこに軽蔑や恐れは無いようだった。人形のような視線だった。
「僕が殺した女は殺されたいと望んだのですよ。そして僕はずっと殺したいと思っていた。だから愛し合った。そしてその互いの望みが成就した。たったそれだけのことなんです。世間は散々騒ぎ立てましたけれど、僕と彼女の間には、それ以上の何もなかった。シンプルな関係に無闇に色を付けたがったのは、社会の方なのです」
「……彼女は、亡くなったあなたの交際相手は、本当に殺されたいと望んだのですか?」
一瞬、彼女の目は凡人のそれになった。それを見て僕は少々の失望をしたが、しかしそのようなリアクションは彼女も人間であることを実感させた。
「殺されたいという欲求。それが異常であると、僕は思っていません」
「それは、どのような根拠で?」
「同性愛というものがあるでしょう。あれは人の愛し方の一つです。それを非難、忌避する時代などとうに過ぎた。今の時代、異常な愛など無いのですよ。愛する者に殺され、永遠にその人のものになるという愛は、何も映画や小説だけの話ではない。同性を愛せるのならば、殺される自分や殺す相手を愛せてもいいんです。自由と多様性の時代に到達して、僕達人間はより高尚な愛を実行できる権利を得るべきです。彼女にとって殺されることは真の愛の形だっただけなのですよ。彼女は自分の気持ちを抑制されていた。僕は彼女の感情を極限まで引き出しただけです」
「……なるほど。では、あなたが彼女を殺すことを望んでいたのはどのような理由ででしょうか?」
モノクロの目だった。また、この女からは色が消えた。もしかしたら、わざと感情を殺しているのかもしれない。それならば面白い女だ。僕が殺した女と似ている。自分の感情を表に出すという行為に、躊躇いを感じているのだ。そして、その先にあるのは他者による救済。感情を表に出す呼び水を欲しがっている。
「人を殺すという行為は、しばしばこう表現される。『命を奪う』と。しかしね、僕はそうとは限らないと思っています。『命を受け取る』とでも言い換えましょうか。僕は彼女を殺しましたが、彼女の命は奪っていない。彼女の愛はあの時極限にまで揺らいでいた。分かれ道に居たのですよ。だから僕は命とともに愛を受け取った。揺らめく大地に居るよりは、余程救われる。今でも彼女は僕の手の中で存在しています。光とともに、彼女は僕と一つになった」
「あの、先程から、亡くなった彼女には迷いや悩みのようなものがあったというような表現をお見受けしますが、彼女は一体何を抑制し、何に揺らいでいたのでしょうか?」
「先ほど申し上げたように、愛には幾つもの形がありますね。僕が例に挙げた同性愛がその一つです。彼女は同性愛者の友人に好かれていた、もちろん友としてではなく恋愛対象として。そして、僕の彼女は同性愛者ではなかった。そこで揺らいだんですよ。僕と彼女は愛し合っていたが、同性愛者の友人からの愛を否定できなかった。拒否すれば、それはまるで『同性愛』自体を否定したような罪悪感を感じてしまう。彼女は僕を選んだが、それは友人を捨てることとはイコールにならなかった。だから彼女は僕によって殺されることを望んだのです。殺され、僕と一つになることを願ったのです。そうでもしなければ何も決定できない所まで来ていたんです。僕達の愛の形は同性愛者のそれと同じです。どちらかを否定してどちらかを肯定するということはできない。ただひとつ、僕と彼女は自分の意志に従ったというだけのことなのです」
「…………」
女は黙った。彼女にも何か思うところがあったのだろうか。僕は彼女の目を見た。感情が見える。何色か判らぬ色。この女は何を感じたのか。
「あの」
ようやく口を開く。次は何を聞く?
「その性同一性障害の友人は、今どうしているのでしょう?」
女の取材は、既に終わっていた。
「……さあ。死んだかもしれませんね。僕には関係ないことです」
*
その日の夜、僕は住居から数分のところにある遊歩道を歩いていた。
――もう一度、光を見れるかもしれない。
結局のところ、僕が十年前に交際相手を殺した理由は、この光のせいかもしれなかった。
僕が彼女を永遠に所有していたいと思っていたのは事実だ。そして、それには彼女の死を手に入れる必要があるとも思っていた。そして、彼女は性同一性障害の女性から恋愛感情を持たれ、僕とその友人のどちらを選ぶべきかで追い詰められていた。これも事実だ。あるいは、これは僕も真相は知らないのではあるが、彼女はバイセクシャルであったかもしれない。それか本気で善性の権化だったのか。少なくともそれだけ本気で別れ道に立ち止まっていた。
だが――たとえそうであっても、僕が人を殺すのはあまりに道を外す行為だ。僕は異常者を演じているだけだ。結局、あの記者にも異常を演じ続けた。僕とて、殺人の重みは解っている。それでも、それ以上の欲求が目の前にあったのだ。その点では本当に異常だったのかもしれない。
その欲求は、赦しだ。何から赦されるのか、それさえも判らない。僕はその圧倒的で絶対的な「光」に誘われた。目の前で殺されたいと望む女を殺すだけで、その超越的な光は何かを与えてくれる。
「そうだ、光は『殺す前から』見えていた」
歩きながら夜空を見上げ、僕は口に出してそう言った。
実際は、殺した直後に光が見えたのではない。光が見えたから殺したのだ。
彼女を殺した夜、僕は上空の光に気付いた。光は粒子であり波であり、皓く雲のように流動的に揺れるものだった。その光の奥に「何か」が在った。
そして、それは「命」だと僕は思った。命が輝いている。
目の前の女は既に死んでいる。肉体の生に縛られた死んだ心。心が死ぬ瞬間の皓き輝きなのだ。僕はその皓い輝きの奥に在るものが、一体何なのか知りたくなった。
夢の様な心地から覚醒した時には彼女の命は完全に解放されていた。僕が解放したのだ。だが、僕はあの光の奥にある「何か」には届かなかった。
あれからずっと、僕は光を探している。あれが一体何なのか。
僕には一つの不確かな解答がある。それが合っているか否かは不明であるが、あの光は僕だけの特有のものではない。あの女記者が言っていたことは外れていない。
そう、臨死体験だ。人が死ぬ間際、あの光は顕れることがある。人によってはその光は「キリスト」であったり「神」であったり「仏」であったり、姿はまちまちだ。これが真実である。古代からこの「光」はある。宗教的なものなんかじゃあない。どの宗教にも見られるのならば、それは宗教が作ったものではなく、人間の根源的体験なのだ。
死ぬ瞬間、命が解放されるその瞬間、人は聖なる光を見る。それは虚言ではない。本当に見ているのだろう。「見る」とは視覚からの情報を脳で受容し脳内で反応が起こることによって生じる。命が解放されるその瞬間に「脳が変わる」ことで光を得ることができるのだ。
僕はあの時、彼女と既に一体化していたのだ。だから光に出会った。だが、僕は生きている。それが光の奥の「何か」を感じ取れなかった理由に違いない。それは単なる死では獲得できない領域。聖なる死が必要だ。
だから――今日がその日になるかもしれない。
――ザッ。
そんな音が、短く背後で鳴った。地を踏みしめる音。ついにその時がやってきたのだろう。
「僕を殺しに来たんでしょう?」
そう言いながら、振り返ってそこにいる人間の目を見た。
「あぁ。やっぱり、あなたはモノクロの目ですね」
――さあ、僕に聖なる死を与えよ。
*
目の前にいたのは、昼間に取材に来た記者の女だった。遊歩道の電灯で、姿は仄かに照らされている。右手にナイフを持っていた。
女は静かに口を開いた。
「何故、私があなたを殺しに来ると判ったのですか?」
色のない目はジリジリと近付いて来る。僕は目線を逸らさなかった。
「解っていましたよ。僕はずっと、彼女の友人を表現するときに『同性愛者』と言っていた。だが、あなたは最後の質問でそれを『性同一性障害』と言い換えた。無意識の行為でしょう。自分のことだから、正確な表現を使ってしまった」
「……なるほど」
同性愛と性同一性障害は完全に異なる。一般には未だ浸透していないのかもしれないが、僕は仮にも交際相手の困窮の原因としてそのワードがしばしば現れるのだから、当然その差異点は判る。同性愛は文字通り同性を愛する性質だ。心も身体も女性である人が女性を好きになればそれは同性愛に当たるだろう。一方、性同一性障害の女性は心は男性である。つまり「同性愛」ではなく「異性愛」には違いない。ただ、恋愛対象と身体が同性であるだけだ。もちろん、これはあくまで簡易的な定義に過ぎないが。
「僕の認識に間違いはないですか? 殺されるなら判然とさせておきたい」
「安心してください。あなたの認識など知りたくもないですから、私が話します。まず――」
「待ってくださいよ。この死は僕にも重要だ。こんな時くらい、その色のない目はよしてください」
「…………」
そこで、女は初めて憎悪の色を、瞳に宿らせた。仮面の女が、一人のオトコとなった。息がかかりそうな程に、女は近づいて来た。何を語るのか。光を――光を導いてくれ。
女は僅かに低い声で語り始めた。
「ぼくは、彼女が好きだった」
女は一人称を〈ぼく〉に変えた。
「ぼくは彼女に誓ったんだ。君の恋は邪魔しない。ぼくがただ、好きであることを伝えたいだけなんだって。彼女はそれを理解してくれた。だから、あなたが言ったような、困窮なんて信じられない」
なんだこの女――そんなことはどうだっていい。ありふれたことを喋るな。
光を――光を導け。
「それは半分当たってますよ。だが彼女に近かったのは僕だ。僕の方が真実に近いところにいる。あなたは認めたくないだけではないか」
「違う! ぼくは彼女があなたに恋していたことを知っていたし、だからこそぼくはそれを邪魔しないと言ったんだ! 彼女はそれを解ってくれていた!」
違うのはお前だ。そんなことを聞きたいんじゃない。聖なる死に相応しい、もっと高尚な理由を、もっと神聖な愛を――
「あなたは自分で自分の嘘に気づいているはずだ。先程からあなたは『恋』等という単語を使っている。その言葉のニュアンスを捉えなさい。それは主観的なものだ。あなたが彼女に『恋』などという単語を使ったならば、それはあなたの願望を伝えたに等しい。彼女は僕と愛を既に成立させていた。そこに邪魔も何もない。あなたの宣言が、彼女を追い詰めたに相違ない」
「嘘だ! ぼくは……!」
僕の求めていたのはこんな俗っぽい語りなどではない。この女、記者になってまで僕に探りを入れたくせに、一体いつまでそんな三文小説のようなことを――――くそ、眩暈がする。
「僕はあなたを非難しているわけではない。寧ろ感謝している。彼女が精神の死を迎えなければ、光は見えなかった。――そうだ! あなたには今何かが見えているか? 光は見えないか? 見えないんだな? そうだ、やはりあの光は心が解放されなければ見えないんだ! いや、待てよ、一体化していないから見えないということもあり……え……――ッ!」
ぐわん、と視界が捻れた。女の顔が眼の前にある。胸に視線を下ろすと、僕の胸にはナイフが直角に突き刺さっていた。
ふざけるな……まさかこの女、僕を刺したのか? 神聖な理由も、神聖な愛も無しに。高尚な死に相応しい何かをたった一つでさえ語らずに――
「…………――っ!」
叫びを上げた。だが、どうやらそれは声にならずに空気の塊と化したようだった。
夜空が見えた。僕の体が倒れたのだろう。電灯が、仄かに光っていた。
――光。そうだ……光はどこだ。電灯じゃあない光。僕の光。光の中の――聖なる「何か」は――何故だ――何故あんな女に僕は――僕の求めるものは――
視覚が閉じるのが解った。暗黒だ。何も見えない。電灯の光さえ……女の姿も……見えない。聴覚だけが、僅かに生を保っている。
死ぬ。これが死なのか。僕は――
「これが『光』――」
光ッ――? あの女は「光」を見ているのか? 何故だ――僕に見えない光が何故――あんな女に―― 何――故だ――なんで――
闇に溶け入るように聴覚さえも消滅し、完全なる暗黒の世界で、僕の精神は慟哭した。
了
あとがき
読了感謝します。
この小説は少々難しいかもしれません。というのも、結局「光」の正体には作者自身が理解の及ばないところがあるからです。この「光」は僕の創作したものではなく、作中でも説明した通り、臨死体験の際に多くの方が実際に体験しているものです。男が光に強い執着を持っていたのはそれが赦しや感謝のような感情を付随させるものだからです。つまり「多幸感」に取り憑かれていたんです。最期に光を見ることが出来なかったのも、執着心が邪魔をしたからと考えられるかもしれません。しかし男の言う「生命の光」というのは悪くない説で、「生命そのものの光」というのが光体験の解釈では定説の一つです
トリックについては今思うと、どうせ見破られるので反則的なことをしています。視点を変えてしまうのは本格ミステリ的にはおそらくアウトでしょう。そういう趣旨ではないですけれどね(笑) ちなみに取材が終るところにある「女の取材は、既に終わっていた。」という文はヒントです。「女」としての質問は終えていたという意味で、あの時点で男は女性記者の正体に気づいていました。
人間は死ぬ際に聴覚が最後まで残る感覚だそうですね。その説が本当かどうかは死んだことがないので判りませんが、真実だとすると、女性記者が男の絶命した瞬間と捉えている時点と男が実際に死んだ時点は一致しないんです。プロローグに若干その辺を匂わす感じがあります。
というわけで、こちらは2012年に書いた短編でした!(またも過去作を使い回してしまった)
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