Vladimira外伝

戸松秋茄子

吸血鬼とポーカーフェイス

 吸血鬼は鏡に映らない。


 ヴラディミーラと出会ってから、鏡を見る度にそのことを意識するようになった。常に持ち歩いている手鏡、部屋の姿見、洗面台、エレベーターの鏡、スマホのディスプレイ、水たまり。思わず立ち止まり、自分が未だ人間の側にとどまっていることを実感する。


 背は少しだけ高い方だ。もうすぐ一六〇センチの大台に届く。帽子をかぶっていることが多い。なんとなく守られている気がするから。髪は肩に届く前に切ってしまう。肌のトラブルとはいまのところ無縁だ。唇は薄く、鼻も低い。目はいつも眠たげで、瞼の上げ下げさえ億劫そうに見える。深い暗色の瞳からはいかな感情も伺えない。口で笑みを作ってみても、目は死んでいる。


 それが、わたし。


 箱崎いむる、十三歳の肖像だ。


   ††† †††


「もう、自分がどんな顔だったかも覚えておらんよ」


 ヴラディミーラは背を向けたまま言った。表情は確認できないけれど、嘘ではないだろう。彼女が吸血鬼になったのは戦後間もなくのことだった。幼い容姿からは想像がつかないけど、実年齢は八〇を超えているはずだ。そんな年のおばあちゃんなら、なるほど、子供のときの顔を忘れてもおかしくない。


「鏡に映らないのはしょうがないけど」わたしはヴラディミーラの髪に櫛を通しながら言う。「だからって寝癖をほっとくのは女の子としてどうかと思うよ」


「ふん、大きなお世話じゃ」


 プロ野球の交流戦も佳境に入った時期だった。ヴラディミーラご贔屓の阪神タイガースは、交流戦を勝ち越しで切り抜けられるかどうかの瀬戸際に立っていて、ヴラディミーラも心なしかぴりぴりしているようだった。わたしに髪をすかれながらも、化粧台の上にコンポをどっかと置き、AMラジオのナイター中継に耳を傾けている。


「そうは言いつつ、いつも大人しく櫛を入れさせてくれるよね」


「たわけ。我が大人じゃから付き合ってやってるんじゃ」ヴラディミーラは言う。「子供のお人形遊びにな」


 お人形遊びというなら、その通りなのだろう。寝癖を整えるだけなら、いつものサンルームでもできる。面倒くさがるヴラディミーラを引っ張ってわざわざ寝室まで移動したのは、一度その部屋の化粧台を使ってみたかったからだ。化粧台は他の家具同様、立派なアンティークだった。埃をかぶらせておくのはもったいない。たとえヴラディミーラの姿が映らないにしても「お人形遊び」に使うことくらいはできるだろう。そう思ったのだ。


 吸血鬼は鏡に映らない。


 鏡の中にはパントマイマーが一人いるだけだ。眠たげな瞳の少女が一人。体の前で櫛を上下させ、ときおりつっかえながら何度もその動作を繰り返す。そこにヴラディミーラの姿はない。梅雨の湿気で広がった髪も、長く鋭い犬歯も、瞳孔が開き切った瞳も、何も。ときおり、無人の椅子がわずかに揺れるだけだ。


 寝癖が落ち着いてきたところで、髪を手に取って束にする。少し癖はあるものの健康的な髪だ。なんだかんだでお嬢様というのは本当なのだろう。戦後間もない時代にこれだけ長い髪を維持できていたのは衛生面においても健康面においても恵まれていた証拠だ。それを乱れるままにしていては、彼女のご両親にも申し訳が立たないというものだろう。


 試合が白熱しているらしい。ヴラディミーラはすっかり聞き入っている。前のめり気味の姿勢と、「おお」という唸り声がそのサインだ。計画通り。思わず笑みが漏れる。目は死んだまま、口の端だけが吊り上がった不気味な笑み。鏡の自分と目が合って、思わず目を伏せた。


 ヴラディミーラは凝ったヘアアレンジを嫌う。寝癖がひどかった日にギブソンタックにしてあげたことがあるのだけれど、「落ち着かない」とすぐに解かれてしまった。もったいない話だ。これだけの長さがあればもっといろんなアレンジができるのに。


 鏡の中で、再びわたしの両手が踊りはじめる。新たに髪を束にして編み込み、ぐるぐる巻いてピンで留める。右が終わったら、左へ。上が終わったら下へ。何度も同じ作業を繰り返す。焦りから何度か手を滑らせたが、ヴラディミーラが気づく様子はない。ラジオに熱中して頭がお留守になっている。


「って、おい。さっきから何をしておる?」


 ヴラディミーラが気づいた。振り向こうとする彼女の頭を無理やり押さえつける。


「な、何を」


「動いちゃダメでしょ」小さい子に言って聞かせるように言う。「じっとしてて。手元が狂っちゃう」


「え? あ? はい?」


「もう少しの我慢だよ」


 数分後、ヘアセットが完成した。


「な、なんじゃこれは……」


 まるで時限爆弾でも検分するような表情で、自分の頭をまさぐるヴラディミーラ。きっとどういう形状か把握しようとしているのだろう。しかし、編み込みを複雑に駆使した髪型は彼女の理解力を超えていたらしい。やがて、匙を投げた爆発物処理班のような表情でこう叫んだ。


「答えよ! 我の髪に何をした!」


 鏡の中で、無人の椅子ががたがたと揺れた。


   ††† †††


 神戸は塩屋の小高い丘に佇む瀟洒な洋館がヴラディミーラの住まいだった。塩屋台のマンションからは坂を下って十五分ほどで着く。茂みに隠れた白い門扉は、わたし以外の人間には見ることができない。はじめてその門扉をくぐった日、わたしは彼女の「眷族」になった。眷族は言うなれば吸血鬼の見習いだ。彼女の後継者として吸血鬼のあり方を学ぶのがその務めだという。ヴラディミーラが言ったことだが、本人がどこまで覚えているかは怪しいものだ。AMラジオのナイター中継を聞きながら雑談したり、庭でキャッチボールをするのが「吸血鬼のあり方」とはとうてい思えない。


「いっくよー」わたしはボールを構えた。


「来るがよい」ヴラディミーラは、グローブを叩いてパンと鳴らした。


 わたしは振りかぶり、ボールを投じた。ボールはヴラディミーラのグローブを避けるようにして奇妙な軌道を描き、彼女の顔面へと吸い込まれていった。


「ぐべ」


 素っ頓狂な声を漏らしてその場に倒れるヴラディミーラ。「吸血鬼は痛みを感じない」と言っていたのはどこの誰だろう。オーバーリアクションにもほどがある。


「ごめーん。ぶつけちゃった」


 食ってかかられる前に謝っておいた。しかし、どうしたことか、いっこうに返事がない。まさかと思って近づいてみると、そこには仰向けのまま目を回す自称吸血鬼の姿があった。


「大丈夫?」


 呼びかけながら、頬を何度か叩くとようやく目覚めた。


「貴様!」勢いよく上半身を起こす。「何じゃ、いまの球は! ジェフ・ウィリアムスよろしくのスライダーを投げよって! わざとじゃろ! わざとなんじゃな! 乱闘も辞さんぞ!」


「ごめんね。なんかボールが変に指にかかっちゃって」


「わかったようなことを抜かしよって! 失投であんな惚れ惚れするような軌道のスライダーが投げられるものか! 今度、投げ方を教えろ!」


「でも痛くないんでしょ。ボールもそんなに速くなかったし」


「嘘だ! 速かった! 全盛期のウィリアムスと比べても見劣りしなかった!」


「わたしの細腕じゃそんなの投げられないよ」


「知らん! ボールは腕だけで投げるものじゃないし! 全身のバネとか重心移動とかなんか他諸々で速くなってもおかしくないし!」


「そういう問題じゃなくてね」


 そう言って、ボールが当たった場所に触れようとした瞬間だった。


「ひえっ」


 ヴラディミーラは尻もちをついたままわたしの手をかわした。そのままお尻をひきずりながら後方へと逃れていく。目にも止まらぬ速さだった。吸血鬼というよりは、蜘蛛とかゴキブリとか、そういうものの動きだ。


「そこまで怯えられると傷つくなあ」


「せ、戦略的撤退じゃ! 乱闘にならないだけ感謝しろ!」


 微妙に噛み合わない言い訳をするヴラディミーラ。どうやら本気で怯えさせてしまったらしい。距離があっても、まだ震えているのがわかる。こうなったらキャッチボールを再開する手段は一つしかない。


「ほら、こっちはまだ一球もキャッチしてないよ」わたしはグローブを示しながら言う。「ミラぽんの剛速球を受けてみたいな」


 その瞬間、ヴラディミーラの肩がぴくりと反応するのを、わたしは見逃さなかった。


 おだてにおだてて数分後、そこには肩をぶんぶんと振り回すヴラディミーラの姿があった。


「くくく、怪我をしても知らんぞ。謝るならいまのうちじゃ」


 投球モーションに入るヴラディミーラ。誰の真似なのか無駄に大掛かりだ。試合ならボークを取られていただろう。振りかぶった後も、テークバックでたっぷり間を取ってから、ようやく腕を振り下ろした。


「渾身の一球を受けるがよい!」


 体勢を崩しながら吠えるヴラディミーラ。しかし、狙いは正確だ。彼女が投じたストレートは、胸の前で構えたグラブに収まった。


 ぽふっ、というかわいらしい音を立てて。


「ナイスボール」


「なあああああ! なんじゃ、その捕りごろのボールありがとう、みたいな! けろっとした顔で捕りおって! いや、けろっとしてるのはいつも通りか……とにかくもうちょっと、その、のけぞるとか……しろ! 我の沽券にかかわる!」


「はいはい。次からね」わたしは軽く流した。「じゃあ、投げるよ」


 すると、ヴラディミーラは顔の前でグローブを構えた。腕はがたがた震え、顔はグローブから背けられていた。


「危ないよ?」


「誰のせいじゃ! 誰の!」ヴラディミーラはこっちを見ないまま叫ぶ。「もう顔面死球はごめんじゃからな!」


「もうしないってば」


「ああっ、いまさらっと故意と認めよったな!」


「冗談だよ」


「嘘だ! 冗談に聞こえない! 怖い!」


「子供じゃないんだから」苦笑したい気分になった。「大丈夫だよ。あんな球、まぐれじゃなきゃ投げられないって。今度は指にかからないように注意するから」


 ボールを握ったまま掲げて見せる。縫い目に指をあてがった握り。いわゆるフォーシームだ。


 しばらくの間、グローブ越しにおっかなびっくりこちらを覗き込んでいたヴラディミーラだが、やがてこう言った。


「絶対じゃぞ」


「うん、絶対」


 わたしはボールを投じた。今度は曲がらなかった。ボールは猛スピンを利かせながらヴラディミーラの顔面へと一直線に吸い込まれていった。


   ††† †††


 ヴラディミーラは館の一室を物置として使っている。グローブやボールもそこから持ち出したものだ。金属バットもあったのだけれど、ヴラディミーラがどこかに隠してしまった。


「汝にアレを持たせると怖い……いつか殺される気がする」


「大げさだなあ」


「五回もぶつけたじゃろ! 五回も!」


「いやだなあ、正確には六回だよ」


「余計に悪いわ!」


「だって、すぐすっぽぬけるんだもん。あのバット、グリップテープを貼りなおした方がいいと思うよ」


「毎度毎度ぬけぬけと!」びしっと指を立てる。「言い訳は無用じゃ。窓を割ったことも一度や二度じゃないじゃろ。忘れたとは言わせんぞ!」


 吸血鬼が自分の縄張りと定めた場所は、時間の流れが止まる。正確には、同じ一日を繰り返すことになるらしい。窓が割れても次の夜が来れば元に戻っているというから実験してみたのだ。何も、尾崎豊みたいな衝動にかられたわけじゃない。


「だからって、館中の窓という窓を叩き割る必要がどこにある!」


「寝室の窓は割らなかったはずだけど」


「その配慮が余計に腹立たしいんじゃ! 想像してみろ、表情一つ変えず自分の家の窓を片っ端から割っていく女子中学生の図を! どこの誰とは言わんが、家の主は寝室の隅でぶるぶる震えとったんじゃからな!」


「その誰かさんはむしろ女子中学生に怯えて寝室の隅でぶるぶる震える自称吸血鬼の図が世間的にどう見えるか想像してみた方がいいんじゃないかな」


「むきー、喧嘩を売ってるなら買わせてもらうぞ!」


「買うって言えば、バットっていくらくらいするのかな」


「我の話に飽きるな! そして、凶器持ち込みの算段をするな! メッ! ダメじゃからな! 絶対! 吸血鬼の家でバットを持たず、作らず、持ち込ませず!」


「木製ならまだ怖くないと思うよ」


「ぶつける前提で考えるな!」


   ††† †††


 セパ交流戦の時期は、移動日が多くなる。二日おきに野球中継が休みになるため、ヴラディミーラは別の方法で暇を潰す必要があった。


「やっほー、いじめに来たよー」


「もはや隠す気もなしか!」


 寝起き早々テンションの高いツッコミを入れてくれるヴラディミーラだった。


「ごめんごめん、わたしもいまのが冗談だったらいいのにって思ってるよ」


「やっぱり本音か!」ヴラディミーラはそこでふんと鼻を鳴らした。「おのれ、いじめられるものならいじめてみろ。今日という今日は絶対に負けんからな」


「望むところだ!」


 ヴラディミーラは勝負事が好きだ。対戦型のおもちゃやゲームではいつも我を忘れて熱中する。負ければ決まって再戦を望み、こっちがわざと負けてあげるまで何度でも挑んでくる。


「今日は何にする?」


 その日は、ヴラディミーラがそこらで拾って来たボードゲームで対戦することになった。アメリカ生まれのゲームらしく、イラストやデザインのセンスに異国情緒が感じられた。ゲームシステムはどこかで聞いたことがあるようなもので、とにかく資産を集めて相手を破産させた方が勝ちというシンプルなルールだった。


「ふっふ。負けても恨むでないぞ」


 きっと一人で練習したのだろう。自信がありありと窺えた。


「じゃあさ、負けた方は罰ゲームを受けることにしない?」


「よかろう。後で後悔するなよ」


 すっかり調子に乗っている。あとで後悔することになるのに。


 ゲームは最初ヴラディミーラ有利で進んだ。彼女はサイコロを振る度に資産を増やし、わたしの不動産を奪い取った。ヴラディミーラは得意げな様子で鼻を鳴らし、わたしを憐れみさえした。しかし調子がよかったのは最初だけで、後は下り坂になった。サイコロの神様がわたしに味方しはじめたのだ。ヴラディミーラはみるみるうちに資産を吐き出し、借金で首が回らなくなっていった。破産は時間の問題となり、ヴラディミーラは祈るようにして手を握り合わせ、何かぶつぶつと唱えながらサイコロを振り投げた。しかし、勝利の女神がいったん見捨てた相手に微笑むことはついぞなかった。


「うぎゃー!」


 破産が決まるやいなや奇声を上げるヴラディミーラだった。


「じゃあ、罰ゲームね」わたしは冷たく言い放った。「今回の罰はこれ。館の中で花火大会」


「はあ?」思わずといった様子で聞き返すヴラディミーラ。それからようやく理解したように、「待て待て待て。この館は木造じゃぞ? ダメ。絶対ダメ」


 わたしは無視して、 


「さーてと、物置から花火取ってこようっと」


「あんなのもうとっくに湿気て……」そこでようやく気付くヴラディミーラ。「しまった! 湿気ないんだった!」


 そうして、わたしは館の中で花火大会を楽しんだ。線香花火にねずみ花火、爆竹、打ち上げ花火。見物だったのは、火が床に燃え移って激しく燃えはじめたことだ。わたしたちは外に避難し、館が炎上するのを見物した。館はきれいに燃えた。めらめら、ぱちぱちと音を立てながら燃え続け、ときに大きな音を立てて屋根や壁が崩れ去った。炎は館を焼き尽くし、やがて周囲の緑をも燃やしはじめた。それでも、周囲の住民が火に気づいた様子はない。消防車が呼ばれることもなく、わたしたちは炎がヴラディミーラのを焼き尽くすのを心ゆくまで鑑賞できた。


「鬼! 悪魔!」


   ††† †††


「ねえ、なんでいつも付き合ってくれるの」


 ある日、ふと気になって尋ねてみた。


「ふん」ヴラディミーラは不承不承といった様子で言った。「たまにじゃが、本当に楽しそうな顔をするときがあると思ってな」


 そのとき、わたしはいったいどんな顔をしたのだろう。ヴラディミーラは、どこか拍子抜けしたような顔で言った。


「なんじゃ、悪魔らしくない顔をしよって」


   ††† †††


 朝、洗面台に向かったときそのことを思い出す。顔を洗い、鏡の前でしばらく、自分なりの笑顔を作ってみる。


 何度試しても、楽しそうには見えなかった。


   ††† †††


 今宵もわたしは館を訪れる。


「来たか」ヴラディミーラは努めて素っ気なく言う。「今日はどうする? キャッチボールでもするか」


「自分からどうしたの?」


 わたしは驚いた。いつかの一件以来、ヴラディミーラはキャッチボールを避けるようになっていたからだ。


「暇じゃから付き合ってやると言ってるんじゃ。早くしろ」


 わたしはヴラディミーラからグローブとボールを受け取った。


「ふふ」わたしはわざとらしく笑ってみせた。


「なんじゃ?」


「ミラぽんはわたしのこと大好きなんだと思って」


「たわけ」ヴラディミーラは照れ隠しのように言った。「何度も言ってるじゃろ。我が大人だから付き合ってやってるんじゃ。汝のようなアンファンテリボーの受け皿など社会にはそうそうないじゃろうからな。いわば、社会福祉の一環じゃ」


「はいはい」


「絶対信じとらんな」ヴラディミーラは不満げだ。


 わたしはボールをグローブと手の間で行き来させながら距離を取った。


「ねえ」わたしは言った。「いまのわたしは楽しそうに見える?」

   

   ††† †††


 じきに、わたしは鏡に映らなくなる。自分の顔さえも忘れて、寝癖もそのままにするようになるだろう。わたしはわたしの顔に別れを告げる。その日がもうすぐやってくる。


 そのときまでに一度でも笑えれば、少しは自分の顔が好きになれるだろうか。

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