紫陽花に似ているといわれたから


 深く冷たい海で溺れていた。

 潮の流れに身体の自由を奪われ、呼吸は水飛沫に邪魔をされ、生まれて初めて死という存在を実感していた。

 ただ私は泳ぎたかっただけだった。

 どこまでも広く、自由で、限りのない蒼海を望むままに泳げたらどれだけ気分が良いものか知りたかっただけだったのに、それは叶えられない。


『あはは。本当にあんたは泳ぐのが下手だね』


 足のつかない暗闇の中で、姉がからかうように笑っていた。

 濡れた髪を掻き上げ、強い光を携えた瞳で見つめながら、そっと私の小さな手を取る。


『ほら、力を抜いて。怯えちゃ駄目。泳げないなら、浮かべばいい。何も怖れないで。あんたはあんたのままで、十分に飛べるよ』


 姉はよく、空を見上げていた。だから姉は自然と顔が俯いていしまう雨の日が嫌いだと言っていた。

 私の知る限り、誰よりも速く地面を駆け抜け、誰よりも上手に海を泳ぐ姉は、いつだって空に恋い焦がれていた。

 そしていつも、泳ぎ方も、走り方すらも知らない幼き妹に言うのだった。


『ツカサにも翼はちゃんとあるよ。ツカサだって飛べる。ただあんたは飛び方を知らないだけ。降りしきる雨の中でも、あんたはちゃんと上を向ける。だってあんたは紫陽花に似ているから』







 気づけば白い石畳の道を、私は一人で歩いていた。

 道幅は狭く、人が一人分歩く程度の広さしかない。

 両脇には優雅に蒼い空を泳ぐ雲が見え、自分がいる場所が天空回廊のような場所なのだと理解できる。でも下の方を覗き込んでみても、真っ青な空と白雲が続くばかりで、何も見通すことはできない。

 太陽の姿は見つけられなかったが、不思議と穏やかな光で溢れていて、身体が仄かに暖かい。



「おーい、ツカサー! こっちー! こっちー!」



 しばらくそうやって散歩気分で歩き続けていると、やがて聞き慣れた明るいソプラノが聞こえてくる。

 どうやら広場のような場所にこの道は続いているようで、その広場から癖毛が印象的な少女が私に向かって大きく手を振っているらしかった。

 広場には私が歩いている道以外に、三つの道が十字路のように繋がっているらしく、他の道にもまた見覚えのある少年と青年がいるのが遠目から見て取れた。

 すぐに広場には辿り付き、緩んだ表情が目立つ少女の傍へ私は近寄っていく。


「……シオリ、よかった。無事だったんですね」

「うん。おかげ様でね」


 小柄な少女――シオリは広場の中央付近に浮かぶ、発光球体の横で親しみを持って私を迎える。

 右手の甲には私と同じ数字が刻まれていて、それを互いに見せると小さく笑い合った。


「よお、マキ、セラ。お前らも元気そうだな。まあ、知ってたけどよ」

「だよね。自分がここにいる時点で、あたしたちがゲームを生き残ったことは間違いないもんね」

「ああ、まさかマキからあんなメッセージが届くとはな。最初は正気を疑ったが、どうやら賭けには勝ったみたいだな」

「ちょっと、正気を疑ったって酷くないですか。あれ? でもちょっと待ってください。そういえばなんで二人とも私がこのメッセージを送ったと知ってるんですか?」


 次に広場へやってきたのは背丈の大きい長髪の青年――リョウタロウだった。

 でも彼や、シオリが共通認識として、右手の甲に刻まれた数字を私が書いたものだと分かっているのを不思議に思った。



「誰がこんな馬鹿げたアイデアを提案したのかなんて見ればすぐにわかるよ。このメッセージは右手の甲に書かれてる。ということはつまり、これを書いたのは左利きの人ってことだ。僕たち四人の内、左利きなのはマキさんだけだからね」



 だが最後にやってきた四人目の仲間――シンジが横から、私の疑問を解消する答えを一つ口にする。

 癖のない黒髪がそよ風に揺らされていて、心なしかいつもより穏やかな顔つきに見えた。


「あん? なんだそりゃ、利き手なんか気にしなくても一発で分かったぜ。あんな突拍子もないこと言い出すのはこいつだけだ」

「そうだよシンジー。あたしもメッセージの意味を理解した瞬間、これ絶対ツカサが書いたんだってわかったよ」

「あれ? そうだったの? まあ、たしかにあれは僕でも思いつかなかった発想だった。もし思いつけるとしたらマキさんくらいだけどさ」

「えと、褒めれられて、ないですよね?」


 私は戸惑い混じりにまた全員揃うことができた仲間たちを見回す。

 かけがえのない、不可分の仲間たちは誰もが優しく笑っていて、その事が嬉しくて私もまた笑みを零す。


「それにしても本当に驚いたぜ。いきなり手の甲にこんな数字が浮かび上がってきた時はよ」


 感嘆したような調子で、リョウタロウが改めて右手の甲の部分を眺める。

 そこに赤く刻まれていたのは、“4”という数字。

 それは共に旅をしてきた仲間を表す数であり、それ以上増やすことも減らすこともできない唯一無二の数だった。


「4……つまり、誰か一人を切り捨てるくらいなら、四人全員を捨てろという意味。まさか自分も含めて全員に投票することができるなんて、よく気づいたね」

「でも普通気づいても、実行しようとなんて思わないって。やっぱりツカサって変わってる」


 私が選び、他の皆にも同様に選んで欲しかった選択。

 それは四人全員に投票するというものだった。

 選ばないという選択肢はなく、自分以外の誰かを必ず選ばなければならないという制限はあったけれど、それだけだった。

 投票の数は指定されておらず、かつ自分以外の誰かを必ず選ぶ必要があるというだけで、自分自身を選んではいけないとは言われていない。


 自分たちは四人で一人。


 生きるも死ぬも、いつも四人一緒に。それこそが私の選んだ選択で、仲間たちに伝えたい強烈な想いだったのだ。

 そしてその覚悟は、たしかに届いた。

 証明に今、私たちは四人誰一人として欠けることなくここまで辿り着いているのだから。


「……だけどよ、俺たちの中に“紛い者”がいるって話、結局本当だったと思うか?」


 しかしここでリョウタロウが悪戯を仕掛けるような笑みを浮かべて、私たちの顔を見回す。

 四人の内一人は黒猫がいうには使者と呼ばれる存在であって、私と同じように半死半生の存在ではないという。


「どうだろうね。僕は本当だと思ってるけど」

「あたしも、嘘はついてないと思うよ」


 意外にもシンジとシオリはすぐに答えを返した。

 ただ二人とも晴々とした明るい表情は保ったままで、特に裏切り者を断罪するような気配はない。


「なら最後に、誰が“紛い者”だと思うか。それぞれ言い合っていこうぜ」

「え? そ、そんなことしてどうするんですか?」

「どうもしねぇさ。ただの自己満足だよ。もしこの中に紛い者がいても、関係ねぇ。俺たちは四人で一人だ。そうだろう?」

「もしそうなら、そんなこと犯人探しみたいなことやらなくても……」

「いいじゃん。面白そう。やろうよ」

「僕も構わないよ」

「……わかりました。皆がやるというなら」


 この四人の中で誰が紛い者なのか、私は改めて考えてみる。


 菖蒲アヤメ蒲公英タンポポ苧環オダマキ


 三つの花を頭の中に思い浮かべ、私は仲間外れを探し出す。


「じゃあ、まずは俺からだな」


 まずはリョウタロウが自らの予想を披露するらしい。

 そして彼はなぜか私の方に顔を向ける。

 悪い予感がして、それはすぐに正しい感覚だったと知る。


「紛い者は“マキツカサ”。これが俺の予想だ」


 紛い者は私。リョウタロウは自信満々にそう言い放つ。

 これはどういうことだろう。想像以上に私は信頼されていなかったらしい。


「な、なんで私なんですか?」

「勘だ」

「ちょっと、勘って……いくらなんでも適当すぎませんか?」


 自分から紛い者当てを始めたくせに、リョウタロウの根拠は非常に薄いものだった。

 さすがは苧環。花言葉が愚かなだけはある。


「おいマキ、今ここで正解かどうかは言わなくてもいいけど、もし正解だったら、後でご褒美とかくれよ」

「なんですかご褒美って」

「たとえば宝くじが当たるとか」

「リョウタロウの年齢じゃ宝くじまだ買えないじゃないですか」

「私服ならいけんだろ。俺は中卒だからセーフだ」


 約束だぞ、とリョウタロウは勝手に念押ししてくる。

 年齢関係なしに、私は神の使者ではないので残念ながら彼の願いは叶えられない。


「じゃあ次はあたしかな。あたしもツカサに一票」

「待ってくださいよ。シオリまで?」


 次に小さな手を挙げたシオリも、楽しそうに口角を緩めながら私を指名する。

 いったいどうなっているのだろう。

 せっかく気分よくゲームを終えられそうだったのに、段々と気分が沈み始めてきた。


「あたしはツカサがあの黒猫の使者だったらいいなって思ってる。もしそうだったら、それは幸せなことだと思うから。あたしたちをゴールまで導いてくれたのは、きっとツカサだもん」


 しかしシオリの黄橙色の瞳には惜別を憂うような揺らぎが覗いていて、私も思わず目頭が少し熱くなってくる。

 そうか。

 この紛い者当てゲームは裏切り者を特定して糾弾するのが目的ではない。

 もっと優しく、切ない、最後のじゃれ合いなのだ。


「じゃあ空気を読むわけじゃないけど、僕もマキさんに一票を入れるよ」

「人気者だね、ツカサ」

「シンジまで……」


 そしてシンジまでもが私のことを黒猫の使者だと思っているらしい。

 嬉しいような、嬉しくないような、変な感じだ。

 まるで雲一つない快晴の日に綺麗な藍色の紫陽花を見つけたような気分だった。


「まあでもたぶん、マキさんは紛い者じゃない。きっと僕が“幸運”でなかったら、間違いなくマキさんを選んでいたと思うから、そうするだけでね」

「どういう意味ですか?」

「さあね。いつか分かる日が来るといい。そう本気で願うよ」


 シンジは奇妙な言い回しで、要領の得ない言葉を紡いでいく。

 リョウタロウとシオリも彼の台詞の意味は分からなかったようで、互いに目を合わせては首を捻っていた。


「それで、マキさんは誰を選ぶの?」

「私は……」


 ついに私の順番が回ってきた。

 いくら他の三人が私に票を入れたからといって、さすがに私は自分自身には票を入れない。

 仲間外れは一輪だけあった。

 あまりに私本意の推測。きっとこの選択は間違っている。でもなにが正解かなんてどうでもよかった。

 


「……私は、“シオリ”が紛い者、あの黒猫の使者だと思います」



 猫のような癖毛を風に揺らすシオリは、驚いたように目を見開いている。

 それもそうだろう。私が彼女を疑う理由はあまりにも勝手なものなのだから。


「私は紫陽花で、シンジは菖蒲、そしてリョウタロウは苧環。私たちは皆、藍色の花を咲かせる。でもシオリだけは違います。シオリは蒲公英。一人だけ色が違う」


 私が理由を説明し終えると、シオリだけでなく、シンジやリョウタロウまでもが噴き出していた。

 自分でもむちゃくちゃな根拠だと思う。

 だけどそれでよかった。

 彼女だけは空を飛ぶことができる。きっとそれは黒猫という超越者の使者に相応しい。

 蒲公英の花言葉には“幸福”の他にも、“神のお告げ”というものがあるのだ。


「ツカサらしい選択だね。もし正解だったら、ご褒美をあげるよ」


 シオリは柔らかに表情を崩すと、どこまでも広がっている空を仰ぐ。

 もしリョウタロウや、シンジが使者だったとしてもきっと私には確かめる術はない。

 誰もが口には出さないが、私は予感していた。

 うたかたの幻想は、もうじき永遠トワに消えてしまうのであろうことを。


「……さて、それじゃあ、そろそろゴールインと行くか? いつまでもここで楽しいお喋りをしてたら、もう一つのチームに追いつかれちまうかもしれないからな」


 やがてリョウタロウがこれまで通り、丁度良い頃合いに話を先へ進める。

 彼はいつも率先して私たちを前に引っ張ってくれていた。


「だね。たぶんこのナビゲーターを最後に起動させれば、それでゲームが終わるんだと思うよ」


 誰かの発言をさりげなく拾うことに長け、ムードメーカーとして大きな役割を果たしてきたシオリも、変わらない調子でリョウタロウの発言に追従する。

 彼女という助走があったおかげで、私は飛ぶことができたのだときちんと自覚できていた。


「そっか。もう、終わりなんだね。寂しいな。こういうと少し語弊があるかもしれないけど、もうちょっとだけ君たちと一緒に旅をしていたかった」


 これまでチームの頭脳として、皆が行き詰った時は必ず独創的なアイデアで突破口を開いてきたシンジは、彼としては珍しく素直に寂寥を口にしている。

 その感情を剥き出しにした顔に、私は神殿跡での口づけを思い出し、少しだけ恥ずかしくなった。


「おいおい、どうしたよアマツカクゥン? 柄にもなくオセンチなこと言っちゃって? 抱き締めてやろうか?」

「ははっ、そうだね。ちょっとお願いしようかな」

「はぁっ!? ざけんな。冗談だっつの。……これが最後の別れみたいじゃねぇか。俺たちは今から、本当の人生に戻るんだ。向こうで会えんだろ。そうだろ?」

「……うん。そうだね。また会おう、必ず」


 リョウタロウがそっぽを向きながら手を差しだすと、シンジはそれを嬉しそうに握り返した。

 そんな二人をシオリがどこか羨ましそうに、どこか寂しそうに見やってるので、私は彼女のわき腹を小突いておく。

 びくりと身体を震わせ飛び上がるシオリは、マイペースな表情を崩して目を見開いていた。私はそんな彼女をくすくすと笑った。


「おいマキ、それじゃあ、締めの挨拶頼むぜ」

「え? 私なんですか?」

「他に適任はいないよ」

「ほらツカサはやくはやく。とびっきりかっこいい、締めの挨拶おー願い」

 

 リョウタロウとシンジから、私はこのチームにとって最後の言葉を任される。先ほどのお返しのつもりかシオリも私を囃し立てている。

 緊張に顔熱くさせながらも、咳払いを一度してからそして私は喋り始める。


「あ、えと、私は、本当に皆と一緒にここまで来れたことを誇りに思いますし、そのなんといいますか、嬉しいっていうか、この四人じゃなきゃ、この四人だから、レースを完走できたんだと思っています。何度も助けて貰ったことを本当に感謝していて、私は、その、皆さんのおかげで凄い変われたというか、えと、なんだろう。あー、ちょっと良い言葉が見つからないんですけど――」

「だああ! 長げぇよ! マキ! まだレースは終わってねぇんだぞ!? 端的にまとめろやボケ!」

「えっ!? ご、ごめんなさい!?」


 要領を得ず、何度も詰まってばかりの私の演説に業を煮やしたのか、リョウタロウがバスの声で吠える。

 悲鳴を上げて謝る私と唾を飛ばして睨みつけるリョウタロウの姿が琴線に触れたのか、シンジとシオリはこらえきれないようにして笑っていた。


「マキ、五文字以内でまとめろ」

「ご、五文字以内ですか? いくらなんでも短すぎません?」


 リョウタロウの要求に私は首を大袈裟に振ってみるが、彼はそれ以上は何も言わなかった。

 考え込んだせいで妙な沈黙をつくってしまった私は急いで、なんとか言葉を紡ぎ出そうとする。

 優しい風がひとつ通り抜ける。

 私は開き直ったように、勢い任せにアルトの声で叫ぶことにした。



「さようならはいいません! またいつか! 必ずどこかで会いましょう! ……ゴー!」



 リョウタロウに指定された文字数は結局無視してしまったが、きっと許してくれるだろう。

 

 刹那、迸る蒼白光。


 ナビゲーターの役割を果たしてきた球状の光は爆発するかのように弾け飛び、澄み渡る空にまで真っ白な光が広がっていく。



「マキ。セラ。アマツカ。お前ら全員。大好きだぜ」



 知らない間に目を涙で真っ赤にしているリョウタロウが光に包まれて、その痩身痩躯の身体が消え去っていく。

 私も彼が大好きだった。

 苧環の花には触れたものを勇気づけるという逸話がある。

 彼の迷いのない言動は、常に私たちの旗印。



「きっと僕たちはこのゲームでの記憶を忘れてしまう。でも、絶対に、何年経ったとしても、必ず思い出してみせる。僕は皆のことを、絶対に思い出す。また、会いに来る。迎えに行くから、待っていて欲しい」



 この世界で起きたこと全て、レースでの出来事、それはおそらく記憶には残らないのだろう。それは私も薄々勘付いていたことだ。

 だけどシンジが思い出してくれる、迎えに来てくれると言ってくれた。だから私は安心して彼を光のカーテンの向こう側へ見送る。私は彼を信じて待ち続ける。

 菖蒲の花は英語でイリスという。イリスは虹の女神の名前でもある。

 どれだけ視界を白く塗り潰す雨が降りしきっても、最後には綺麗な虹を彼がかけてくれた。



「……あー、楽しかったな。思ってたより、ずっと楽しかった。もっと続けばいいのに、残念だな。もう終わりか。だけど意味がわかったよ。なんで誰に頼まれたわけでもないのに、必死こいて贈り物をおくるのか。これはいいものだ。自分以外の誰かにも贈ってあげたくなる。自分が何者かなんて関係ない。全ては繋がっている。頼まれたから贈るんじゃない、贈りたいから贈るんだ。きっと理由はそれだけでいい」



 するといよいよ視界が真っ白な光だけに埋め尽くされた頃、私の耳に、唄うような、或いは詠うようなソプラノが届く。


「生きることは贈り物なんだ。贈り物は嬉しい。だから、大事にしてね、ツカサ。紫陽花に似ているツカサには特別な贈り物を上げるよ」

「贈り物、ですか?」


 天使の歌声を思わせるソプラノはシオリのものだ。

 そんな彼女は贈り物をくれるという。

 


「蒲公英に似ているといわれてから、“ボク”は幸福だったよ。だからツカサにも、紫陽花に似ているといわれたから、自分は幸せ者なんだと思えるようになって欲しい」



 自由に、明るく、幸せなソプラノが段々と遠くに霞んでいく。

 

 羽根が舞い散る眩い光の中で、奏でられているのは美しい旋律の讃美歌。



 そして私もまた藍色の光に包み込まれ、私だけの、いや私たちの空のもとへ飛び立っていった。










 頭に巻いた包帯を手で時折り擦りながら、彼女は気怠げな日曜日の昼をとりとめもなく過ごしていた。

 なんだか少し、ぼうっとしてしまっている。

 きっとこれは後遺症のようなものなのだろう。

 だが、このある種の余韻のようなものも、きっとそう長くは続かない。

 数日前にバスルームで転倒した際の怪我も、そろそろ治りそうな気がしているからだ。

 痛みは消え、どこか心にぽっかりと穴が空いたような感覚だけが残っている。

 医者の話では当たりどころが悪ければ死んでいた可能性もあったというが、さすがにそれは大袈裟な話だと彼女は今でも思い出し笑いができた。


「ちょっとあなた、昼間からゴロゴロして。そんなに暇ならツバサの見舞いにでも行って上げて来たら?」

「うーん……そうだね。もうしばらくしたら行ってこようかなぁ」


 リビングのソファにだらしなく寝そべる彼女に、台所の方から咎めるような声がかかる。

 母の声だ。

 少し神経質で、働き者の母が姉の見舞いを勧めている。

 彼女の姉は数週間前に交通事故にあって、今は入院をしているところだった。時間も持て余しているところだし、たしかに顔を見に行っても構わない。

 昔から姉とは仲が悪いわけではないが、少し苦手意識があり、まだ一度も見舞いに行ってなかったのだが、不思議となぜか今は会いに行ける心の余裕があった。


『さぁて! お次のゲストは、今乗りに乗ってる実力派若手俳優の、牧瀬遼冶マキセリョウジさんでぇす!』

『……ども、こんちわっす。牧瀬です。今日はよろしくお願いします』


 40インチの薄型テレビが、チカチカと存在を主張している。

 番組名さえ覚えていないテレビでは、オーバーリアクションな司会者がある若手俳優を相手に軽快なトークを飛ばしていた。

 その俳優は彼女も知っていた。

 たしかに整った顔立ちで今風の二枚目だが、特別彼女の好みというわけではない。

 だが不思議と惹きつけられるような、彼女にとってやけに気になる俳優だった。


『聞くところによると、遼冶くんは十代の頃は結構苦労してたとか!?』

『そうっすね。家が貧しかったんで、高校にも行かずにバイトばっかりしてました。そのせいでかなりヤバめの交通事故にあったこともあります。あれはまじで死んでてもおかしくなかったつーか、生きてるのが謎くらいに医者には言われたっすね』

『そうなの!? そいつはなかなかハードな体験だ! だけどそこからまさかの芸能事務所に電撃スカウト! まあ、そんだけカッコよければほっとかれないよねぇっ! しかもやっぱオーラっていうか、目つきがいいし!』

『ありがとうございます。人生何が起きるかわからないっすよね――』


 プツリとテレビのスイッチを切る。

 容姿の良い男たちに黄色い声をあげる子も彼女の友人たちの中に何人かいたが、彼女自身はそういうタイプの人間ではなかった。

 たしかにあの俳優は気になる存在だが、所詮はテレビの向こう側の存在。

 歳だってそれなりに離れている。一生会う事はないだろう。友人が勝手に今の俳優のサイン会に彼女の分まで応募したらしいが、まず当選はしないと考えていた。


「じゃあ、お母さん。ちょっと姉さんのお見舞い行ってくる」

「いってらっしゃい。あなたも気をつけるのよ。この前みたいに転んで頭を打ちつけたりしないように」

「し、しないよ」


 母にからかわれつつも、彼女は身支度を済ませ家を出ることにする。

 ここ最近は、やけに外に出かけることが多くなっていた。




 すっかり季節は夏に染まっていて、姉の入院している病院につく頃には汗だくになっていた。

 室内に入ると冷房が効いていて、心地良い冷たさに彼女は胸を撫で下ろす。

 事前に教えられていた病室もすぐに見つけ、控えめにノックをしてから、彼女はその中に入っていった。


「……姉さん、お見舞いに来たよ」

「……え? 珍しいじゃない。あんたが私に自分から会いに来るなんて」


 病室にはいくつかベッドがあったが、埋まっているのは彼女の姉が寝そべっているところだけで、他は空になっていた。

 スケッチブックを片手に、時間を潰してでもいるのか、器用に左手を使って絵を描いている。

 姉妹揃って左利きで、姉が彼女を知り合いに紹介する時はよく、似てるのは利き手だけです、というフレーズを使うのがお決まりだった。


「というかその頭なに? あんたも怪我したの?」

「ちょっとお風呂場で派手に転んじゃって」

「なにそれ」

「なんか当たりどころが悪かったら死んでたらしい」

「あははっ。なにそれウケる。風呂場でこけて死ぬとか、超ダサい。でもなんとなく司にはお似合いかも。あんた鈍くさいし」

「うるさい。鈍くさくて悪かったですね」


 病院に来る途中で買ってきた見舞い品を近くのテーブルに置きながら、彼女はベッドの傍の椅子に座る。

 話し相手に飢えていてたのか、それとも単純に最近会話が減って来ていた妹と喋るのが楽しいのか、彼女の姉は嬉しそうにニヤニヤとしていた。


「あれ、これなに? 小説?」

「あー、それ? 実は一週間くらい前まで、隣りのベッドに別の患者さんがいてね。その子から貰ったんだ」


 ふと机の端に、大型クリップで止められた数十枚の紙束を見つける。

 表紙には丁寧に、“雨塚慎冶アマツカシンジ”と書かれていた。おそらく作者の名前なのだろうが、彼女の知らない名前だった。


「有名な人?」

「ううん。アマチュアだよ。趣味で小説書いてるんだって。この前病院を移動するっていうから、記念に貰ったの。けっこう大変な病気みたい」

「へぇ、そうなんだ。でも姉さんって小説読む人だっけ?」

「全然。だからそれあんたにあげるよ」

「いいのそれ?」

「いいのいいの。その子、あんたと同い年だったし」

「年齢関係ある?」


 相変わらず適当で、自由奔放極まりない姉に彼女は苦笑するが、そういうところが姉の美点であるとも理解していた。

 それに、その顔も知らぬ同級生の小説に不思議と興味を惹かれていたので、彼女はありがたく好意として受け取ることにした。


「読み終わったら、感想教えてあげてね」

「そんなこと言われても、どうやって」

「向こうが偉い小説家さんにいつかなったら、なんかファンレターでも書いてみればいいんじゃない? あの子には私の名前も、あんたの名前も教えてあるから、きっと返事くれるよ」

「名前とか、覚えてないでしょ」

「そうかな? なんか、覚えてそうな気がするけど」


 他人事のように彼女の姉はあっけらかんと笑う。

 でもそんな姉に彼女は憧れていたし、心の底から慕っていた。


「……あ、猫」

「え? 猫? どこどこ? どこにいるのよ」


 すると一瞬、半分開けっ放しだった入り口扉の廊下側に、白い毛並の猫を見かけたような気がした。

 だがそれは幻のように一瞬で消え去り、試しに廊下の奥を見渡しみたが、猫はおろか人一人見つからなかった。


「おかしいな、今、たしかに猫がいた気がしたんだけど」

「ほんと? 頭打って幻覚でも見るようになったんじゃない?」

「そんなことないよ。両目の色が違ってさ、片っぽが多分黄色で、もう片っぽが青色の瞳をした白猫だった」

「ありえないって。だいたいここ病院だよ? 猫とかどうやって入ってくるのよ」

「たしかにそれはそうだけど、私は見たの」


 やはり見間違いだったのだろうか。彼女はこれ以上考えても答えはでないと諦め、また椅子に座り直した。

 通り抜けるのは風ばかりで、もうそこには誰もいない。

 海辺が近いわけでもないのに、不思議と潮風の匂いがした気がした。


「でも、なんか、ちょっと見ないうちに、あんた変わったね」

「え? そうかな?」

「うん。変わった。前はもっと自分の意見を私には、というか周りに隠すタイプだったけど、今は主張するようになった」

「主張って、そこまで大袈裟なものじゃないでしょ?」

「まあね。でもなんか、飛べるようになった。飛び方覚えちゃった。翼、生えちゃったって感じするのよ。翼だけに」

「姉さん、今の全然面白くないよ」

「あははっ。そういうとこ、そういうとこが変わったって言ってるの」


 彼女の姉は嬉しさと安堵を含んだ眼差しをしている。

 

 こんなに、優しい顔、できたんだ。


 どうしてそんな表情をしているのか彼女にはわからなかったが、今は別にそれでいいと思った。



「ねぇ、ツカサ。あんたって紫陽花アジサイに似てるよね」



 暖かな陽の光が差し込む中、全く同じことを昔に姉からいわれたことを思い出した。

 その時は、そこまで、嬉しい言葉ではなかったはずだ。


 でも、今は違う。


 彼女は紫陽花に似ているといわれると無性に嬉しい気分になった。


「……“人間ニンゲンにあるといえどもヒトしらず、君がために紫陽花アジサイと名づける”」

「なにそれ? 詩? どんな意味?」


 ふいに彼女は初夏の空のように暖かくで晴れやかな目をすると、自分自身ですら知らない詩を詠ってみせる。

 頭に浮かんだその詩は、まるで贈り物のよう。


「“せっかく人の世界にやってきたのにあなたの名前を誰も知らない。だからあなたに紫陽花という名を与えよう”。たしかそんな意味の詩」

「ふーん。そうなんだ。でも私も紫陽花は好きな花だから、結構共感できるな。雨の中、真っ直ぐと空を向く藍色の花弁。綺麗だよね」

「……うん、そうだね」


 そして今を生きる彼女――牧司マキツカサはそんな誰のものかもわからない詩を口にする自分にどこか違和感というべきか、変化を覚えるが、そこまで悪い気分はしない。



 紫陽花に似ているといわれたから、彼女は自分のことが好きになれるような気がしていた。




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紫陽花に似ているといわれたから 谷川人鳥 @penguindaisuki

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