桜恋歌
イーヨ
第1話
「戻ってこい、トーヤ」
三鷹は必死で叫んだ。
失うわけにはいかないんだ。
「トーヤッ」
舞い散る桜、薄紅色が渦を巻く。
樹齢千年と言い伝えられる枝垂れ桜が満開になった日の夕暮れ時のことだった。
県立青峰高校空手部顧問、山田巌、三十五歳、はいかにも『空手家』という風貌だ。髪は角刈り、四角い顔にぎょろりとした目、筋肉質の四角い体、背はそう高い方ではなく170センチそこそこだが、分厚い胸板に丸太のような腕を持つこの男の迫力は半端なく、二年連続全国大会制覇の部活顧問にふさわしい。そう、彼こそは二年連続インターハイ、個人形の部、個人組手の部、団体形の部、団体組手の部、全てにおいて制覇するという奇跡を起こし、一躍有名になった青峰高校空手部の顧問なのだ。
「正直、プレッシャー半端ない」
山田巌が立っているのは第一格技場、空手着姿の新三年、二年の部員、二十名の前で彼はぐぐ、と拳を握った。
「わかってます、先生」
「オレら、どっちかっていうと弱いっスから」
「全国制覇出来たの、三鷹部長と投野副部長二人のおかげっスよね」
「かろうじて卒業生に強い部員が二人ばっかいたし」
「団体戦、全部3-2のギリギリで取ってるし」
はいはいはい、と元気よく情けないことを言う。現在の部員構成は、投野副部長と同じ道場で空手をやってきた二年生の小西健という生徒以外、ほぼ空手経験皆無か中学時代に道場に通い始めたという面々ばかりなのだ。黒帯は部長の三鷹と副部長の投野、二年の小西だけである。
「今年の団体は無理っすよねー」
その小西がのほほんと言った。背丈185センチの大柄だが顔立ちといい体つきといい顧問の弟ですか、と言ってもいいくらいよく似ている。
「何言ってんの。君が強くなりなよ、こにしたける君」
透き通った声が格技場に響いた。副部長、投野郁夫だ。アダ名は「トーヤ」、部長の三鷹が「とうの」を「とうや」と読み間違えて以来、それがアダ名になった彼は一見、空手をやっているとは思えないほど華奢でスラリとしている。背丈は178センチ、脱げば鞭のようにしなやかな筋肉質の体なのだが、着痩せするタイプで学ラン姿の彼をみて格闘技を連想する人間は皆無だろう。
そしてなにより、投野郁夫は中性的な美貌の持ち主だった。切れ長の目にすっと通った鼻筋、斜め横に流した髪型は真面目な男子高校生によくある髪型で特別でも何でもないのだが、事実、彼は近所の床屋でカットしてもらっているわけで、なのに陽に当たるとわずかに茶色がかってみえる黒髪がサラリと揺れると、知らず周りではため息が漏れる。本人は自分の顔があまり好きではないと、高校入学と同時に横長で黒縁の伊達メガネをするようになったが、それで美貌が損なわれることはなく、かえってメガネ男子だの外した時とのギャップが素敵だのと人目を引く結果になっていた。
そんな投野郁夫だが幼いころから叔父の極真系空手道場にかよっており、大男をなぎ倒すほどに強い。高校は全日本空手連盟の元での試合なので、組手のルールや形も一から学び直しだった。だからといってその強さが損なわれることはなく、寸止め組手の試合で相手の懐へ入り上段蹴りで試合を決める投野は高校空手界では有名だ。部長の三鷹とともに双璧と呼ばれ、この二人がいるからこそ、普通レベルだった青峰高校空手部が全国制覇を成し遂げることが出来たのだ。そして顧問の苦悩はそこにこそあった。
「そうだ、お前らな、いつまでも三鷹と投野に頼ってどうする。コイツら、夏のインターハイで引退するんだぞ。その後に続けるのかっ」
個人組手は三鷹が、個人形は投野が出場し、どちらも二年連続優勝している。本来なら二人共、組手も形も出ていいはずなのだが、団体組手に団体形もこなさねばならない二人は個人戦は分担、とマイルールを通してしまった。顧問が二人の負担を慮ったということもあるし、二人ほどではないが、かなり強い上級生が数人在籍していたため、上手くまわっていた。だがしかし、その上級生は3月に卒業してしまったのだ。そして顧問の山田としては現在、現実的な問題にぶちあたっている。
「今年の団体形で三鷹と投野と一緒に形分解が出来る奴が今、いるかっ」
「いませーん」
「軽く言うなーーっ」
再びハキハキこたえた小西に山田の雷が落ちた。団体形では決勝と三位決定戦で分解というものが行われる。三人一組で形を披露するだけでなく、それを組手の形で見せなければならない。技が派手で多岐にわたるので試合の華とも言われている分解、一人だけレベルが違いすぎると上手くいかないのだ。
「団体組手だってそうだ。いくら三鷹と投野が勝っても後の三人がダメなら負けなんだぞ」
「でも先生、去年の有望な新入生、柔道部とテニス部にかっさらわれちゃったし」
「そうですよ。空手道場通ってる連中も部活は他部に取られちゃいましたよね」
「どっこも美人マネージャー使ったお色気作戦で野郎狩りしてたじゃないですか」
「女子マネ、全員クビにするから」
「オレに言うな。三鷹の判断だ」
顧問としては甚だ情けないセリフだが実質、部を取り仕切っているのは部長の三鷹なので仕方がない。その三鷹修一は生徒会長でもあるので今は新入生オリエンテーションに出席していて不在だ。そう、入学式が終わり今日は部活紹介と体験の日なのだ。各部、新入部員獲得に乗り出す大事な日、去年の轍を踏まないため、空手部は緊急会議を開いている最中だった。
「三鷹は堅物だからね。自覚ないけど」
笑いを含んだ声で言ったのは副部長の投野だ。
「あの女子達、空手に興味あってマネージャーやってるわけじゃなかったから」
「自覚ないのはトーヤ先輩もそうッスよ」
小西が情けない声をあげた。
「先輩達目当てでマネージャー希望殺到して六人に絞ったのに、二年になった途端、マネージャーいらないって言うから~」
「だって洗濯くらい自分でやればいいじゃない。女の子にやらせるなんて間違ってるよ」
「アイツら、やりたいんスよ。先輩達の道着限定ッスけどね」
ぶーぶーと小西は文句を言う。三年の副部長にこんな口をきけるのは長い付き合いの小西くらいだ。
「とにかく、美人マネージャーが去った今、オレらの部の活路をひらくのはトーヤ先輩だと思います」
はいはい、と改めて手をあげた小西は顧問に提案した。
「トーヤ先輩が女子の制服着て勧誘したら一発…」
コォ、と格技場に冷気が満ちた。黒縁メガネの向こうから切れ長の目がひた、と小西を見据えている。
「僕がなんだって?」
「……なっなんでもないッス」
全員が押し黙った。普段穏やかで優しげな投野郁夫を怒らせたら怖い。あの部長、三鷹修一ですら怒った投野には近寄らないのだから。だがフッと冷気が消えた。投野が小首をかしげ人差し指を顎に当てる。
「まぁ、優秀な新入部員獲得出来るなら別に女装するくらい僕はかまわないんだけどさ」
「「「えっ」」」
全員の反応などどうでもいいと投野はうーんと考え込む。
「絶対、三鷹がヤキモチやくと思うんだよね。結構僕より三鷹の方が拗らせちゃってたみたいでさ、付き合いはじめたら独占欲全開だし」
「えっ」
声をあげたのは顧問の山田だ。
「付き合ってるって、ええっ」
「あ、先生、三鷹先輩と投野先輩、春休みから付き合ってます」
「春合宿先で三鷹先輩がおつきあい宣言しました」
「えええーっ」
知らなかったの、オレだけ?と顧問が目を白黒させている前で投野はニコニコしている。
「大丈夫です、先生。僕的には不本意ですけど、まっとうで清い交際ですから」
口をパクパクさせている顧問に投野は更にニッコリと笑った。
「三鷹ってホント堅物で、最初は流されかけてくれたくせ高校生の間は絶対そういうことしちゃダメって思いなおしちゃって。古風なんですよね、彼」
「ええー、そうなんスかっ?」
素っ頓狂な声をあげたのは小西だ。
「合宿中、先輩たち、同室だったからオレ、てっきり…」
再び冷気が小西にむかって吹いた。
「三鷹に殺されたい?コニー」
ひぃ、と小西が小さく悲鳴をあげた。投野が「コニー」と自分を呼ぶ時はろくなことがないのだ。その「コニー」を救ったのは学校のチャイムだった。
オリエンテーションが終わったのだ。これから部活紹介と体験募集の時間だ。中庭で各部活、それぞれがパフォーマンスをしたり呼び込みをしたりと自由に新入生を勧誘する。
「しょうがない。僕のビジュアルじゃ格闘技勧誘には逆効果だから体験受付に回るよ。コニーは板割りパフォーマンスして。一番空手っぽいの、君だしね。とりあえず瓦とブロックと、角材も積んどこう」
「え、でもトーヤ先輩、オレ、瓦はまだ自信ないっていうか、それに角材は無理っすよ」
「積んどくだけ。割るのは板でいいよ」
スッと投野は立ち上がる。
「頼みの三鷹は生徒会で時間とれないから僕達が頑張るしかないんだよ。コニーを正面に出してパフォーマンスさせて、君たちは周囲で声出してね」
「「「押忍っ」」」
「声が小さいっ」
「「「「押忍っ」」」
「じゃ、先生、行ってきます」
「おっおす」
バタバタと格技場を飛び出していく投野達、空手部員の後ろで顧問の山田はまだ呆けたままだった。
生徒会長、三鷹修一が雑務を終え生徒会室を出たのは部活紹介の時間が半ば過ぎた頃だった。生徒会だったのでもちろん空手着ではなく制服の学ランのままだ。やれやれ、とため息をつく。トーヤのことだから副部長として皆を率い、そつなく部活紹介と体験募集をこなしているだろう。わかっているが三鷹の心中は複雑だ。付き合いたてほやほやの綺麗な恋人を皆に自慢したい気持ちと、誰にも見せたくない独占欲がないまぜになって混乱しているというのが正直なところだろう。
拗らせてるって奴かな…
長い片思いだった。かなうとは思っていなかった。最初から諦めていた恋で、それでも諦めきれずにいた三鷹にとって、トーヤが想いを返してくれたことが今でも夢なんじゃないかと思うことがある。
三鷹修一は傍目にみると近寄りがたいタイプのイケメンだ。182センチの長身に鍛えられた体、肩幅が広いので威圧感がある。アーモンド形の黒々とした目は鋭い光を宿し、形のいい口元は常に引き締められていた。本人は感情豊かだと思っているが、生まれつき顔の筋肉が固いのか、ほとんど表情が動かない。固い毛質の黒髪は癖っ毛で、常にピンとのびた背筋は真面目な気質を表している。そんな堅物の三鷹がうっかり恋したのが同級生の投野郁夫、トーヤだった。中学の時、空手の都大会で出会ったのだ。声をかけたのは三鷹からだった。それをきっかけに一緒に稽古したり遊んだり、隣の地区の中学で道場も同じ極真系だったため交流は深まった。高校進学の時にはトーヤの志望校を聞き出し、同じ高校に入るため必死になって勉強したものだ。今にして思えば出会った時に一目惚れしたのだと思う。
だが同じ男同士、三鷹は最初から諦めていた。恋心を封印していい友人でいる努力をした。
そんな二人は半月前、妙な事件をきっかけに想いを通わせることになった。生徒会宿泊研修に強制参加させられた三鷹は同じ宿舎で写真クラブの合宿に来ていた投野にばったり出会ったのだ。写真が趣味の父親からデジタル一眼レフカメラのお下がりがきた投野は高校に入ってから空手部以外に写真クラブにも所属していた。他校の女子生徒に五月蝿くつきまとわれた上、投野には写真クラブの面々がべったり張り付いていて心中穏やかでなかった三鷹だが、後で聞くと投野も密かにヤキモチを焼いていたのだそうだ。その心の隙が呼んだのか、投野がそういう体質なのかはわからないが、樹齢千年の白梅に宿っていた女の霊に憑依されてしまった。三鷹は女の霊に乗っ取られそうになった投野を必死に呼び戻した。その時、恋心も何もかもぶっちゃけてしまったのだ。投野ともはや友人でいることも出来ないと絶望した三鷹だったが、彼は想いを返してくれた。奇跡だと思った。以来、三鷹は毎日が夢心地だ。固い表情筋のおかげで彼の母親以外、誰一人として三鷹が浮かれているとは気づかなかったが。
三鷹は二階の廊下の窓から中庭を見下ろした。文化系の部活は校舎内で募集しているので中庭にいるのは運動部だ。白いコブシの花の先に空手部の白い道着がみえる。『来たれ、空手部』と書かれたボードを立てかけて、その前で板割りを披露しているのは二年の小西だ。ザ・空手家、という容姿の小西を前面にもってきたのはいい選択だと思う。三鷹の目は自然と恋人の姿を探した。
「トーヤ…」
恋人はボードの後ろの体験受付と紙の張られた小さな机のところにいた。椅子に座りにこやかに希望者を受け付けている。春の陽射しをうけて微笑む恋人は本当に綺麗だ。三鷹はその姿にぽぅっと見惚れた。自分でない人間に微笑むのは業腹だが、微笑まれた者が顔を赤らめる綺麗な投野は自分の恋人なのだ。
部長の自分が行かなくても大丈夫そうなので三鷹は二階のここからしばらく恋人の姿を眺めることにした。
と、何やら小西のいる辺りが騒がしい。大柄な生徒になにやら絡まれているようだ。三鷹は中庭に向かって急いで駆け出した。
「だからぁ、そんな板じゃなく瓦割って下さいって言ってるんスよ、せんぱぁい」
新入生が板割りパフォーマンスを披露していた小西に絡んでいる。身長185センチで四角いガタイの小西より頭一つデカイ。両サイドを剃り上げた短髪、尖った顎に薄い眉と細い目が酷薄な印象の新入生は脇に置いてある瓦を指差した。
「そこの五枚、オレ割りますよ。オレが出来たら次は先輩ッスからね」
「え、いや、あの…」
「自分、豊徳会の堂前っつうんスけど、知ってますよね?極真の豊徳道場、喧嘩道場とも呼ばれてますけど、一応礼儀正しいんスよ?」
小西がひっ、と息を飲んだ。豊徳の道場生は気が荒くあちこちの道場生に喧嘩をふっかけるので有名なのだ。ガタイはいいが気の弱いところのある小西はただ狼狽えている。色帯の他の部員達もただオロオロするばかりで、そんな様を堂前はフンと鼻で笑った。
「全国制覇の空手部っつーから、どんなんかと思や色帯ばっかじゃねーの」
スタスタと積み重ねた瓦の所まで行くと、ひょいとタオルを瓦の上に投げる。そして拳をぐぐっと固めた。
「ソイヤッ」
打ち下ろされた拳に五枚の瓦はバキリと割れた。こぉ~、と息を吐き、ヒラヒラと解いた拳を振った堂前は口元をニタリと歪ませた。
「さ、先輩、どーぞ」
大げさな仕草で小西にむかってお辞儀をする。
「一年のオレが五枚ッスからね、先輩なら十枚は割っていただかないと」
「十枚でいいの?」
涼やかな声が色帯達の背後から響いた。黒縁メガネをかけた、スラリとした美形が二年生達の間からすすみでる。
「とっトーヤ先輩」
小西がホッと力を抜く。
「トーヤせんぱい?へぇ、一応アンタ、黒帯なんだ」
ヒュゥ、と堂前が口笛を吹いた。
「女子マネかと思った」
くくく、と喉を鳴らす。
「そんなヒョロヒョロで黒帯、よくとれたッスね、トーヤ先輩?全日本空手道、どんだけヌルいんだか。そのナリじゃ薄い杉板一枚割る…」
最後まで堂前は言うことが出来なかった。ドゴッ、と破壊音がしたと思うと、目の前に積んであった瓦が全て割れている。目の前の細っこい美形がタオルも敷かず前動作もなくいきなり積んである瓦を割ったのだ。
「邪魔だな」
小さくつぶやいた美形は黒縁メガネをはずして傍らの下級生に渡すと凛とした声で言った。
「コニー、三人にブロック持って立たせて」
大声ではない。なのに周囲を圧する迫力がある。思わず堂前は一歩、後ずさった。色帯達がアワアワとブロックを持って『トーヤ先輩』の周囲三方に立つ。
「動いたら怪我するからね」
にこりと下級生に優しく声をかけた『トーヤ先輩』は一呼吸後に素早く動いた。右中段突き、左上段横蹴り、後ろ蹴りが繰り出されブロックが砕ける。支えていた下級生は勢いで後ろにふっ飛ばされた。げぇ、と堂前は青くなった。普通、これは杉板で行うパフォーマンスなのに目の前の細っこい美形はブロックでやったのだ。
「コニー、角材支えて」
ピシッと背筋をのばした四角顔が角材の下を両手で支え自分も身を伏せた。『トーヤ先輩』が一度身を低くすると上方に飛び回し蹴りで角材を蹴った。バキリ、と鈍い音がして角材が真っ二つに割れる。角材の半分が堂前の横に飛んできて地面にゴトンとぶつかった。
「はわわ…」
逃げようとする堂前の間合いにいつの間にか『トーヤ先輩』が入っている。とん、と人差し指でで胸を突かれた。
「中段突きで一ポイント」
トン、トン、と続けて胸と顎を突いた。
「中段蹴りは二ポイント、上段蹴りは三ポイント、これが全空連の組手のポイントの取り方ね。極真の試合と違うからよく覚えておいて」
堂前はヘナヘナと座り込んだ。足の力が入らない。体が動かない。見上げれば目の前で美形が微笑んでいる。恐ろしくてたまらない。言葉にならない声をあげた堂前の目からボロボロ涙がこぼれた。
「こら、トーヤ、一年を泣かすな」
学ランが美形の横へ歩み寄ってきた。あちこちハネた癖っ毛に黒々とくっきりした目の端正な顔、さっき、オリエンテーションの最後で生徒会紹介をやっていた三年生だ。
「あ、三鷹」
美形が嬉しそうに笑った。
「一人、黒帯の一年生確保したよ?」
「それは確保とは言わん。脅してどうする」
叱責の言葉とは裏腹に声は優しい。癖っ毛イケメンは手を伸ばしくしゃりと美形の髪をかきまわした。
「お前、またツボ突いただろう。動けなくなってるじゃないか」
「叔父さんが見つけたコンボ技だよ?」
「下級生を実験台にしたらダメだ」
「大丈夫、叔父さんで散々練習したし、すぐ動けるようになるから。今度は三鷹にやってあげるね?疲れをとるツボ」
「断る」
呆れ気味の癖っ毛イケメンに甘えるような仕草で小首をかしげている美形、ふと、堂前は引っかかった。
「あの、えっと、三鷹って…」
癖っ毛イケメンが顔を堂前に向けた。
「あぁ、紹介が遅れたな。空手部部長三鷹修一だ。三聖会道場に所属している。そしてこっちが副部長の投野郁夫、剣光会道場だ」
「さっ三聖の三鷹と剣光の投野…トーヤって投野…」
堂前はそのまま土下座した。
「すっすんませんでしたーーーーっ」
二年生の色帯達がこそっと小西に囁いた。
「ねぇ、なんでアイツ、ビビってんの?」
「そりゃ、この辺りじゃ有名だし」
小西が肩を竦めた。
「トーヤ先輩って見た目がああだろ?高1んとき豊徳の悪さばっかしてる連中がちょっかいかけてさ、全員返り討ちにあって」
「げっ」
「トーヤ先輩に手ぇ出したって聞いた三鷹部長がキレて道場に乗り込んで黒帯ボコって」
「えっ」
「その三鷹部長を心配して追っかけてきたトーヤ先輩が助太刀して二人がかりで全員ボコッて」
「ええっ」
「門弟を止めるつもりで追っかけたうちの道場主と剣光の道場主が豊徳にキレて向こうの道場主ボコって」
「そっそれって警察沙汰になるんじゃ…」
小西はゆるゆると首を振った。
「豊徳もメンツあるからさ。でもそっからあそこ、大人しくなったんだ。今日、アイツが因縁つけてきたのって、県立高校内なら安心って思ってたからじゃないかなぁ」
いろんな意味で先輩たち怖ぇ、空手部員達は改めてそう認識したとか。
空手部の練習はいつになく熱気がこもっていた。なにせ今年は有望な一年生が15人入った。全員が経験者というわけではないが体格のいい者が多く、しかも最初に因縁をつけてきた堂前にいたってはかなりの実力者だ。二年、三年の色帯達の負けん気にも火が点いて頑張って黒帯目指そうという意識が高まっている。
その堂前はというと、最初に投野からしたたかにやられたせいで借りてきた猫のようにおとなしい。一見華奢にみえて凄まじい破壊力を持つ投野にすっかり心酔してしまい、一の舎弟だと自称して一の後輩だとの自負のある小西と張り合っていた。顧問の山田はインターハイ団体戦三連覇の希望が出てきたとほくほく顔だ。学校が始まって一週間、空手部の滑り出しは順調だった。今日も六時まで汗を流した部員達は格技場の床に正座して稽古のシメを行っている。空手道の教え十条を唱和し瞑想して稽古を終えるのだ。
「瞑想、やめっ」
三鷹の声が格技場に響いた。正座した部員達は目を開ける。立ち上がった部長が全員を見渡した。
「明日の土曜日は部活は午前中のみだ。日曜日もなし。月曜からまた気を引き締めて頑張ろう。起立」
「「「押忍」」」
全員が立ち上がり、顧問の山田に向かって頭を下げる。
「ありがとうございましたっ」
「「「ありがとうございましたっ」」」
わらわらと解散した部員達が更衣室へ向かおうとした時、パタパタと投野が三鷹の前に駆け寄った。
「ねぇねぇ、三鷹。三鷹は稚児の桜、知ってる?」
「知ってるも何も」
三鷹は首をかしげた。
「部活棟の裏手にある枝垂れ桜だろう?県の天然記念物指定の」
テニスコート脇を抜けた部活棟の裏手の奥には樹齢千年と言われる枝垂れ桜の木がある。ソメイヨシノが散った後、満開の見事な花を咲かせる桜で、毎年花の季節の週末のみ裏門を開けて一般にも開放されている。今年も三分咲きの頃から週末一般開放がなされているはずだ。もちろん、校内なので飲食は禁止されている。
「その桜がどうかしたか」
「うん、だからね、明日、部活終わったらそこで待ち合わせしよ?」
僅かに低い目線の投野がじっと見つめてくる。稽古終わりで眼鏡をしていないのでダイレクトに美貌が三鷹を直撃だ。う、とたじろいだがそこは堅物の三鷹、すぐに気を取り直す。
「部活が終わったら一緒に行けばいいじゃないか。わざわざなんで待ち合わせだ」
そう、一緒の部活なのだから終わりも一緒だ。三鷹が怪訝な顔をすると投野がむぅ、と口をへの字に曲げた。
「相変わらずロマンないなぁ、三鷹は」
「いったい何だ」
三鷹とて今の発言で恋人が機嫌を損ねたことくらいはわかる。内心大いに狼狽えているが、幸か不幸か、固い表情筋のせいで周囲にはそれが伝わらない。ますます不機嫌になる投野をみかねてか、小西が助け舟を出してきた。
「三鷹先輩、知らないんスか?稚児の桜の言い伝え」
「オレも知ってるッス。あの桜って千年前、恋人と引き裂かれた稚児が悲しみのあまり桜になったって伝説があるんスよねっ」
堂前もしゃしゃり出てきた。
「だから稚児の桜で待ち合わせした恋人同士は永遠に幸せになれるんだそうッス」
三鷹は眉を寄せた。千年前だの恋人と引き裂かれだの、どうにも半月前のことを連想させる言葉の数々、あの時は『恋人を想うあまり』千年間、梅の木にとっついた女の霊にひどい目にあわされたのだ。間違ってもそんな桜とは関わりたくない。
「人が桜に化けるわけなかろう。まして待ち合わせごときで永遠を約束するなど根拠のない伝説だ。だいたいトーヤ、お前、半月前それで痛い目にあっただろうが」
切って捨てればますます投野がむくれた。自称舎弟の堂前と自称ナンバーワン後輩の小西が同時に叫んだ。
「「汲んでやってくださいよ、部長っ」」
「なっなんだっ」
「トーヤ先輩んちはっ」
「「明日、家族が一泊旅行にお出かけして誰もいないんっスー!!」」
わぁ、と投野が顔を覆った。耳まで赤くなっている。叫んだ堂前と小西も顔が赤い。三鷹が目を瞬かせた。
「なんだ、そういうことか」
得心した、という顔で三鷹が口元を綻ばせる。投野が恥ずかしそうにうつむいた。小西と堂前が拳を握った。
「そうッス、先輩はっ」
「昼飯なら付き合おう。なんならオレの家で食べてもいいぞ」
ズシャ、と床に崩れたのは小西と堂前だ。
「そんなことよりお前、汗が冷えたら風邪を引くぞ」
三鷹は自分のタオルで投野の頭と首をわしゃわしゃ拭く。
「え、あの、三鷹…」
「ほら、更衣室行くぞ。手が冷たくなってるじゃないか」
「あ…うん…」
投野を抱きかかえるようにして更衣室へ引っ張っていく部長の後ろ姿を眺め小西はぽそりと呟いた。
「人目もはばからずあんなに甲斐甲斐しいのに…」
「マジ鈍いッスね、部長は」
堂前が力なく首を振る。
「合宿中、同部屋なのに何もなかったっていうのがわかった気がする…」
「え、マジっすか、付き合いはじめてすぐだったんスよね?」
「オレ達にはトーヤ先輩に手ぇ出すなオーラ、バリバリだったのに…」
「ある意味、猛者っつーか、さすがは三聖道場の三鷹修一」
「「あの『剣光会の投野』が苦労するはずだ…」」
投野に頼まれ、というより命令され、デートの段取りの協力したというのに、はるか斜め上を行った部長、三鷹に二人はただため息をついた。
「先輩、間接話法じゃ伝わりません」
ずい、と身を乗り出した堂前の逆三角形顔を投野はマジマジと見つめた。
「君、よく間接話法なんて言葉、知ってたね」
「……一応オレ、入試合格してここ、入ったんス」
「あ、ごめん。なんか見た目で判断しちゃった」
ははは、と頭をかくこの綺麗な先輩は春の日差しのような笑顔で結構酷いことを言う。尖った肩をがっくり落とす堂前の横で小西の四角顔が真剣な面持ちで言った。
「昨日の調子だとトーヤ先輩、待ち合わせせずに一緒に桜んとこ行く確率、100%っすよ」
「待ち合わせしたいんスよね?」
「言いましょう、デートだって言いましょう」
「え~、だって恥ずかしいよ」
「「…………」」
土曜日の朝、格技場の入り口近くでぼそぼそ話をしているのはもちろん、副部長投野郁夫と二年の小西に一年の堂前である。全体が四角いがっちりした小西と逆三角形に尖った堂前、ともに185センチ超えの二人に囲まれた細身の姿は一見、不良に無体を働かれているようだが、その実ボスは投野である。頬を染めて恥じらうボスに後輩二人は頭を抱えたくなった。
「オレらにはあんだけ好き放題なのに」
「笑って脅してくるのに」
「「三鷹部長の前じゃ儚げっスよねっ」」
「当然じゃない」
小首をかしげて見上げてくる仕草は可愛らしい花のようだが目が怖い。
「僕の恋路を助けなかったらその時は君ら」
「「喜んでお手伝いさせていただきますっ」」
四角と逆三角形は背筋を伸ばして気をつけの体勢を取った。投野はにっこりと後輩二人に綺麗な笑顔を向ける。
「ありがとう。頼りになる後輩をもって僕は幸せだな」
「「押忍っ」」
「もうすぐ三鷹、来る頃だからお願いね」
「「押忍っ」」
足取り軽く副部長は更衣室へと消えていった。はぁ、と二人は肩の力を抜く。
「トーヤ先輩の笑顔、怖ぇ…」
「あの人結構外道だから、見た目にみんな、騙されてるから」
「付き合い、長いんスか?」
堂前の問いに小西は遠い目をした。
「幼稚園の頃からオレ、パシらされてっから」
四角顔がふふ、と悟った顔で笑った。
「君も因縁なんかつけるから、直属のパシリにされちゃって」
「なんか…あん時はすんませんっした」
「ううん、いいんだ」
小西はへへへ、と笑った。
「でもマジで困った時ってあの人、必ず助けてくれるんだ」
「そうなんスか?」
「うん、そうなんス」
「どうした、そんなところで」
その声に二人は飛び上がった。黒い学ランの三鷹がスポーツバッグ片手に立っている。その後ろには部員達が。
「人相の悪いトップ2がそんな所に立っていたら皆、ビビって入れんだろうが」
なにげにこの人も酷いことを言う。だがそんなことにかまっている暇はなかった。
「ぶぶぶ部長ーーーっ」
「三鷹部長っ」
ここでデートの約束を取り付けなかったら後々、容姿はピカイチだけど中身が凄く怖い人に何をされるかわからない。
「部長っ、デートですから、トーヤ先輩と今日はデートしますよねっ」
「デートっつったら待ち合わせッスよ。稚児の桜んとこで待ち合わせ」
「デートですからね、マジでデート、ちゃんと待ち合わせしてくださいよっ」
「枝垂れ桜の下でチューくらいいいんじゃないスかね。なんならパンピー、オレらで排除しとくんで」
「あ、あれ、部長…?」
二人は唖然と目の前の男を見つめた。耳まで真っ赤になった三鷹修一を。
「……部長、トーヤ先輩のアプローチ、マジでわかってなかったんスね…」
「っつか、普段あんなにベタベタ構い倒しといてなんで今さら…」
「「鈍ぃ…」」
ギグシャグとロボット歩きで更衣室へ消えるその背を見送り、この調子じゃまだまだこの鈍カップルに振り回されると覚悟を決めていた。
デート
トーヤと待ち合わせてデート
部活中、フワフワと三鷹は落ち着かなかった。ちらりと視界の端に入る投野に心臓が跳ね上がる。投野も意識しているのか、チラチラこちらを見ては頬を染めていた。
ヤバイ、可愛いすぎるっ
鼻血が出そうだ。三鷹はバシバシと己の頬を両手で叩いた。組手の稽古中だっていうのに、集中しなければ怪我をしてしまうじゃないか。稽古に集中しなければ…いや、マジでオレのトーヤは綺麗だ。頬染めてうつむくとか可愛すぎだ。あの魅力は犯罪レベル、そんなトーヤとデートするのか、デートって、そういえば付き合いはじめてから待ち合わせでデートとか初めてじゃないか?そりゃ休みの日とか一緒に遊びに行ったりしたが、たいていトーヤの家にオレが迎えにいったり部活終わりに一緒に帰ったりだったし
『枝垂れ桜の下でチューくらい』
「うおぉぉぉぉぉっ」
どごっ、と手応えがあった。
「……あ」
足元に部員達が転がっている。そして鼻を押さえた顧問の山田が鬼の形相で…
「ばっかものーーーっ、何をぼんやり組手やっている。バケツ持って壁際立っていろーーーっ」
「すすすいませんっ」
ぼんやりしていたせいで体だけが反応していたらしい。軽く当てる程度に押さえたのも無意識だったようだ。さすがに最後はつい力が入って顧問の鼻を殴打してしまったが。三鷹は己を恥じた。まったく修行が足りない。こんなことでは師範である叔父に顔向けが出来ないではないか。
「いや、三鷹、頭の上にまでバケツはのせなくてもいいぞ?」
顧問が恐る恐る声をかけたが、なみなみと水を張ったバケツをそれぞれ両手に持ち頭にのせた三鷹はずっと仁王立ちしていた。
11時には部活が終わった。三鷹にのされてしまった不幸な部員達の戦意喪失だけでなく、部長、副部長ともに今日は使い物にならないと判断されたらしい。
「お先」
手早く制服に着替えた投野がパタパタと更衣室を出ていった。三鷹は投野が走り去ったあとのドアをぼぅっと見つめている。
「部長、部長」
小西に呼ばれて我に返った。
「はい、部長、荷物です」
「一応人払いしときますんで後はごゆっくり」
堂前がぐっと親指をたてる。
「あ…あぁ」
「部長、右手と右足、同時に出てるっす」
「部長、ファイっ」
小西と堂前だけでなく、部員達の励ますような視線に一つ頷くと三鷹はスポーツバッグを肩にかける。その時、バタンと更衣室のドアが開いて風が吹き込んできた。
「うわ」
「なに」
部員達は思わず顔を覆った。強い風は一瞬渦を巻きバサバサと辺りのものを宙に散らす。そしてすぐに消えた。開いたドアだけがきぃきぃと揺れている。
「ヤッバい」
「ミニ竜巻っぽくね?」
格技場脇のソメイヨシノはすでに散った後だというのに、どこから漂ってきたのか、薄紅色の桜の花びらがひとひら舞い落ちた。だが誰もそれには気が付かなかった。
格技場を出た三鷹は駆けだした。気ばかり急いて足がもつれそうになる。部活棟の裏にまわると濃いピンク色の八重桜が満開だった。ソメイヨシノが散り4月の半ばを過ぎるとこの八重桜の花の季節だ。その一番奥に稚児の桜はあった。4月の晴れ渡った空の下、満開の枝垂れ桜はまるで薄紅色の花の滝だ。
三鷹の綺麗な恋人はその花の滝の下にいた。わずかにうつむいた横顔はどこか憂いを含んで儚げだ。三鷹は足をとめ、しばしその姿に魅入った。ふと、投野が顔をあげる。
「トーヤ」
引き寄せられるように三鷹は投野の側へ足をすすめた。幸いというか、珍しく辺りには誰もいない。
「トーヤ…」
いつもの伊達メガネはしていない。切れ長の目がじっと三鷹を見つめてきた。透き通った眼差し、三鷹は投野の頬に手を伸ばした。指先にふれる温もり、胸が震えた。思えばずっと片思いしていて、半月前に晴れて恋人の地位を手に出来たが未だに夢なんじゃないかと思うことがある。
「夢じゃないな…」
三鷹の手に投野が頬を寄せた。うっとりと目をとじる。
「夢じゃないんだな…」
そっと唇を寄せた。吐息が甘い。柔らかい唇を感じようと三鷹は目を閉じた。
「トーヤ…」
びたーん!
「ぶはっ」
唇に来たのは柔らかい投野の唇ではなく平手の衝撃だった。
「なっ何っ…」
目を開けた先では真っ赤な顔の投野が憤怒に震えている。
「ト…」
「不埒者っ」
怒鳴られた。
「下賤のものが吾に軽々しゅう触れるでないっ」
「ちょっ、僕の三鷹に何すんのさっ」
同じ口が全く違う言葉を発する。
「ええい、吾に触れるなと言うたであろう、無礼者めが」
「君こそ誰だよ、勝手に僕の体、使わないでくんないっ」
同じ投野の顔で全く違う表情が交互にあらわれては己自身で罵り合っている。
「まさかトーヤ、お前」
嫌な予感、というより確信だ。キッと投野が三鷹を睨んだ。
「トーヤではないっ、吾は桜若丸じゃ」
「はぁ?誰だよ、出てけ。僕はこれから三鷹とデートするんだから」
「でえと?訳の分からぬ戯言をどの口が言うやら」
「僕の口だよっ、出てけっ」
「……トーヤ、だな?」
もう一度三鷹が念を押せば投野が眦をつりあげた。
「とおやではない、桜若丸じゃと言うておろうっ、このうつけが」
「そうだよ僕だよ、三鷹、助けてぇ」
「トーヤ…」
三鷹は額を押さえた。
「お前、また変なのにとっつかれたのか」
「口を慎め、無礼者め」
「三鷹になんてこと言うんだよっ」
がっくりと肩を落とす三鷹の前で投野は一人喧嘩をしている。だがこうしてはいられない。今は誰もいないがいつ花見客がくるともしれないのだ。
「とにかくここを離れるぞ」
ぐい、と投野の腕を引けば嬉しそうな笑顔の後に憤怒の表情が現れた。
「下郎、気安う触るなと先程から…」
三鷹が殺気をこめてギロリと睨んだ。
「桜若丸とやら、お前は口をつぐんでいろ」
投野の顔が真っ青になる。だがすぐに蕩けるような笑顔になった。
「三鷹ぁ」
甘い声、投野自身だろう、うっとりと三鷹を見つめてくる。その顔がすぐにゲロを見るような顔になった。
「東夷のなんと粗暴なことよ。この男と契りたいなど、おぬしもどうかしておるわ」
「ほっとけ。僕の恋人はサイコーにイイ男なんだから」
「……お前ら二人共口をつぐんどけ」
校内は人目がある。三鷹の家には両親と弟がいるはずだ。とりあえず投野の家に行くのが一番かもしれない、そう判断して裏門へ向かおうとした時、ユラリと目の端で青いジャージが揺れた。背は高くないががっちりとした体躯に四角い顔の空手部顧問、山田が枝垂れ桜の枝の先に立っている。
「山田先…」
呼びかけようとして三鷹はぎょっとした。山田の表情がおかしい。どこかぼんやりと焦点の合わない目をしてゆらゆらと体を揺らしている。
「おうわかまる…さま…」
山田はガサガサと絞り出すような声を出した。
「おうわかまるさま…」
表情が次第にはっきりしてくる。
「桜若丸様…」
「高綱…か?」
山田のぎょろりとした目にぶわり、と涙の粒が盛り上がった。
「さっ左様、高綱にござりまする」
「高綱っ」
「お会いしとうござりました、桜若丸様っ」
「待て待て待て待て」
がばぁ、と抱きついてきた山田の顎を投野が必死で押さえた。
「うぬが、何をする。吾と高綱の邪魔をするでない」
「ジョーダンじゃない、山田先生は好みじゃないのっ」
「高綱じゃっ」
「三鷹ぁ」
呆然としていた三鷹だったがハタと我に返った。目の前では投野が抱きつこうとする顧問を必死に引き剥がそうとしては今度は自分から抱きつくというチグハグなことをやっている。
「先生、目、覚ましてくださいっ」
大慌てで三鷹は山田の体を引き剥がそうとした。だが凄まじい力で投野に抱きつき離れない。
「山田先生っ」
「桜若丸様ぁ」
「高綱、高綱」
「三鷹、助けてぇぇぇ」
ん~~、と山田の分厚い唇が投野に迫った。
「ぎゃーっ、三鷹ぁぁぁ」
もう仕方がない。恩義ある部活担当教諭だがここは殴り倒すしかないと三鷹は覚悟を決める。
どごぉっ
衝撃音とともに山田の体が崩れ落ちた。
「だっ大丈夫っすか、先輩方」
「いったい何がどうなってんッスか」
小西と堂前がスポーツバッグを振り下ろしたポーズで立っている。二人共肩で息をしていた。
「オッオレら、こっちに花見客が行かないよう見張ってたんスけど」
「山田先生が突然、わけわかんないこと叫びながら走り抜けていって」
「追っかけてきたら先輩に迫ってるし」
「んで、とりあえず失神してもらっとこうかなぁって」
投野がうしっ、と拳を突き出した。
「でかした!君らはやっぱり最高の手下だよ」
「「恐縮ッス」」
「……手下?」
ん?と眉を寄せた三鷹に投野があわわ、と手を振った。
「言葉の綾っ」
「「ッス」」
後の二人が唱和する。その時、投野がわぁ、と泣き崩れた。
「高綱、高綱、しっかりいたせ」
目を剥いてひっくり返っている山田に取りすがる。
「高綱ぁ、吾を置いてゆくなぁ」
「ちょっと、何してくれてんの。離れろよっ」
「いやじゃあっ」
「こっちのセリフだ、離れろっ」
山田の胸に取りすがってはぐぐぐと両腕を突っ張って体を離す動作を繰り返す。小西と堂前はあんぐり口を開け三鷹に目で問いかけた。三鷹は頭痛をこらえるように額を押さえた。
「小西は聞いてるな。半月前、トーヤが女の幽霊にとっつかれた事件」
「はっはぁ…」
こくこくと頷く。
「先輩達が付き合うきっかけになったって、いや、でもあれ、トーヤ先輩にからかわれてるんだとばっかり」
「事実だ」
「なっなんスか、その女の幽霊って」
堂前がわずかに青ざめている。どうやら幽霊の類が苦手らしい。三鷹がため息をついた。
「女の幽霊に体を乗っ取られそうになった事件があったんだが、トーヤのやつ、また変なのにとっつかれた。今回は半分だけのようだが」
「変なやつとは何じゃ、無礼者っ」
「変なやつじゃないかっ、っつか山田先生から離れろってばっ」
むむぅ、と山田が唸った。ゆるり、と目が開く。
「おうわか…まる…さ…ま…」
「高綱ぁぁぁ」
「ぎゃーーーっ」
またさっきの繰り返しになろうとした時、ズシン、と空気が重くなった。三鷹のスニーカーが山田の肩を上から踏みつける。
「高綱とか言ったな。騒げばこのまま肩をはずす。恩師の体に傷をつけるのは本意ではないがやむおえん」
それから投野を見下ろした。
「桜若丸、しばらく大人しくしていろ。話はトーヤの家に行ってからだ。人に見られたらオレのトーヤが誤解される」
三鷹は静かに怒っていた。ひゅっと息を飲んで青ざめたのは桜若丸だ。すぐに頬を染めてうっとりとした顔になる。
「オレのトーヤって、三鷹ぁ」
両手で頬を包んでキャッと喜ぶ投野の傍らでは小西と堂前、後輩二人組が直立不動の体勢になっていた。
「マジギレした部長、怖ぇ」
「三聖の三鷹、パねぇ…」
「お前達」
「「うわぁっ、はははいっ」」
三鷹から突然呼ばれて更に直立不動になる。
「山田先生の体を頼む。とりあえずトーヤの家へ行くぞ」
「「はいぃっ」」
「トーヤ」
打って変わって優しい声音になった三鷹は投野を抱き起こした。
「お前の家族は明日までいないんだったな」
「うん、泊まりで出かけたから」
うっとりと三鷹に投野は寄りかかる。桜若丸が黙ったままなのは先程の脅しが相当堪えたからに違いない。
「なら明日までにカタをつけよう。行くぞ」
「うん、三鷹」
投野の肩を抱いて歩きだす空手部長の背中を眺め後輩二人は首を振った。
「部長のあれ、無自覚なんスよねぇ」
「トーヤ先輩は確信犯だけどな」
「…オレら、最後まで付き合わされるんスね」
「今更だろ」
高綱、とかいうのが取り憑いた山田の両脇を固め、二人は三鷹達の後を追った。明日の日曜をゆっくり過ごしたければ取り憑いたとかいう奴らを祓うしかないのだ。
「っつか投野先輩のお宅拝見はちょっと興奮するッス」
190センチに近い背丈の目つきの悪い後輩が嬉しそうに頬を赤らめている。結構可愛いとこあんのな、小西がそう思ったのは秘密だ。
「……まさかの数寄屋造り」
白木造りの玄関格子戸の前で堂前が唸った。
「だよな、トーヤ先輩の雰囲気だったら洋風って感じだもんな」
「っつか金持ち」
「だよなぁ」
幼い頃から同じ道場に通っていた小西にとっては勝手知ったるなんとやらだ。三鷹と投野が先に立ち、玄関から続く広い廊下の先の階段を上った投野の部屋へはいる。桜の無垢材フローリングと漆喰の壁の部屋の中はごく普通の高校生のものだった。広さは六畳、窓際にベッドがあり北向きの壁に勉強机が置いてある。三鷹はそっと投野をベッドに座らせた。うっとりとした表情の投野が三鷹をみつめる。
「吾の話をしてよいのじゃな」
「ちょっ、今いい雰囲気だったのにっ」
「かしましいぞ、下郎めが」
桜若丸が出てきてしまった。投野が眦つりあげて怒ったがこればかりはどうしようもない。
「桜若丸様~っ」
「わぁっ、山田先生がっ」
びょーん、と擬音が聞こえそうな勢いで顧問の山田が投野に飛びつこうとした。
ゴッ
振り向きもせず三鷹の裏拳が飛ぶ。
「ふぐぅ、おのれ、かなり出来るとみた」
鼻を押さえた山田、取り憑いているのは高綱といったが、そう呻けば三鷹が鋭い目で見下ろす。
「トーヤに近づくんじゃない」
それからどかりと床に座った。
「部長、容赦ねぇッスね」
「さっきは一応先生の体だから遠慮してたのに」
「遠慮したらトーヤが危ないだろうが」
三鷹の中心は恋人の投野なので恩師への配慮は二の次と判断したようだ。車座になったところで、山田が口を開いた。
「我が名は丹羽三郎高綱、桜若丸様は京の宮家ゆかりのお方であられる。お館様が早くに亡くなられやむなく七つの御年に鎌倉の寺へ稚児として下られたのだ。おぬしら東夷が口をきいていい御方ではない」
「わぁるかったね、あずまえびすで」
ベッドに座った投野がふん、と鼻を鳴らした。だがすぐにふわん、とした笑顔になる。
「高綱はととさまの郎党であったが、吾のためにともに鎌倉へ下ったのじゃ」
「それがしは十五でござった。鎌倉へ下られる桜若丸様につきしたごうたのは」
「下る下るっていちいちカンに触るね、君たち…」
「トットーヤ先輩、落ち着いてくださいよ」
小西が剣呑な表情になる投野をなだめようとすればすぐに山田を見つめてトロン、となるので非常にやりにくい。
「なんかこう、事情知らなかったら一人漫才っすね」
のほほんと言った堂前は投野にギロ、と睨まれ慌てて山田を指差した。
「あ、いや、なんつーか、中身が違うだけで山田先生の四角顔がキリって見えるっていうか」
部屋の温度が数度下がった。黙ったまま腕組みしている三鷹の機嫌が急降下している。小西が堂前を一発はたき、慌てて話を促した。
「んで、何があったんスか」
促せば、ふっと投野の瞳が悲しげな色を佩いた。
「都では戦があったとか上皇様が流されたとか、じゃが吾にはどうでもよいこと、寺での暮らしは寂しゅうて辛うて、高綱だけが吾の支えであった」
「桜若丸様は鄙の地にても雅やかでござりました。東夷の跋扈する中、桜若丸様だけが都の香りをまとうておられた」
「高綱…」
「下るだの東夷だの、は~、そーんなに京都出身が偉いなんてねー、へー、ほー」
嬉しそうに微笑んだ次の瞬間、投野は眉を吊り上げ不機嫌極まりない声を出した。
「まぁまぁ、トーヤ先輩」
「話きかねぇと成仏させられねぇんで、ここはこらえてくださいよ」
後輩二人がかりで投野をなだめる横では腕組みした三鷹がむっつりと黙り込んだままだ。静かなのがまた怖い。山田に憑依した高綱は思い出に浸っている。
「それがしは桜若丸様が美しゅう成長なされていくのをお側にてずっと見つめ参り申した。それはもう、香り立つようなお美しさで」
ぽ、と山田が頬を染めた。小西と堂前は思わず後ずさる。投野も頬を染めた。
「吾と高綱はわりなき仲となったのじゃ」
「へ、わり…何?」
「わりなき、っスよ、先輩」
堂前が小西に囁いた。見かけによらず古文が得意なのだという。更に頬を染めた山田が言った。
「契りをかわし、それがしと桜若丸様は身も心も一つになり申した」
「……契り」
「身も心も…?」
「「「はぁーーっ?」」」
投野を含め四人とも思わず素っ頓狂な声をあげた。山田は胸に手をあて感極まった声を出す。
「桜若丸様が御年十一の時でござった」
「十一?」
「十一歳ってことッスか」
「十一歳で、ええ?」
「アンタ、十一のガキ、ヤったのか」
「犯罪だぞ、それはっ」
堂前と小西の驚愕の声に三鷹の声が重なる。投野が叫んだ。
「十一って小学生じゃない。高3の僕だってまだ三鷹とエッチしてないのに生意気ーーっ」
ツッコむとこ、そこ?
わなわなと拳を震わせる投野を三人は生ぬるい目でみやった。山田の、つまり高綱のうっとりとした表情がふと陰る。
「桜若丸様が十四になられた春、我らの仲が寺の管長様に知られ、それがしは寺を追われ申した」
「あの管長は吾を伽稚児にしようとしておったのじゃ」
「桜若丸様の艶やかさに心を奪われぬものはおりませなんだ」
「高綱、そなたの武者ぶりこそ、比類なきものであったぞ」
「「……ノロケはいいから」」
ぽぽぽ、と頬をそめる高綱を小西と堂前は嫌そうに見た。乙女チックに頬を染める空手部顧問はビジュアル的にキツすぎる。三鷹の眉間のシワもますます深くなる。桜若丸が悲しげに言った。
「吾は高綱と逃げた。山深きこの鄙の地まで逃げたものの…」
「いちいち表現がムカつくな」
「トーヤ先輩、ややこしくなるんで口、はさまないでください」
小西が疲れた顔で投野をなだめる。空手部顧問の四角顔で長々とノロケられるのは精神的拷問だ。とっとと成仏のきっかけを探り出さねば。高綱は悲痛な顔をした。
「多勢に無勢、それがしは追っ手に斬られ果て申した」
「吾は連れ戻される途中、隙をみて自刃したのじゃ」
投野を含め皆がハッとなった。そうだ、脳天気な会話につい忘れていたが、不幸な死に方をしたせいで千年近くこの二人の魂はさまよい続けている。愛する者と引き裂かれ惨たらしく命を断たれた二人の魂は投野と山田に取り憑くことで救いを求めているのだ。
「じゃっじゃあ、あの稚児の桜の伝説ってぇのは」
基本、お化けが嫌いな堂前が恐る恐る尋ねた。
「吾のことじゃ。高綱が恋しゅうて、吾の魂は死んだ吾の体から生え出た桜の木から離れることができなんだ」
「悲しみのあまり、桜になってしまったんスね」
堂前の細い目が涙で潤んだ。
「想いが残って桜に变化するなんて、そりゃあんまりにも哀れじゃねぇですか、ねぇ、小西先輩」
「哀れすぎる」
小西もギョロ目いっぱいに涙の膜を張っている。
「そりゃトーヤ先輩、しばらくの間辛抱して、この二人を成仏させてやんねぇと」
「誰が桜になったのじゃ?」
投野の顔が、喋っているのは桜若丸だが、その顔がきょとんとした。
「いや、だから、恋人への想いが残って桜になっちまったんでしょ?」
「そんで稚児の桜って伝説に」
桜若丸は目をぱちくりさせていたが、何か思い当たったらしくポンと手を打った。
「おぉ、思い出した。逃げる時に腹が減ってな。丁度桜の実が熟しておったのでそれを食したのじゃ。種ごと飲み込んだゆえ、吾が死んだ後それが芽をだしたのであろう」
あははは、と笑った。
「人が桜に化けるわけはなかろうに、おぬしら、面白きことを言うの」
ケラケラ笑う桜若丸に堂前と小西が殺意を抱いたとしても責められまい。
「ほらみろ、僕にとっついてる奴に同情なんていらないんだよ」
今まで黙っていた投野が吐き捨てた。
「とにかく、どうやったら君たち、成仏するのさ」
「口吸いでござる」
……はい?
きっちりと正座した高綱が空手部顧問、山田の四角顔で大真面目に言う。
「それがしと愛しい桜若丸様、口吸いすれば本願かない成仏出来申す」
口吸いって…
「えーっと、オレ別に古文、得意じゃないっすけど、その口吸いってのは…」
ぼそぼそ言う小西の脇を堂前がつついた。
「先輩、アレっすよ、アレ」
小西が表情をこわばらせたまま頷く。
「キス、のこと…っすね」
「嫌だっ」
「何故じゃっ」
投野が立て続けに叫んだ。
「ようやく高綱に会えたのじゃ。高綱、もう吾を離すでない」
「桜若丸様、この高綱、二度と御手を離しませ…」
どごっ、と破壊音がした。投野に飛びつこうとした空手部顧問の顔面に無言で三鷹が裏拳を叩き込んでいる。
「近づくな」
ごごごご、と擬音が聞こえてきそうな空気をまとった三鷹に、成仏させるためキスさせちゃどうですか、などと後輩二人、進言できるはずもなかった。
「買ってきました。えっと、部長はテリヤキチキンバーガー、これっスね。あとコーラとオレンジと」
小西と堂前はバーガーと飲み物を床に置いた。腹が膨れたらこの険悪な空気もなんとかなるかと近くのハンバーガーショップで買ってきたのだ。
「トーヤ先輩、ホントにこれでよかったんスか?先輩、普段は…」
「いいんだよ、ありがと」
小西の言葉を途中で遮ると投野はためらいなく赤いシールの張られたバーガーに手をのばす。同じ投野の口が不思議そうに言った。
「何じゃそれは。食べられるものか?」
「そ、食べ物だよ」
不思議そうな顔から一転、不穏な笑みを浮かべた投野はパッケージを開くと下の冷蔵庫から取ってきたタバスコをバシャバシャふりかけた。
「おい、トーヤ、お前、それ」
三鷹が止める間もなく投野はそのバーガーにかぶりつく。静寂が落ちた。もぎゅもぎゅと咀嚼する音だけがする。突然、ぎゃ~~、と悲鳴が上がった。
「痛い痛い、口が焼けるようじゃ」
投野に取り憑いた桜若丸が苦悶の表情で叫んだ。すぐにそれは邪悪な笑いにかわる。
「やっぱりね」
ふはははは、と高笑いした投野は己自身を指差した。
「僕の体が受け取る刺激を君も感じるんだろ?どうだい?ハバネロなんて千年前の日本には存在してないからね。たまんないでしょ」
投野が食べているのは期間限定激辛バーガーだ。ただでさえハバネロの辛さが凄まじいと噂のバーガーなのにバンズ部分に投野はタバスコを振りかけている。
「トーヤ、お前だって辛いのは苦手だろうが」
「三鷹は黙ってて。これは僕のプライドの問題なのっ」
額に汗を浮かべ投野はまたかぶりついた。
「せっかくデートだっていうのにこんなのに取り憑かれちゃって、僕は自分が情けないっ」
はむ、とハバネロ部分を口に入れた。流石に投野の顔が歪む。
「かっら~」
その後の叫びは更に悲痛だった。
「焼ける、口が焼ける、助けてたも」
ひぅひぅと喉を鳴らして泣く。
「やめてたも、やめてたも。喉も鼻も痛い、高綱、痛い痛い」
「くらえ、これが現代の味だ」
投野は強炭酸、と書かれた炭酸水をがぶ、と飲んだ。また悲鳴があがる。
「痛い痛い、焼ける水じゃ、腹の中まで痛い」
「ざっまあみろー」
「おお桜若丸様、桜若丸様」
高綱はただ狼狽えるばかりだ。投野は泣き顔と高笑いを交互に繰り返している。
「せっ先輩、ブラック投野が出てますよ」
「トーヤ先輩、本性出てる出てる」
後輩二人も別な意味で狼狽えた。なんだかんだで投野郁夫は三鷹の前ではしおらしいのだ。付き合いの長い小西は特にそのことをよくわかっている。
「あの、三鷹先輩、トーヤ先輩はですね」
今が特殊で普段の投野がホントなのだと言おうとした小西はそのまま口を噤んだ。三鷹が柔らかい目で投野をみている。
「……可愛いな」
「へ?」
三鷹が照れたような笑みを向ける。
「一所懸命なとこ、可愛いだろう?」
「………」
「…………」
後輩二人は黙って自分達のバーガーに取り掛かった。あの投野にしてこの三鷹、な理由がなんとなくわかった気がした。
腹が満ちれば落ち着きも戻ってくる。そして桜若丸は先程のショックで引っ込んでしまっているので、今、目の前でニコニコしているのは投野郁夫自身だ。その証拠に桜若丸を心配して近づく高綱、山田の体を掌底で撃破している。
「後生でござる」
高綱ががばりと両手をついた。
「ただ一度、一度だけ口吸いを許してくだされ。さすれば我らは手に手をとって浄土へ参ることがかなうのでござる」
山田の四角顔がはらはらと涙を落とした。中身が違うと同じ顔でもこうまで変わるか、というほど、高綱の様は毅然としながらも哀れを誘う。つい後輩二人も同情の念が沸き起こった。
「三鷹部長、一瞬だけチュッっての、ありなんじゃないスか?」
「そうッス、トーヤ先輩もここは一つ男をみせて」
「ヤだよ」
「だめだ」
「「心狭っ」」
後輩二人組、思わずボロリと出たとして責められまい。午前中からこの騒動に巻き込まれ、もう日が傾きかけていた。それでも帰ると言わないあたりはお人好しな二人である。単に先輩が恐ろしいからかもしれないが。その怖い先輩である三鷹がギロリと目を光らせた。
「オレがどれほど我慢してきたと思っている。そう安々とトーヤの唇を渡してたまるか」
「三鷹…」
ぽぽ、と投野が頬を染めた。と、すぐにげんなりとした表情が浮かぶ。
「おぬしもたいがい度量の狭き男よな。少しは吾の高綱を見習うがよい」
「はぁ?勝手に取り憑いてて何勝手なこと言ってんのさ。僕の三鷹のがイイ男に決まってんだろ。っつかとっとと成仏しなよ、ほら、お菓子あげるからさ」
ピザポテトとブラックサンダーを台所から取ってきてもらって今、目の前にひろげている。投野はブラックサンダーを頬張った。その途端、目が驚愕に見開かれ、それからぽうっとなった。
「なんという甘露じゃ…」
「でしょ?千年前じゃ味わえないよね」
すぐにしれっとした表情に戻った投野はまた口の中に放り込んでもごもご食べた。途端にふわん、と表情が蕩ける。
「はいはい、君らには強烈な甘さでしょ」
表情筋は蕩けたまま冷たい目の投野は身を乗り出して高綱、体は教師の山田だが、その口にブラックサンダーを突っ込んだ。一瞬、高綱は目を白黒させたがすぐにぼわんとなる。
「こはいかに…」
「甘いでしょー」
くくく、と投野が喉で笑う。そのまま凍りつくような眼差しを高綱に向けた。
「天上の美味を味わったんだから成仏しなよ」
「怖っ」
「本性ダダ漏れ」
小西と堂前はビビリながらちらりと三鷹を見れば僅かに頬が赤くなっている。
「あれ、ゼッテー可愛いとか思ってるッスよね」
「パネぇ、部長パネェ…」
その時、ぽん、と堂前が手を打った。
「そうだ、なんで気づかなかったオレ」
堂前の細い目がキラキラ輝く。
「山田先生の体じゃなく三鷹部長の体に入ればいいんスよ、高綱さん」
「そっか」
小西のギョロ目が更に大きくなった。
「三鷹部長の体とトーヤ先輩だったら何の問題もないッスよね」
「………」
三鷹は腕組みしたまま眉をひそめたが今度はだめだとは言わなかった。要はOKということだ。
「したり、何故それがし、この体にとどまりつづけたやら。正直、取り憑いたとはいえこの御仁の容姿はそれがしの好みではござらん。ましてや桜若丸様をや」
「そうじゃ高綱。吾もその体より三鷹のほうが好ましい」
体を乗っ取られたうえ酷い言われ様だが、どうやら山田の意識は完全に眠った状態らしいので問題はない。
「三鷹殿」
高綱、山田のドラ声が朗々と響いた。
「それがしを受け入れてくだされ」
「やめろ、そういう言い方は」
心底嫌そうな顔をした三鷹だがスッと背筋を伸ばして高綱の方に向き直る。
「オレはただこうしていればいいんだな」
「お頼み申す」
高綱はあぐらをかいた両膝の上でぐっと拳を固めるとすぅっと丹田に気を入れた。
「三鷹殿、参るっ」
一呼吸おいて突如、山田の体ががくりと傾いだ。慌てて小西が支える。皆、息を飲んだ。三鷹はまっすぐに小西を見つめたまま微動だにしない。一分、二分…張り詰めた空気に誰も動けなかった。声も出せない。部屋の時計の音だけがやけに耳に響く。
「…むぅぅ」
かすかなうめき声がした。ハッと視線が山田に集まる。小西が支えている体がぴくりと動いた。
「うぅむぅ」
山田の大きな目がぱちりと開き、体を起こした。
「むぅ…ん?」
頭を振ってから周囲をみまわし、きょとんとなる。
「や…山田先生?」
手を離した小西が恐る恐る呼びかけた。
「ありゃ、何だお前達」
目をパチパチさせた山田は周囲を見回してぽかんとしている。
「あ?ありゃ?ここはぁ…」
「せっ先生、山田先生ですよね」
「へ?」
堂前の言葉に山田はますますぽかんとなる。
「山田先生は道でお倒れになっていたんです」
にこり、と笑って言ったのは投野だった。
「丁度僕の家の近くでしたので、居合わせた小西と堂前と一緒に中へお入れして」
ね、と落ち着いた様子の投野に後輩二人はコクコク頷く。桜若丸にも今は大人しくしているほうがいいとの分別はあるようだ。
「救急車を呼ぼうかどうしようかとしていた時でした。よかったです、先生。目が覚めて」
「そっそうだったのか」
「そうだったんです」
「そういえば顔を何かにぶつけたように痛いな」
いやそれ、ぶつけたんじゃなくて三鷹先輩の裏拳。
後輩二人、心の中で思わずツッコむ。投野は柔らかく言った。
「それはいけない。先生、お倒れになった時、ぶつけたんだと思います。病院で診てもらった方が、あ、もしよろしければ小西達に送らせますが」
「いやいや、それには及ばんよ」
ぶんぶんと山田は手を振った。
「すまんかったな、世話をかけてしまって。うん、もう大丈夫だ」
うんうん、と一人で頷くと部屋を出て行く。わずかに足取りがおぼつかないが大丈夫だろう。小西が玄関まで送りに出た。ほっと投野が胸をなでおろす。
「先生、単純でよかった」
「いや、トーヤ先輩、なんつーか、先輩、どこ行っても生きていけるっつーか」
「同感だ」
三鷹も同意したということは、正確に恋人の性格を把握しているのだろう。
「…って、あれ、三鷹部長、普通っすね」
「ん?」
堂前に言われて三鷹は自分の体をぱたぱた叩いた。
「別にどこがどうということもないな」
「え、高綱さんが入ったんじゃ」
「たっ高綱っ」
投野ががば、と手を握ってきた。必死な表情なのは今、体を動かしているのが桜若丸だからだ。
「高綱、高綱」
必死に呼びかけていた桜若丸、投野の顔がみるみる歪んだ。
「高綱がおらぬ」
「え…」
同じ投野が普段通りの顔に戻る。
「三鷹、全然何ともないの?」
「あ…あぁ、何ともない」
「高綱がおらぬ…」
桜若丸がキョロキョロとあたりを見回した。
「高綱がおらぬ、高綱、高綱の気配が…」
オロオロと見回しては高綱、高綱とうわ言のように名を呼んでいる。
「高綱」
「おい、落ち着け」
立ち上がって部屋を出ようとする投野の体を三鷹が止める。堂前が急いで立ち上がった。
「部長、オレ、もう一度山田先生の様子、見てくるッス」
「頼む」
小西が戻ってきた。
「山田先生は」
「あ、普通っしたよ。普通に帰っていきました」
へらり、と呑気に笑う。
「高綱さん、部長の中に入ったんスね。山田先生、元のもっさりした顔に戻って、中身が変わると顔つきって変わるモン…」
コォォ、と部屋の中に風がうずまき始めた。渦の中心にいるのは投野だ。いや、風ではない。黒っぽい何かが渦を巻いて投野に集まっていく。
「高綱…」
投野の目は暗い虚のよう、窓から射し込む夕日が異様に赤い。
堕ちていく。
三鷹は直感した。桜若丸の魂が堕ちていこうとしている。
「あわわわ」
「ぶっ部長っ」
小西と堂前がガタガタと身を震わせ後ずさった。三鷹は声を張り上げる。
「桜若丸、しっかりしろ。お前、このままじゃ高綱に会えなくなるぞ」
風の渦が強くなった。目が開けていられない。黒いものが更に集まってくる。
「トーヤ、お前が引き止めろ。トーヤッ」
桜若丸が天を仰いで咆哮した。人の声とは思えぬ、地の底からわき出したような音、突風が吹き付けてくる。
「うわっ」
「ひゃっ」
後輩二人の悲鳴があがる。三鷹は腕を顔の前に組んで風をふせいだ。一瞬の後、パタリと風がやみ静けさが戻る。目を開けた三鷹の前に投野の姿はなかった。足元には後輩が気を失って倒れている。
「トーヤ…」
呆然と三鷹は名を呼んだ。
「トーヤ、どこだトーヤ」
返事はない。三鷹は部屋の窓から外を見た。誰もいない。陽はすでに落ち、西の空には朱色の雲が広がっている。
「トーヤ」
三鷹は部屋を飛び出した。頭の中でガンガンと警鐘が鳴っている。トーヤの家を出た三鷹は高校に向かって走り出した。
桜だ、稚児の桜。
不思議な確信だった。足元にはすでに薄闇が降りてきている。逢魔が時、魔が通るといわれる時間、そして桜若丸の魂は今、その魔を呼び込んで堕ちていこうとしているのだ。トーヤの魂を道連れに。
「くそっ」
三鷹は必死で走った。トーヤは連れて行かせない。そして桜若丸、何百年も恋人を待って、会えると信じて桜の木にとどまり続けた魂、今更悪霊なんぞになられてたまるか。
「くそ高綱」
桜若丸を愛しているならお前もなんとかしろ、そう心の中で毒づきながら三鷹は全力で桜の木のある高校を目指した。
「やはりここか」
肩で息をしながら三鷹は稚児の桜の前に立った。薄暗い中、桜の花びらだけが白く浮かび上がっている。滝のように流れ落ちる枝垂れ桜の下に投野は立っていた。真っ白い顔が三鷹の方を見る。その目はぽっかりと空いた暗い穴だ。
「桜若丸」
ニタリ、と投野の口が歪んだ。
「そうじゃ、吾は桜若丸じゃ」
「トーヤ、聞こえるかトーヤ」
三鷹の叫びを嘲笑うようにまた投野の口が歪む。
「あれはおらぬ。先程、この体の外へ押し出されていった」
眉を寄せた三鷹に桜若丸は更に笑う。
「どこにもおらぬよ、とおや、とやらは」
「お前…」
ぎり、と三鷹は唇を噛み締める。桜若丸はぽっかり空いた虚の両目でひたと三鷹を見据えるとケタケタと乾いた笑い声をあげた。
「悔しいか、恐ろしいか、苦しいか。愛しき者と引き裂かれるとはどんなものか身を持って知ったであろう」
ケタケタケタと笑い続ける。三鷹の腹の中に憤怒ともつかぬ何かが湧き上がってきた。拳を握り三鷹は仁王立ちになる。
「トーヤの体でゲスな笑い方をするな」
「…何じゃと?」
笑うのを止めた桜若丸はポカリ、と大きく口を開けた。
「トーヤの顔で間抜け面も許さん」
「間抜け…じゃと?」
「そうだ、間抜けだ」
ぶわり、と投野の髪の毛が逆だった。桜の花びらがザザ、と音を立て宙を舞い始める。
「吾が間抜けというたか」
「ああ、言ったぞ、桜若丸。お前は間抜けだ」
ザザザ、と花びらの塊がいくつも三鷹を襲った。軽く柔らかい花びらも塊となり勢いがつけば石と同じだ。だが三鷹は避けようともせず桜若丸を睨みつけた。肌が切られ血が滲む。それでも三鷹は仁王立ちしたまま桜若丸を見据える。
「下郎めが、誰に向かって口をきく」
「お前だ、桜若丸。何百年も高綱を待ったあげくがこれか、間抜け」
「何じゃとっ」
「化け物に堕ちたお前が高綱に会えるのかと言ってるんだっ」
三鷹は怒鳴った。そのまま宙に目をやると渾身の気をこめて叫ぶ。
「丹羽三郎高綱っ、貴様のそのザマは何だ。桜若丸が愛しいなら救ってみろ」
ぐぐっと拳が更に固められた。
「トーヤ、こっちへ来い」
血を吐くような気迫で三鷹は叫んだ。
「オレはここだ、ここにいる。トーヤッ」
しっかりしろ、トーヤ
「トーヤッ」
オレのところへ来い
「トーーヤーーーッ」
轟音が響いた。体を貫くような衝撃、真っ白な光が炸裂する。三鷹は足を踏ん張った。ここで気を失ってはいけない。自分はトーヤを、トーヤが…
何かが胸の奥に流れ込んでくる。奔流のように悲しみが、怒りが、嘆きが、無念さが、そして最後に押し寄せてくるのは愛しいと思う気持ち。
愛しい、愛しい、この世の何よりも愛おしい、そして守りたいのだ、あの御方を。
……そうか、これはお前の心なんだな、丹羽三郎高綱。
「ずっと探していたんだって」
ふいに耳元で声がした。さらりとした黒髪が顔の横で揺れる。
「トーヤッ」
「うん、ごめん、心配かけちゃって」
三鷹の隣で投野が笑っていた。それからまっすぐに前を指差す。
「三鷹」
白い光の中に二つの人影が寄り添っていた。海の紺より深い勝色の鎧直垂に折烏帽子の若者が白い長絹を着た少年を抱きしめている。精悍な顔立ちの若者の胸に抱かれ、ふっくらとした頬の目鼻立ちの整った少年はさくらんぼのような唇をほころばせていた。
「間に合ってよかった」
「あぁ」
闇は祓われた。桜若丸は恋人に抱かれ安らかな顔をしている。と、二人がこちらを向いた。若武者は照れたような笑顔で、少年は輝くような笑みを浮かべて、それから深々と頭をさげる。白い光が強くなった。光の中、二人の姿がゆっくりと消えていく。こちらを見て手を振る二人は幸福そうな笑顔だ。隣にたつ投野も手を振っている。三鷹はその肩を抱き笑った。
「よかったな」
「うん、三鷹」
はらり、と薄紅色の花びらが舞い落ちた。はらはらと天から花びらが降り注ぐ。気がつくと二人は枝垂れ桜の下に立っていた。桜の花びらが静かに散っている。風のない穏やかな春の宵だ。
「トーヤ…」
「うん」
三鷹は肩を抱く手に力を込めた。
「そこにいるな」
「うん、大丈夫」
はぁ~、と大きなため息が口からもれる。ぐるっと投野の体を正面に据えると両肩に手を置いた。
「お前な」
「あ~、ごめん~」
三鷹の最大級のしかめっ面に投野は目を泳がせる。もう一度三鷹は大きくため息をつきがっくりと項垂れた。
「これ以上心配させるな。オレの心臓がもたん」
「はは…は…」
投野はぽり、と頬を人差し指でかいた。
「えっと、三鷹」
「何だ」
「あのぅ~」
三鷹が顔を上げるとゆでダコのようになった投野がもじもじとしている。
「こういう状況で言うことじゃないんだろうけど、えっと~」
「ん?」
「今、誰もいないっていうか、枝垂れ桜も目隠しになってるっていうか、だから~」
ぐい、と三鷹は投野を引き寄せた。その後頭部をがっちりと支え深く唇を重ねる。
「ん…」
投野の手が三鷹の背にまわった。細いその体を強く抱きしめ貪るように激しく口付ける。カクッと投野の膝から力が抜ける頃、ようやく三鷹は唇を離した。荒い息のまま、再び抱きしめる。
「本当に…心臓が止まるかと思った…」
投野の肩に顔をうずめてつぶやく三鷹の声はひどく頼りない。
「お前だけは失えないんだ。だから…」
「ごめん…」
「二度とこんな…」
「ごめん、三鷹、ごめん」
「トーヤ…」
「泣かないでよ、ねぇ」
柔らかく髪を撫でる手は温かい。
「…泣いてない」
「うん…」
三鷹が顔を埋めた投野の黒い学ランの肩が涙で濡れているのは忘れてもらおう。三鷹は腕に囲った温もりを確かめるようにじっと抱きしめていた。
「僕ね、フワフワ空飛んだんだ」
桜若丸が暴走した時、投野は体から弾き飛ばされたのだそうだ。二人は高校の裏門を出て並んで歩いている。投野の家までは歩いて15分くらいだ。あたりはすっかり暗くなっていた。アスファルトの道を外灯の白い光が照らしている。三鷹に身を寄せるようにして歩く投野はどこか楽しそうに不思議体験を話していた。
「夕焼けが綺麗でね、真上の空は淡い青で、僕、すごく気持ちよくてフワフワしてたんだよ。もうずーっとこのまま浮かんでいてもいいかなぁ、なんて」
三鷹は再度、胃の腑が冷たくなった。投野がそのまま帰って来ない可能性があったのだと今更ながら背筋が震える。投野の呑気さが今は恨めしい。そんな三鷹の心中にはとんと思い及ばないのか、投野は楽しげに話を続ける。
「風が吹くとさ、ふわ~って流されるんだ。くるくる回ったりして、葉っぱか花びらみたいって、そしたらいきなりぐいって手を引っ張られたんだよ」
三鷹より少し背の低い投野が首をかしげると黒髪が頬をくすぐる。
「僕の手首を掴んでるの、ほら、大河ドラマとかで鎧武者が籠手だっけ、つけてるじゃない。そういう手だったからびっくりして、みたらまんま、武士がいるしさ。まぁ、高綱さんだったんだけど、若武者ってカッコいいよね」
三鷹は少しムッとなった。確かに、白い光の中にいた若武者は自分がみてもカッコいいとは思うが、どうも投野のこととなると狭量だ。そんな三鷹の葛藤もしらず投野はほわん、と言った。
「高綱さんが憑依したのがあの山田先生だったからあんまりわかんなかったんだけど、すごく凛々しい人だよね。あのガキ、桜若丸がメロメロなのもわかる気がした。そういえば山田先生の四角ゴリラ顔もさ、高綱さんが憑依してたらなんとなくキリってしてたと思わない?」
「………」
「あ、でね、僕の手掴んだ高綱さんが凄く厳しい顔して言ったんだよ。投野殿、かように流されてはならぬ。御身はいずこ、早う戻らねば投野殿、本当に死んでしまいますぞ」
投野がいかめしく口真似をする。
「……上手いな」
「でしょ?」
ふふ、と笑う投野はどこまでも呑気だ。だが、高綱の言うことが本当ならやはり相当危ない局面だったのだ。なのにコイツときたらのんびりすぎる。
「あのな、トーヤ、お前」
「その時だったんだ、三鷹の声が聞こえたの」
思わず投野の顔を見る。
「三鷹が僕を呼んでた」
投野は嬉しそうな、幸せそうな顔をしていた。
「君が僕を呼び戻してくれたんだ。三鷹」
「トーヤ…」
「白梅の女の時も君は僕を助けてくれたね。君が僕を呼んでくれたからこうして生きていられる」
くしゃり、と泣きそうな顔で投野が笑う。
「ありがとう、三鷹」
「バカ、当たり前だ」
投野の肩を思わず抱き寄せた。
「二度といなくなるな」
「うん」
「今後は樹齢何百年とかの木の側に行くんじゃない」
「うん」
「心霊スポットとかもってのほかだからな」
「うん、行かない」
ことり、と肩に投野が頭をのせる。
「でも三鷹と一緒だったらいいよね?」
ぴしり、と三鷹の額に青筋がたった。黙って投野の頭を押しやると正面から鼻をつまむ。
「イデデデデ」
「心構えがなっとらん」
「イダイよぉ、ミダガ~~」
それから投野は家に帰り着くまでずっと三鷹の説教を受けるはめになった。最初の甘い雰囲気は霧散して微塵も残っていない。三鷹を怒らせると静かに怖い、投野が新たに学んだことだった。
家に帰り着けば後輩の二人、小西と堂前はまだ部屋で気を失ったままだった。揺すれば悲鳴とともに起き上がる。
「うわわ、お化けぇぇ…あれ、先輩」
「ぶっ部長、あれ、オレら、あれぇ」
「大丈夫。もう終わったから」
きょときょとする二人の頭を投野は思わず撫でた。
「え、桜若丸さんは?高綱さんは?」
「無事に成仏した」
三鷹も膝をついて二人の腕をたたく。
「ありがとう。お前達には随分助けられた」
「ありがとうね、二人共」
投野もしゃがんで二人に微笑んだ。
「え、いやぁ、オレらは別に、なぁ」
「そうッスよ、何もしてねぇッス」
へへへ、と照れくさそうに頭をかく二人はいい奴らなのだ。
「で、トーヤ先輩、部長とちゅー、したんスか?」
「ちゅーしたに決まってるッスよ、成仏したんスもんね、じょうぶ…いでっ」
ゴンゴン、と投野に頭をはたかれる。一言多いのが玉に瑕だ。三鷹は苦笑した。
「今度飯でも奢ろう。土曜を潰して悪かったな」
「いや、別に暇なんでいいッスけど、それより部長」
小西の四角顔が少し不安げに周囲を見回した。
「いくら成仏したからって、今日はトーヤ先輩んち、誰もいないんスよね?もう外、真っ暗だし、一人にしとくのってやっぱマズイんじゃないスか?」
「そうっスよ、部長。今夜一人っつうのはヤバイっすよ」
パッと投野の顔が輝いた。
グッジョブ、お前達!
投野が後輩二人を見やれば密かにぐっと親指をたててくる。顔に似合わず案外気が利くのだ。投野はことさら不安げな表情になった。
「そうだよね。今日は誰もいないし、この家って広いから僕一人じゃちょっと…」
「そう思って家には連絡済みだ。今夜はオレの家に泊まれ。飯の用意もしてある」
「「「………えっ」」」
三鷹があまりにさらっと言うので3人共反応が遅れた。
「なんだ、嫌なのか?」
「いっ嫌とかじゃなくてっ」
首をかしげる三鷹に投野はあぐあぐと言葉が出ない。小西と堂前が身を乗り出した。
「っつか部長、ここはアレっしょ、今夜はオレが泊まってやるから心配するな的な流れでっ」
「二人っきりの逢瀬っすよ?二人でモーニングコーヒーって奴っすよ?」
「堂前、いつも思っていたんだが」
三鷹の黒黒とした目にひたと見据えられて顎の尖った細めの後輩は青くなった。調子にのって生意気を言い過ぎたか。
「すすすいま…」
「お前、顔に似合わず妙に古風な言い回しするな。文系だからか?」
堂前はがく、とへたりこむ。
「はぁ、オレ文系っス」
「やはりそうか」
納得する三鷹に文系、関係なくない?とは言えなかった。というより要点がズレてきている。
「いや、ですから部長、オレらが言いたいのはですね、部長が今夜ここへ泊まったほうが何かと」
「今夜二人きりになったらトーヤの魅力にオレが抗いきれん」
「「「…へ?」」」
この人、今なんつった?
投野と後輩二人、マジマジと目の前の男を見ればしかめっ面で腕組みをしている。
「だからな、トーヤは綺麗だろう?しかも今日の騒動でトーヤを失う危機を味わったオレはかなりダメージを受けている。そんな心理状態で二人きりになぞなったらマズイだろうが。オレの両親やトーヤのご家族に顔向けできん真似はしたくない」
床に撃沈された投野の顔は真っ赤だ。小西と堂前はしみじみと言う。
「部長ってナチュラルに惚気ますよね」
「ナチュラルに堅物だし…」
「なにがだ」
「「……いえ、いいッス」」
二人は力なく首を振った。この調子では今後も自分達には苦労が降りかかってくるに違いない。堂前がぽつりと言った。
「まぁ、全て世は事も無し、って奴ッスよね」
有名な詩の一節だということは、当然だが理系三人には全く通じておらず、堂前だけが一人、うむうむと頷いていた。
日常が戻ってきた。授業を受け部活に励み帰宅する、なんの変哲もない毎日だ。あの日の翌日、投野は日曜日は夕方まで三鷹の家で遊んだ。夕刻、三鷹が送るといってきかなかったので二人でまた歩いた。三鷹はまだ心配しているらしい。帰宅すると旅行に出かけた両親と年の離れた兄はもう帰ってきていた。土産は三鷹の分まであった。夕食は土産の押し寿司だった。
月曜、登校すると門の所に顧問の山田先生がいた。あいさつ運動の当番らしい。投野を見ると、土曜日は世話になったな、と礼を言われた。あの後、どこも不調は見当たらなかったそうだ。山田の顔はやはり、高綱が中に入っている時とは全く違った。見慣れた顧問の四角顔によかったです、と投野は笑ってこたえた。
いつもと同じような毎日、友達と笑いあい、後輩がじゃれついてきて、三鷹がそばにいてくれて、あの奇妙な出来事は夢だったのではないかと思えてくる。
翌々週の土曜の昼、部活終わりに投野は稚児の桜のところへ足を向けた。三鷹は生徒会に呼ばれたので投野一人だ。稚児の桜はすでに花を散らし、淡いえんじ色の若葉を揺らしている。
「もういないんだよな…」
投野は呟いた。成仏したのだからここにはもう桜若丸の魂も高綱の魂もいるはずがない。投野は桜の大木を見上げた。
「幸せモンだよねぇ、君達はさ」
桜の木から動けなかった桜若丸の魂、それがようやく恋人と出会い光となってのぼっていった。ムカつく奴だったが、本音を言えば自分はちょっと彼らが羨ましいのかもしれない。死んでなお添い遂げた彼らが。
「結局、僕の不安に君はつけこんだんだよね」
春休み、白梅の木にいた女の魂に取り憑かれた。あれは叶わぬ恋に身を焦がしていた投野の心の隙に付け込んできたのだ。そして今度も同じだと思う。三鷹を手に入れたら今度は失うのが怖くなる。まだ高校生の自分達、一生ものの恋だ愛だと思っていても未熟な自分達の前に広がる世界はあまりに茫漠としている。そんな不安な心にするりと入り込まれた。
弱いなぁ、僕は…
はぁ、とため息をついてうつむいた時だ。
「トーヤッ」
怒鳴られた。振り向けば肩で息をしている三鷹がいた。鬼の形相だ。
「わわっ、三鷹」
ヅカヅカとこちらへ歩み寄ってくる。正直、逃げ出したくなるほど怖い。逃げ出したらもっと怖いことになるので逃げないが。
「トーヤッ」
「えぇっとぉ…」
投野の正面で三鷹が仁王立ちする。雷が落ちた。
「バカ、一人で桜の側に寄るなと言っただろうっ」
「うわ」
がしっといきなり抱きしめられる。
「オレの身にもなれ。どれだけ心配したと思ってるんだ」
「そっそんな、大げさだよ、三鷹」
広い背中にそっと手を回す。
「ねぇ」
優しく撫でた。三鷹の腕に力がこもる。
「ねぇ、三鷹…」
「……大げさなわけあるか」
「え…」
がしり、と肩をつかまれ正面からジロリと睨まれる。デジャブだ。
「いいか、だいたいお前は危機感というものが薄い。二度も妙なもんにとっつかれたんだぞ。いや、それだけじゃない。普段の生活でもだな、お前は無防備すぎるというか、自分がどれほど人を惹き付ける人間なのかもっと自覚すべきだ。さらに言わせてもらうとだ」
説教がはじまった。しかも無意識に三鷹にとって投野がどれほど魅力的で大事なのかをぶち込んでくるから顔が熱くなる。
っつか三鷹、ここは普通、甘いラブシーンになる流れじゃない?
「こら、聞いているのか」
「きき聞いてるよぉ」
愛の言葉の散りばめられた説教に投野の心は喜びと安堵で満たされていた。
翌日、ゴールデンウィークに入る前、青峰高校新聞第一号に三鷹と投野の熱愛発覚記事が載せられた。大騒ぎする外野にこれ幸いと三鷹が、投野に手をだすな宣言をし、空手部一同は何を今更わかりきってることを、と騒ぎを笑ったため、あっという間に騒動は沈静化した。動じない三鷹に呆気にとられたのは投野の方である。
「僕って相当愛されてる?」
帰り道、隣を歩く三鷹をそっと見やれば当たり前だ、と揺るぎない瞳が見返してきた。と、一陣の風が二人を包むように吹き抜けた。ひとひらの桜の花びらが投野の学ランの肩にとまる。
「桜…?」
「そうだな」
二人は辺りを見回した。とっくに桜の季節は終わっている。どこにも桜の花など咲いていない。ふわりとまた風が吹いた。花びらはくるくると宙を舞い、空へと消えていく。あのお騒がせな桜のバカップルの顔が見えた気がして、三鷹と投野は微笑んだ。
見上げた空、初夏へと向かう季節の空は明るく澄み渡っていた。
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