ドライフラワー
授業の終わりのチャイムが鳴った後、席を立ったことがない。
休み時間が始まるとともに俺――瀬間俊季の机は波にのまれる。普段つるんでる奴らと女子グループのギャルたちがわらわらと集まってきて頭上で他愛もない会話を投げあう。机に手や肘をついて話すから、俺の机の教科書が音を立てて落ちた。
俺が拾おうとしなくとも、周りの誰かが拾って戻す。ごく当たり前のことだ。
「うぁ⁉ 落としちゃった!ごめんごめん~! 」
「おい桃香、なに落としてんだよ」
「え~、だからごめんって、ここ置いとくね~!」
とこんな会話をしているのはボスギャルの桃香と前の席の藤井である。
いつも俺の机の周りに集まってくる奴らの筆頭みたいなもので、こいつらは常に一緒にいる気がする。
「げ、次世界史じゃん。またあとでね~! 」
授業が始まるチャイムがなると波はさらっと引いてゆく。
結局、この休み時間俺は一言も発さず頭上の喧騒をやりすごした。
まるで呼吸を止めて本当に波が引くのを海中で待つように。
生まれ持った才能と少しの努力で生きてきた。テストは常に学年トップだしスポーツも得意である。完全に外面ではあるが人当たりの良い俺の周りには常に人がいる。みんな俺のことを見ていて、俺のことをいつも褒め、頼ってくる。
でも、なにかが足りない。全てが揃った俺に足りないなにか。
だから俺は熱望している、乾いた俺の心と世界を潤す波が来ることを、
「刺激がほしい、もっと、俺を本気にさせるような刺激が」
***
本が、落ちた。
俺の机の横に一冊の本が落ちた。
世界史の授業が終わると、チャイムとともに再び波がやってくる。
その波の隙間から、落ちた本が見えている。落とした人も机の周りの奴らも気づかない。すぐに拾えば持ち主に渡せるのだが、勢いのある頭上の波はなかなか引く気配がしない。いったん本から目をそらす。もうすぐ誰かが気付いて拾って渡すだろう。
本は、落ちていた。
俺の机の横に一冊の本が、まだ落ちていた。
授業開始のギリギリ前に本の存在を思い出した俺はまだ床に残っていたことに少し驚きながらも素早くそれをすくい上げた。
表紙は少し色あせているのだろうか薄いオレンジ色で、重みがある。茶色に変色しかけているページをパラパラとめくると俺は思わず顔をしかめた。序盤のページは平仮名ばかりで綴られており、中盤に進むにつれてだんだんと漢字が増えてゆく。そして最後のほうは平仮名ばかりの文章に戻っているのだ。勉強はしていたが、本はしばらく読んでいなかった。でも俺はこの本を読みたいと思った。この本の文体の変化は何なのか、解き明かしてみたくなったのだ。
授業終了のチャイムが鳴って、瞬く間に作られた波の中心で俺は本を広げた。
「え! 俊季めずらしっ! なにソレ? 」
ひょいと背表紙を持ち上げられ、俺は桃香を見上げる。
「ちょっと面白そうだなって思って読んでみただけ」
「へぇ~、俊季が陰キャになったのかと思ったわ」
「ならねぇよ」
そう言うと俺は本をかばんにしまった。彼女の中では本を読んでいるだけで陰キャ呼ばわりなのか。彼女の尺度に疑問を抱くがそんなこと今はどうでもいい。とにかくここは落ち着いて本を読める場所じゃない。
また、本が波にさらわれてしまうかもしれない。そんな気がした。
落とし主がわからないにしても人が落としたものを勝手に家に持って帰るのはやはり良くないだろうと思い、放課後一人で読み切ろうと思った。俺は藤井たちからの誘いを交わして、帰りのホームルームが終わり、教室が空になるのを待つことにした。
「なになに? 俊季居残りなの~!? 」
案の定声をかけてきたのは桃香だった。ほかの女子も続く。
「え、俊季君も居残りなんてするんだ、そんなイメージないのに~。」
桃香をはじめとした女子達がなかなか帰らないので少し気をもんだが、適当にあしらってなんとか教室から出すと教室は一気に静かになった。
やっと落ち着いたところでかばんから本を取り出した。ハードカバーの本を机の上に置いて表紙を開き、ページをめくる。この本はおそらく主人公が綴ったのであろう「経過報告」という日記風の形式で進んでいくようで、先ほど衝撃を受けた序盤の部分は所々拙い平仮名ばかりで読みにくく感じた。
***
物語も中盤に入り、だんだんと漢字が使われる読み応えのある書体になってきた。ページをめくる手は進み、時間が過ぎていることにも気づかない。
とある研究の被験者になった主人公はもともとは知覚障害を持っており、体は大人になっても内面は子供のようなままであった。
『あの……』
実験によりみるみる知力が上昇し、人々から羨望のまなざしを受けるようになっていく彼の様子は書体の変化とともに読み取れ――
『あの……その本、たぶん僕の本なんです、けど……。』
ビビった、正直言って超ビビった。
俺はハッとなって素早く本を伏せ、前の席に座っている声の主と顔を合わせた。
襟は第一ボタンまでピシッと閉められ、顔はマスクで覆われている。前髪は目を隠していて全体的に地味でモサっとした雰囲気の男だ。
クラスメイトなのだろうけど正直言って全く見覚えがない。
「え、あ……あぁこれ、ちょっとそこに置いてあったから読んじゃっただけ、ごめん、返すわ。」
俺は急いで閉じた本を机の上に置き、彼に向けて滑らせた。
まだ桃香や藤井たちじゃなかっただけましだろう。俺が放課後一人で本を読んでいたことなど、誰にも知られたくない。でもこの人なら大丈夫。物静かなこの人はこれまで俺と全く関わってこなかったように、これからも一生関わらないだろうから。物語を途中で切り上げるのは惜しいが、さっきの衝撃でもうどこまで読んでいたかもすっかり飛んでしまった。もうこれ以上この人とは関わる必要もないし、この場から逃げるとしよう。俺は帰る支度をするためかばんに手をかけた。
『あの、全部読まないでいいんですか』
「いいよいいよ、なんかもうどこまで読んでたか忘れちゃったし。」
えっ、と彼は驚いたような顔をした。正確にはマスクと前髪で顔はほぼ認識できないのだが、少し漏れた声と後ろに反るように少し動いた体で驚いたのだとわかった。
「いや、でももちろん大体は覚えてるよ。さっきまで読んでたんだし。」
『あ、ですよね……』
彼はなぜか少し残念そうに見えたがおそらくこれは気のせいだろう。
「それにしてもビックリしたわ、いつから教室にいたの? 」
えっ、また彼は驚いたようだ。
『帰りのホームルームからずっと、自分の席にいました。僕の本、どうしても返してほしかったのだけれど、あなたがあまりにも集中して読んでいたから、待っていようと思って、でも、もうそろそろ完全下校の時刻になるから声かけないとって……』
嘘だろ、全然気づかなかった。今までクラスにいたことすら気づかなかったくらいだ。相当影の薄い人なのだろう。
「あ~、そうなのか、その本に集中してたから気づかなかったのかも。ごめんごめん。」
かばんに荷物をまとめると俺は椅子から立ち上がった。
「じゃ、俺帰るけど、お前も出るだろ? 」
『いや、僕はまだ少しだけ残ります……。』
彼は机に置いていた本を手に取り、抱えてぎゅっと胸に押し付けた。
教室を出て静かな廊下を歩く。周りに誰もいない状態で校内を歩くことなんてあっただろうか。廊下には窓の外からグラウンドの大型ライトの光が差し込み、床をうすら青く照らしている。自分の足音しか響かない長く暗い廊下。俺はついさっき出会った彼のことを思った。まるで彼が落としたあの本のようだった。彼は誰にも気づかれずにひっそりと生きている。俺はそんな正反対の彼に、少しの同情と少しの憧れを抱いたのだろう。俺の教科書を桃香が拾ったように、俺はなにをしても誰かに気づかれ、いつも誰かに見られている環境に慣れきっていた。陰キャだのイメージじゃないだの、周りに押し付けられた言葉のせいで自分のしたいように本の一つも読めない。でも俺はそんな環境に対して本気で反抗を試みたことはなかった。本気になることなんてなにもない、押し付けられたどんなイメージも笑顔でかわす。
俺がそんな環境を創ったのか、環境が俺を作ったのか。
それはもうわからない。
***
普段は寝る前に自分の部屋でスマホのメッセージを確認したり、SNSを見たり、少し勉強したりする。でも今は正直言ってそれどころではない。夕飯を食べ、風呂に入って、部屋に戻って一人になるとずっと考えてしまう。あの物語の続きを。
実験の成果によって知能はますます発達するがそれと同時に自らの能力よりはるかに劣る知人や恋人を蔑むようになった主人公は、周りから徐々に孤立してしまう。そして自分が研究の被験者だったこと、その実験により向上した知能はピークを過ぎると低下していき、実験前よりも劣ってしまうことを知った主人公は知力が低下する前に自力でそれを防ぐ方法を研究しようとするのだ。
気になる。ここまで本気で気になる物語があるだろうか。あの人に本を返した時から一人で本を読んでいたことも、本の記憶もきっぱりと忘れたつもりだったのに。この衝動をどうにかしたいと枕に顔を埋めて唸る。気が付いたら目覚ましのアラームが鳴っていた。
休み時間に席を離れるのは初めてかもしれない。乾ききった俺の心を動かしたのは一冊の本。本気で知りたい、あの物語の続きが。
「あのさ、昨日返した本あるじゃん、俺やっぱ続きが気になっちゃてさ、ちょっと貸してくれない? 」
本の虫に花束を 男子高校生観察日記 @kannsatunikki
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