テセウスの船、或いは贖罪を希う。

サクライ

どうしようもないことは知ってる

走る。走る。走る。

ギシギシと身体中が悲鳴をあげる。肺が限界だと叫んでいる錯覚に陥り、してもない息が上がる気がする。

嫌だ。もう嫌。

ただそれだけを思って足を前に運ぶ。一歩でも遠くへ逃げたかった。二度と元に戻れぬまで。

「——っ」

しまった。そう思った時には視界が揺れ、目の前に乾いた土が見える。ぞわりと総毛立った気分になった。

「ああ…」

捕まった。体が揺さぶられ、視界はそのまま黒に染まった。



—いつか気が狂うのではないかしら—



「やっと目が覚めた?」

意識が覚醒したらしい彼女はぼんやりと僕を見つめた。笑いかけても反応はない。まだはっきりと記憶が戻ってはいないのだろう。まあそうだろうな。無理矢理気絶させたから。

「…またダメだったのね」

「え?」

静かに彼女が呟いた言葉は残念ながら聞き取れない。椅子から立って近づくと彼女はふるふると首を横に振った。

「なんで捕まえたの」

覗き込んだ顔はびっくりするぐらいに悲しそうだった。キュッと寄せた眉は、魅力的でもあるけれど。

「なんでって…当たり前じゃないか。君は僕の恋人だよ。大事な人が危険な外に出て助けない男が何処にいるんだい」

ひと、と彼女の可愛らしい唇が形を作る。蒼い目が不安げに揺れた。

「いいえ。違うわ貴方。私はもう貴方の愛した人間恋人ではないわ」

「何を言ってるの?君は僕の愛しい人だよ。どこからどう見ても」

手を伸ばして肩より上で切りそろえられた髪に触れる。さらりと指の間をすり抜ける感触も寸分たがわず人間のそれだ。

「…私のどこに人間としての部分がありましょう!脳は全てコンピュータのプログラムとなり体の全てが機械になっているのよ?彼女はもういない。私はただのプログラムだわ」

彼女は僕の手をそっと遠ざける。口調が少し荒々しくなっても、実際の行動は、拒否の気持ちさえも優しく示す。その思いやりは人間ならではだと思うけど。君がどう否定しようとこの真理は変わらないのに。

「見て」

白魚のような手がワンピースの裾を持ち上げる。露わになったのは蛍光灯の光を受けて銀色に光る機械だ。僕が作った彼女の足。

「ああごめんね。早く人工皮膚を手に入れて、その場所にも綺麗な肌を作ってあげたいんだけど、政府の目があちこちにあって。ほんっとうにあの狗ども、さっさと死んじゃえばいいのに」

「そうじゃなくて!…やめ」

布をたくし上げている手に自分の手を重ねる。金属の部分に口付ければ彼女は目を伏せた。

「ねえ何を心配しているの?君の体は、君のダメになった部分を少しずつ変えていった結果のものだよ?」

「…でも、最終的になって私としてのものは何も、残っていません」

「君は君だよ。何度でもその答えは変わらない」

今度はその唇にキスを落とす。長い睫毛さえも愛おしいね。

「…私は死にたいんです」

「…冗談?はは、ちょっと面白くないかも」

参ったな。笑ってみせる自分の声が乾いて聞こえる。怖がらせてしまうのは本意じゃない。

「冗談じゃ、ないです」

「…どうして?」

「私は貴方の愛する人ではないから。ロボットです。たとえ貴方がそれを否定しようとも。誰かを投影されて、それでもなお自らが人ですらないと知っていることほど悲しくて辛いことは無いのです」

僕が映る彼女の目は蒼。やっぱり思い込みだよ。ロボットがそんな感情のこもった目をするはずがない。

「感覚もありません。走って息が上がる錯覚はまだあってもそれもやがて消えてしまう。…痛みに至ってはもう。怖いんです。プログラムに残された彼女が完全に人を忘れてしまうのが。…お願いです」

殺して。ささやくようなそれに僕は目を伏せた。

「…分かった」

パソコンを引き寄せて彼女に繋ぐ。ホッとした様子の彼女にもう一度口づけをして、キーを叩いた。

「愛してるよ。…ごめんね」

モニターに文字が流れていく。画面の下にある%表示が少しずつ数を増やしていった。

60…70…80…90…100%



—君を失うくらいなら世界の全てを滅ぼした方がマシ—



ふっと意識が持ち上がった。ふわふわしていた気がする思考が形作られ、私は再び絶望する。

「やっと目が覚めた?」

優しく笑いかける彼はいつもと同じ穏やかな様子。

「…また、嘘をついたのね」

「ん、何?」

首を傾げながら彼は私に近づいてくる。悟られないように見た日付と時刻は、コンピュータに繋がれた4時間後だ。

私の頬に触れて—おそらく触れているのだろう。神経の通っていないこの身ではよくわからないけれど—彼は笑う。幸せそうな顔。

今、彼は心の底から信じているはず。記憶データを全消去して少なくとも私がしばらく彼の意に背くことは言わないと。

ああなんて。

「ごめんね。君がいなくなっちゃったら僕は生きていけないんだよ」

私を抱きしめ、独り言のように彼は呟いた。私は彼女ではないと、何度言えば理解してくれるのでしょう。

私はロボットなのですよ。アンドロイド、という言い方でも良いですが。少なくとも人間ではない。だから、記憶のバックアップもあるというのに。

「大丈夫ですか、貴方?」

「うん、大丈夫」

プログラムなのに愛おしく思う私もどうかしていますが。

「全く。困った人ですね」

「君限定だよ」


いつまで続くのだろうと何度も考える。

死にたがっている私と、記憶をリセットさせてまで一緒にいようとする彼。貴方のその行動はとうに人の道を踏み外しているのではないのでしょうか。

それでも一抹の幸せを安堵を感じる私も大概ですね。

望むは、一刻も早く私たちに、人間とは呼べない私たちに、終わりが訪れますように。


できれば痛くなければいいなと、痛みを感じもしないくせに思うのは、プログラムに残った人間の彼女の優しさなのかもしれない。

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テセウスの船、或いは贖罪を希う。 サクライ @sakura_kura

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