弍 雪月花奏
ほとんどの朝は飼い猫のクツシタの鳴き声で始まる。その時間はいつも六時と決まっていて、今日もいつもどおり俺の頭辺りをウロウロして声を出し起こしてくれた。
目が覚めてしまえば、布団から出るのは簡単だ。寝起きは悪い方では無い。たまに悪い時もあるが。
クツシタの飯を入れ、次は自分の朝食の準備をする。準備とはいっても炊飯器からご飯を取り出すことと昨日の夜に準備した味噌汁を温めるだけだ。
最近、気温の変化が激しい。
「もう秋か」
紅葉が色を魅せる季節だ。たしかあの時の夢にも紅葉が出てきたような気がするな。
俺が鬼憑きになった時のあの夢。
余韻に浸りそうになった時に味噌汁の鍋が沸騰の音を鳴らし完成を知らせる。
コンロの電源を切り、味噌汁を器に注ぐ。
さて、冷めない内に食べよう。と思った矢先、携帯電話の着信音が鳴った。
画面には「うのさん」と表示されている。
あれからは丁度、一週間と一日が経つ。学校帰りに一度、幸福の鳩に立ち寄ったがその時は他の客も数名居て兎野さんも前まで通りだった。いままでどおりだったが、俺に出す品の皿の下に紙きれが挟まれていた。
そこには電話番号と「兎野」の数字と文字が記入されていた。
今週、電話が鳴るのは二度目だ。俺にしては多い方。片方は自宅の固定電話の方だが。
あの殺人について、あの後に俺が狙われてないか、変わった事は無いかと心配の電話があっただけだ。あのお面男は俺にまた会うやらなんやら言っていたが、なんの変化も無いため大丈夫と答えた。
そんな事を考えている間でも携帯電話は鳴り続ける。
めんどくさいとは思いこのまま無視してやろうかと考えたが、それも兎野さんにはお見通しだろう。
それはそれで腹が立つため俺は出る事を決め応答と表示されている部分をタップした。
「はい、もしもしなんの用ですか」
「おっはようございます! 兎野です元気ですかー?」
うるさ……。なんでこの人は朝っぱらからこんなにテンション高いんだよ。
「奏くんなら無視でもしてくるんじゃないかと思ったんですけど。予想外れちゃいましたねぇ」
こっちもそうしようと思ったわ。早く要件を言え、要件を。
「まぁ、出てくれたのならどうでもいいんですけどね。まぁまぁさておき」
やっと本題に入ってくれるか。
「今日土曜ですし学校も休みでしょう。どうですか、少しお話でも——」
「部活があるので無理です」
「おや、どこかに入部してるんですか?」
「帰宅部です。兎野さんのアホな話に付き合ってる暇は無いです」
兎野さんと長時間電話だなんて冗談じゃない。携帯が熱くなる前に俺のストレスが溜まりに溜まるわ。
「もー奏くんは冷たいですねぇ。とりあえず喫茶店に来てください。会わせたい人が居るんです」
あ、話って電話じゃなくて外でかよ。余計めんどくさいじゃねぇか。
「会わせたい人とは」
「前に言った奏くんの事を教えてくれたお方の事ですよ」
なるほど。それなら行く価値はあるかもな。兎野さんの言う通り土曜で学校は休みだ。予定も特にない。
「分かりましたよ。何時に何処に行けばいいですか」
「そうですねぇ。奏くんの来れる時間に喫茶店の小道を出た先に来てくださればいいですよ」
「俺が来たこと分かんのかよ」
「ええ。それについては心配はいりませんよ」
では、と言って兎野さんは通話を終わらせた。
一息ついてやっと朝食が食べられる。しかしもう冷めてしまっただろうか。ためしに一口飲んでみたがまだ温かい。
そこまで長く感じたという訳ではないけど思ったよりは時間は経っていないようだ。
そのまま朝食を終わらせ、洗濯も終わらせる。
「奏ってめんどくさがりなわりに、家事とかはするんだね」
逆に鬼は起きるのが遅いな。生きていく上で必要な事をめんどくさいなんて言ってられないだろう。
「コミュニケーションは必要じゃない?」
必要最低限のコミュニケーションは必要じゃ無いと俺は思っている。俺のバイト先でも会話が多いところではない。逆に図書館というのは会話は制限される場所だ。まさに必要最低限の会話で済む場所だ。
「よく奏みたいな人を雇ったよねぇ」
父さんが紹介してきたやつだったからな。父さんのおかげってのもあるだろ。
バイトはするつもりではあったし、あの場所がダメだったとしたら他の場所も考えていたが、あの場所で行けて良かったとは思っている。
今の所は問題は無い。
そこで鬼との会話は終わった。また寝たんか黙っているだけなのかは分からないが。そもそも鬼に睡眠というものが必要なのかと思うが。
全てはこいつの気分なのだろう。
「じゃあ行くか。じゃあなクツシタ。飯は時間になったら食えよ」
俺の言葉にクツシタは答えるようにニャーと鳴いた。
「やぁ奏くん」
「マジで居た……。まさかあの時間からずっと居たのか?」
「いつ来るか分からないのにそんな事はしませんよ」
それもそうか。
そうしてたら引くわ。
「でもやっぱ奏くん気になるんですね」
「はい?」
「鬼とか僕が誰から君について聞いたのかとかについて」
気になるというか、なんとなく知っておいた方が良いと思っただけだ。直感的な行動とでもいえる。
……結果としては兎野さんの言う通り気になる、でも間違いは無いか。
「うるさいですよ」
「素直じゃないですねぇ」
ふふっと兎野さんは笑う。なにがそんなに面白いんだか。
「では行きましょうか」
「どこにですか」
兎野さんは一点を指差した。それはある山だ。ここらでは二番目に高い山だ。ここから歩いていくには無理な距離だ。バスでも時間はかかるのではないだろうか。
いや、その前に。
「兎野さん。まさか登山に俺を誘ったとかじゃないですよね」
「そのまさかですよ」
「帰ります」
「待ってくださいよ。ほんと話を聞かない人ですねぇ」
服を掴まれ引き戻される。こいつ力強っ。それとも俺が弱いだけか?
「たしかに登山という言い方に間違いはありませんがそんなハードな事をもやしな奏くんにさせられませんよ」
そんなに言うか。どれだけ失礼なやつなんだ。
「あそこに会わせたいお方がいるんですよ」
「山に住んでるなんて随分変わった人なんだな」
「人、と言いますか……、うーん本当に変わったお方ですよ」
随分と濁すような言い方だな。人間じゃないのか? ま、鬼というやつが居るのだから他に変なのが居ても可笑しくはないな。実際俺の母さんもその人間じゃない者だったらしいし。
「あそこまではバスで?」
「ええ、そうですよ」
「じゃあその前にコンビニ寄らせてください。財布の中三千円しか無いんで」
「ああ、バスのお代なら僕が出しますよ。誘ったのも僕ですし」
「いや別にそこまでしてもらわなくても」
「奏くんはまだ子供。大人には頼っていいんですよ」
そう言って俺の財布を仕舞わせようとする。会話が終わらなさそうだな。また何か礼の物を持っていけばいいか。
俺は諦めて財布を鞄に入れた。
「じゃあ、行きましょう」
兎野さんの後をついて歩く事五分。最寄りのバス停に到着した。
「よりによってここかよ……」
場所は俺の通う高校の前だった。最悪だ。だが兎野さんが目立つような行動をしなければ良い話だ。
後あのめんどくさい一年が来なきゃいいが。あいつが部活に入ってるかどうかは知らない。しかし土曜に部活があるような部に入部してたら鉢合わせする可能性はある。
そうなってはかなりめんどくさい。
俺がその空間に耐えられない。
うるさい奴とうるさい奴が集まればもちろんかなりうるさい。
俺が失神する。
「兎野さん、ここで余計なことは」
「落としましたよ」
おいふざけんな。何やってんだ。
「ありがとうございますお兄さん。これとても大切なものなので助かりました」
落とし物をした女子はほっとしたような表情をしていた。
そんな大切なものなら厳重に管理しとけよ、と思うが。
「いえいえ、どういたしまして。落とさないように気を付けてくださいね」
俺への対応と全くちがうじゃねえか。
そういえば、喫茶店でも俺以外にはまともな接客しているな。俺に何の恨みがあるんだよ。
話を終えた兎野さんが戻ってくる。
「余計な事すんなよ」
「人助けは当然のことでしょう?」
それにいいえとは答えられない。
「じゃあ俺と離れてくださいよ。関係者と思われたくないです」
「えーなんでですか?」
あの女子に兎野さんの事を聞かれたら面倒だからに決まってんだろ。
それさえ説明するのはめんどうだ。
この人には通じない。
「げっ」
「どうしました?」
道の反対側にあいつが見えた。あの変に絡んでくる一年だ。早くバス来てくれ。
こっちの存在が見つからないうちに。
俺の願いは届いたようだ。
バスが来てくれた。ナイスだ。
迷わず俺はバスに乗る。兎野さんも不思議そうな顔をしながら俺に続いてバスに乗った。
「奏くん」
「なんですか」
「このバス、違うバスですよ」
「は⁉」
「あっはは冗談ですよ。面白い顔をしますね」
安心できたと思ったらこれだ。バスは違ってなかったから良かったけど。
「でもさっきはどうしたんですか」
学校にも兎野さんみたいに絡んでくる奴がいるということを説明すると兎野さんはまた笑った。俺にとっては笑いごとじゃない。
「へぇ、奏くんを知る人もいるんですね」
お前の中での学校での俺はどんなイメージなんだ。空気か。
いや、あの馬鹿以外にとっては空気のようなものと言ってもあながち間違いではないか。クラスでも俺の事を知っている奴なんて少ないと思うし。
「あの山の名前、知ってますか?」
「は?」
「僕がさっき指差した、今から向かう山の名前ですよ」
「……地理は苦手だ」
「地理だけではないですよね」
余計な言葉だ。そんなの知ってるわけないだろ。山登りなんてしないし、山の名前で知ってるのは富士山くらいだ。
「函狐山というんですよ。何故、函狐山と呼ばれているのか、知っていますか?」
名前も知らなかったのに由来なんて知ってるわけないだろ。
でもそうだな。予想するなら。
「狐が山に住んでるから、とか?」
「その通りですよ。付け加えるとすれば、狐はそこから一歩も出てこない。そこに住む狐はまるで函に閉じ込められているかのようだ。という意味で函狐山と呼ばれるようになったんですよ」
古文の授業とかで習わなかったかと兎野さんは続ける。言われてみればあったような気もするが過去の授業なんて鮮明に覚えていない。
少なくとも、最近ではない。
「単純に山に食料があって、人が苦手だからとかじゃないの。野生だろ」
「さあ、なんででしょうねぇ」
この言い方は分かっているな。嫌な奴だ。いちいち回りくどくせず話せばいいものを。
「ちなみにですね。函狐山はオカルトの好きさんの中ではちょっと有名なんですよ。信憑性が薄いからそこまでとはいきませんが」
心霊スポットってやつか。
「時間、場所。それらの感覚がおかしくなるんだそうです。または、近づくことができない。まあ、全てあの方が無関係な人を招かないためにしていることなんですが」
感覚がおかしくなるか。前の惨殺の件を思わせる節があるな。
あれは俺がどうこうというより、周りがどうなっていたんだという感じだが。
「あ、でも今から行くところのそれは鬼憑きである僕達に効果は無いので安心してください」
じゃああの時、叫び声が聞こえたのも俺が鬼憑きだったからということか。
じゃあ今から行くところには同じ力を持った奴が居るという事か。
……もしくは、同一人物という可能性も。
それならお面男の言葉の意味も理解できる。
「奏くん、顔色がよくありませんね。緊張しているんですか? 安心してください。今から会うお方は奏くんに危害を加えるようなお方ではありませんよ」
「そう、ですか」
「ええ」
兎野さんの言葉からして嘘ではなさそうだ。じゃあ俺が警戒するのは杞憂というものか。
なら良かったが。
「兎野さん」
「どうしました?」
「吐きそう」
長時間のバス移動による酔い。
バスを降り、その場所から一番近い所にある公衆トイレで俺は胃のものを吐き出した。
正直俺はこんな所に入ることも、吐くことも嫌だったのだが……。
兎野さんがそんなことを言ってたら余計に悪化するだの何だの言って強制的にそう行動させられた。
こいつは母親か。
吐き終えて、水道で手を洗う。こういう所には石鹸が無い。だから嫌なんだ。
しかし、こんな古びた所にも水が通っているのは驚きだな。水圧が弱いが。
にしても臭いな。下水道か何かの匂いみたいだ。
前にある鏡を見ると、青白い自分の顔が映っている。顔色が悪いのは元からか。
外に出ると兎野さんが自動販売機で買ったのであろう水を渡してきた。
「乗り物に弱いんですね」
「……どうも」
受け取って手洗い場に戻り、うがいをする。喉と口内にまだ違和感はあるが、マシにはなった。
「気分はどうですか?」
「大丈夫だと思います」
「少しだけ休んでから行きましょう。バス停に椅子があるので」
俺の顔色は他人から見たらそんなに悪いように見えるのだろうか。たしかにまだ気持ち悪いという感覚はある。休息できるなら助かるもんだけど。
「気持ち悪いからといって蹲るように座ってはいけませんよ」
「はいはい」
「良くなったら言ってください。後は歩くだけです。ここがバス停の中であの場所に一番近い場所なんですよ。これ以上先はバスは行かないので」
だからバスは引き返していったのか。
ふと時刻表が目に入る。バスがここを通る時間は随分と、いやかなり少ない。一日に三本しか通らないらしい。兎野さん曰く、市内すべてを回るバスでしか通らないらしい。
そりゃこんな場所に来る物好きなんてあんまり居ないんだろうしな。兎野さんの言う何らかの力が働いているみたいだし。
帰りも長時間のバスか。また吐くことになったら次は学校で吐けというのだろうか。
いや、それなら走って家に帰って吐く。
「あー、もう大丈夫です。よくなりました」
「みたいですね。酷いものじゃなくて良かった。では向かいましょうか」
兎野さんの言った通りにして正解だったのだろう。頭の重さも胃の気持ち悪さも無くなった。
普段はめんどくさい人だと思うが、案外いい人なのかもしれない。吐いた人間の介抱なんてめんどくさいだろうに。
「乗り物に弱いなんて意外ですね。面白いです」
あ、前言撤回。やっぱうざい。
今から徒歩で目的地に向かうらしいが……。どれくらいの距離があるのだろう。
周りは同じような景色ばかりだ。道も明らかに古さを感じさせるものだ。補正も何もされていない。造られて後、手を加えていないのだろう。道がガタガタだ。車が通れるみちではあるが、一台もすれ違わない。
知らない道ほど長く感じる道は無いだろう。
歩き続けてなん十分か経った頃、さっきまでの道から外れ、草木の生い茂る脇道に入る。
まるで獣道。奥に進むにつれて道を挟む木々の影が濃くなり、太陽の光を遮断する。
兎野さんの店に行くときも草木に囲まれた道を通る。しかし、説明するとしたら似た言葉を使うことになるだろうが真逆の雰囲気を感じる。
「暗いな」
「これからもっと暗い所に入るんですよ。ほら」
道の突き当りにあったのはトンネルだ。トンネルの名前が書かれていたであろう場所は黒くなっていて読み取ることができなくなっている。
入口から目を凝らしてやっと見える位置にある蛍光灯はもう役割を果たしていない。その蛍光灯だけではなく、奥に続くものもそうなのだろう。光が見えない。
「ちょっと寒いでしょうけど我慢してくださいね」
兎野さんは懐中電灯を持ち俺の顎の下にあてる。これって自分の顎下にするものじゃないのか。眩しい。
トンネルの中は兎野さんの言う通り肌寒い。
湿った感覚もあるな。
「うっ」
「うめき声なんて出してどうしたんですか。また嘔吐しそうですか?」
「いや、上から水が……」
俺のうなじの中心に落ちてきた水滴が的中したのだ。たまに落ちてるのが目に入ってはいたが……。自分に当たるとは思わなかった。
それも人間の急所にだ。何かに刺されたかと思ったわ。
「あ、奏くんストップです」
何で、と聞く前に大きな風——否、何か気配のようなものが俺達に襲い掛かった。
砂や石が吹き飛ばされ、自分の身体も少しよろめく。
「何が——ッ」
目の前には見たことの無い生き物が存在していた。カタカタと音を鳴らしながら身体を動かし、濁点交じりの母音のような声を出す。
そもそもこれは生き物と呼べるものなのだろうか。
曖昧な関節。ありえない位置から生えた手足。爛れ、腐敗したかのような色の至る所に穴の空いた身体。それと同様、瞳もくり抜かれたように真っ黒だ。
化け物と呼ぶのに相応しいそれの前に兎野さんは俺を庇うようにして立つ。
「ここにはよく現れるんですよ。今日は順調に行けると思ったんですがね」
化け物は兎野さんに向かって腕であろうものを振り下ろした。兎野さんはその腕を見るまま動かない。
そこからは一瞬の事だった。
「邪魔だよ」
そう言いながら、兎野さんは化け物の腕を片手で弾き飛ばした。腕力では無い事は人目で分かった。
そしてあの時、俺に鬼術を見せるてめと言って行っていた動作と似たような動きをする。
すると、化け物の身体は捻じれ、凝縮し、砂でできたものが崩れるように姿を失った。
「お待たせしました。行きましょうか」
「……兎野さん、あんな事も出来るんですね」
「いえ。あれは術者なら誰でもできるような事なんですよ。僕の力は以前お見せしたものの通りです」
兎野さんの力はたしか忘無術だったけな。大雑把に言うと物を消したり、無力化したりするって感じの力だろう。
あれからはさっきみたいな変な化け物は出てこなかった。そしてトンネルの出口にたどり着く。
トンネルを抜けてもそこまで明るさは感じなかった。曇ってでもいるのかと空を見たが、そこまで曇ってはいない。だが、晴れているというわけでもない。別に変った天気でもない。
だとしたら、そこにある村が出すどんよりとした殺風景な雰囲気がそう錯覚させているのかもしれない。
「こんな所に人住んでるのか?」
「まさか。ここは廃村ですよ」
廃村、か。無人の村を触らずそのままにしているのも兎野さんの言う人の力なのか。
たしかに村には人の気配は全くない。風の音も無い。俺と兎野さんの足音が聞こえるだけだ。音を吸収するものが無いからなのか無人の空間によく響く。
「こんな所までよく来るんですか」
「頻繁にというわけではありませんよ。何かあった時や呼ばれた時だけです」
呼ばれる? ああ、電話か何かで連絡でもとってるのか。でも目的地は山の中なんだよな? 電波とかどうなってんだ。
「あれが山の入り口?」
「ええそうですよ。この山の頂に今から行く場所があるんです」
少し先に山を登るためであろう階段が続いていた。先は見えないそれは嫌でもかなり長い階段だという事を俺に教えた。
その階段を跨ぐように聳え立つのはいくつもの鳥居だ。それもまた、永遠と続いているように見える。
「向こうの山はまた別なのか」
前にある函狐山も結構高いが、それとは別にその高さをはるかに上回る山が存在していた。
「無関係というわけでは無いそうなんんですが……。僕が知っているのは、黄泉へと繋がる山と言われていることだけです」
兎野さんに続いて階段を上り始める。
一段、また一段と上り進んでいるはずなのだが、景色が変わらないせいか進んだ気分がしない。
——シャンッ
空耳だろうか。何か鈴っぽい音が聞こえたような。
そういえば、今どれくらい進んだのだろう。俺は上ってきた場所を振り返った。
普通に考えて、俺の視界に映るのは下りの階段だろう。しかしそこにあるのは。
「あ、気づきました?」
俺の立ち位置より下。そこからはまるで崩れ壊れたかのように階段は消えていた。上ってきたはずのものが無くなっていたのだ。
「ここはもう隠遁の地。術者以外の人間が階段を登ろうとしたら、永遠とあの無数の鳥居をくぐることになるんです。まあ、あの村にたどり着くのも極僅かですが」
「隠遁……。隠遁神社」
「隠遁神社のことは知っているんですね」
「いや、知ってるというわけでは」
「奏くんの夢にも出てきたものでしょう。しかしあれは仮の場所。さあ、もうすぐですよ。あと少しです」
だんだんと明るくなり眩しさを感じる。空を隠す木の紅葉は日光を完全に隠さず、光を赤色に変えて地面に落としていた。
ヒラヒラと舞う紅葉の様はだれが見ても綺麗だと思う事は間違いないだろう。
階段の終着点には今くぐってきた鳥居よりもさらに大きな鳥居が建てられていた。
あの先に、隠遁神社があるのか。母さんについて知っている人も……。
「なんか白いのがウロウロしてる……ますね」
つい敬語が抜けてしまうことがあるな。一応、必要最低限の礼儀ぐらいは身に着けているつもりだ。しかし兎野さん相手だとどうしてもそれが抜ける。
「白いのは白狐と牙童子という妖怪ですよ。奏くんに興味を持ってるのでしょう。無理して敬語なんて使わなくてもいいですよ。僕はどちらでも構いません」
たしかに兎野さんは気にする柄じゃないか。じゃあそっちの方が気は楽だしそうさせてもらう事にしよう。
「あの方ってのは鬼憑きなのか?」
「いえ、鬼憑きではありませんよ。妖怪さん、というのがいいでしょうかね」
妖怪か。そういえば母さんも妖怪なんだっけな。
階段を上り終え、最後の鳥居を潜る。
眩しさに一瞬目が眩む。形として見えたのは複数の尾を持った巨大な四足歩行の動物。
一度瞬きをして再確認すると、次は黒い着物を身に纏った男が待っていたというように仁王立ちしていた。
「ようこそ隠遁鬼椛成神社へ。待っておったぞ、雪女の息子よ」
ゆったりとした声色。それはどこか聞き覚えのあるものだ。
これは人、では無いのか。人の耳があるべ
き場所からは上に向かって髪色と同じ、黒い毛で覆われた獣の耳が生えている。
そして何より人ひとり余裕で覆い隠してしまいそうなほどの九本の尾。それがこいつが人間では無い事を物語っていた。
「わしの事はここを守る神、黒九尾じゃ。詳しくは中でゆっくり話そう」
黒九尾は神社の奥へと俺を招く。ぱっと見る限りかなりび広さを持った神社だ。それにさすが神社と言ったらいいのか、空気というか感じられるものが違う。神聖な場所だからだろうか。さっきの村とは全く違うな。
「黒九尾さん。これ持ってきましたよ」
「ほお、お前さんの作る菓子は美味いからの。感謝するぞ聖斗。ではこれに合う茶を準備してくるとしよう」
「いえいえ、喜んでもらえて良かったです。ではいつものお部屋で待ってますね」
兎野さんに押されながら、廊下を進む。
「黒九尾さんに会ったんだね」
頭に幼さある鬼の声が響く。
ああ、会ったよ。お前と黒九尾にどんな関係があるのかは知らないけど、どういう関係なんだ?
「え? おいらと黒九尾さんに? 黒九尾さんはおいらにとっては恩人だよ」
聞いてはみたけど、思った以上に深い関わりがあるんだな。そういえば俺はこいつの事何も知らないな。
「気にしなくても黒九尾さんが教えてくれるよ」
聞きたいことはたくさんあるが……。まともに会話ができる相手なのか。
廊下から縁側に出て、そこから見える襖を開けると、ほんのりと畳の香りが漂った。
その部屋には真ん中に長方形の机。それを挟むように二枚ずつに分けられて鶯色の座布団が敷かれていた。
座布団に正座して座りしばらく待つ。
兎野さんに俺が正座していることが意外だと言われた。これは癖のようなものだ。正座のほうが座りやすいし落ち着く。
「待たせてすまんの。奏の中の奴は起きとるか?」
「奏くんの中の?」
兎野さん知らなかったのか。この人は何でもお見通しのように見えるから知っているのかと思っていた。
「すぐに聖斗とも話せるようになるだろう。まあ先にこれを食べようではないか」
出されたのは羊羹と抹茶。羊羹は兎野さんが作って持ってきたものらしい。兎野さんはこんなものまで作れるのか。その羊羹には小さな絵が描かれていてまるで美術作品のようにも思える。器用な人だ。
うん。美味い。
「かなでぇ、おいらも食べたい」
どうやってしろと。
「すぐに食えるようになる。もう少し待て祭助」
ん? 今こいつ誰と話してたんだ。祭助って誰の事だ。兎野さんは何か知っているのかと目を向けてみたが兎野さんも理解していないようだ。
黒九尾は俺と兎野さんが座ってる場所とは向かい側の場所に腰を降ろす。
相変わらず大きい存在感を持つ尾もそれに合わせて揺れ動く。見る側からしたら邪魔そうに見えるが、素振りとしてはそうでもないらしい。
「さて、何から話していこうかの」
「なんで俺のことを知ってんだよ」
「ほう、質問をそちらからしてくれるとはありがたい。わしは奏が鬼憑きになる前からお前さんのことを知っておるんじゃ」
「は、俺はお前のことなんて知らないんだけど」
こんな目立つ見た目のやつなんて嫌でも忘れられないと思う。
「そりゃ初めて顔を見たのはお前さんが赤子だった時だからの」
俺が物心つく前だったという事か。じゃあこいつは父さんの知り合い? よく喋る父さんだが、そんな事聞いたことないぞ。
しかし俺のことを雪女の息子と言った。母さんと何か関わりがあるのか。分からん。
「そして鬼憑きとなった時が二度目の対面じゃな。いや、あれは対面とは言わぬか。あの時のお前さんにはわしの声が聞こえただけじゃろ」
そうか。こいつの声に聞き覚えがあったのは鬼を憑依させた時に見たあの夢。あの隠遁神社で聞いた声の張本人だったからという事か。
「あの黒九尾さん。奏くんに憑依した鬼が前に話していた自我を持つ鬼なんですか?」
「いかにも。さっきも奏は鬼と対話しておったよ」
「喫茶店でたまに顔を顰めていたのはそれだったんですね」
「アンタの言動に対してのもあるけどな」
「ははっご冗談を」
冗談じゃねぇよ。
「まぁ、奏に憑いた鬼は他とは違うんじゃよ。しかしそいつに深くは話すなと頼まれておるからな。悪いがその事について教えることはできん」
「ごめんね、かなで。おいらにも色々複雑な事情があるんだよ」
本人がそう言ってるなら聞こうとは思わないが……。自我を持った鬼ってこいつだけだったのか。
「奏には素より雪女の力、零風術が備わっておった。それは奏も分かっておるだろう。」
「ああ。最初に使ったのは無意識だったけどな」
「そこへ自我を持つ霊喰の鬼を憑依させた。例えるなら……器に入る分の容量を超えておる。だから零風術ならまだしも、霊喰術を使うには負担がかかるのじゃ」
あいつが言っていたのはそういう事だったのか。単に使用が難しいからだと思っていた。
たしかに過去に一度だけ鬼に試しにやってみろと言われて使った事が……。黒い影のようなものに振り回された上、その日は尋常じゃない程の頭痛に悩まされた。
「あの時の奏の顔は面白かったなぁ。すっごい驚いてたもんね」
あんな得体のしれないものが出てきたら誰でも驚くだろ。
「じゃあほかの奴にこいつを憑依させれば良かったんじゃねえの」
使えないなら、俺にこいつが憑いてても意味がない。
「それはお前さんを隠遁神社に縛るためじゃよ。この戦には雪女の力が必要不可欠、そして……いや、これは後で話そうか」
黒九尾はお茶を少し飲んで笑う。縛るって何だ。戦とは何の話だ。
「鬼憑きはこの隠遁神社に縛られる。もちろん聖斗も縛られておる身じゃ。しかし零風術は奏自身の力であって鬼ではない」
だから鬼をわざわざ憑依させた、と。戦とやらに強制参加させられる。縛るとはそういうことか。
「自我を持つ鬼を憑依させたのも意味はある。そいつでないと御霊の並存ができないからな」
御霊の並存。それは互いに魂の半分を譲り合い、生も死も共にすることらしい。つまり片方が死ねばもう片方も命を落とす。
「どういうことだ。それをしてなんの意味があるんだ」
「これを奏と鬼の間に起こせば、奏の生ける魂の半分は鬼に移るが、その隙間に霊喰を埋める事ができるのじゃ。自我を持つ鬼にしたのはそれが理由じゃ」
そう言いながら黒九尾は立ち上がる。そして真後ろの襖を開いて中に入っていった。
「こちらに来ておくれ。お前さんに憑依した鬼の本体がある」
言われたまま着いていくと、その部屋は広く、ただ真ん中にポツンと木の箱のようなものが置かれていた。
長い箱の蓋が退けられる。その中にはまだ十歳ぐらいであろう白髪の少年が眠ったように横たわっていた。
その少年には黒九尾と同じような獣の耳、二本の尾が生えていた。その姿はまるでここに来る時に見た白狐を思わせる。
鬼の本体なんて言うから角でも生えたような奴なんだろうなと思っていたが……。
棺桶の中に閉じ込められているということはこれは死体? でも死体ってこんな綺麗なままあるもんなのか。
「死んではいないよ。ただ身体と魂が別になっているだけ。綺麗なのはこの箱に術がかけられているからだよ」
まぁ、普通に考えたらそうか。いや普通じゃねぇな。
「こいつはお前の中に居る鬼の本体。祭助じゃ」
「こいつに名前なんてあったのか」
「よく聞け奏。お前さんを隠遁神社に縛ったのは、守るためというのもあるんじゃよ。雪女として絶大な力を持ったお前さんは奴等からして脅威じゃ。必ずお前さんを亡き者にしようと狙いを定めてくるじゃろう」
さっき言いかけてたのはこの事だろうか。雪女の絶大な力なんて言うほどの力なのか。母さんはそれほどまでにすごい人物だったということか。会ったこともないから想像もできない。
「しかし鬼憑きには戦ってもらわねばならん。だからお前さんには零風術とともに霊喰術を使ってもらいたい。奏が使うとなればかなりの戦力になるはずじゃ。そやつ、祭助にも少し力は残る。力になってくれるじゃろう」
どうか頼まれてはくれないかと黒九尾は頭を下げる。
正直なところ理解はできてはいないが……。
「いいよ」
俺の答えに黒九尾は間抜けな表情を見せる。頼んできた張本人がそんな顔をしてどうするんだ。
「決断が速いんですね。さすが奏くんです」
「戦わないと相手の思うままに俺は殺されんだろ。それくらいならそれなりの対策をして戦えるほうがいいだろ。めんどくさいのは嫌だけど、俺も死にたくはないからな」
それに父さんにしつこく言われたあの言葉がある。
「で。御霊の何とかはどうするんだ。難しい説明はいいからぱっぱと終わらせろ」
「礼をいうぞ奏、これであの者達の魂を救うことができるかもしれぬ」
あの者とは誰の事だろう。
いつのまにか黒九尾さんの顔は間抜けなものから安心したという顔に変わっていた。
「では奏、この童の顔に軽く手を置いてはくれんか」
言われたとおり俺は眠った少年の顔に手を乗せる。
「これでいいのか」
「うむ、では始めるぞ。呼吸を整え目を閉じろ。そして手に意識を集中させるのじゃ」
暗い視界で紙が擦れる音がする。だんだん近づく鈴の音。聞き覚えがある。そうだ、これは……。隠遁の地に来る時に聞いた鈴の音と同じだ。
聞こえるのはその音だけだ。
——奏に宿る鬼よ、己の器へ戻り給え
紅く成る葉の下、御霊の並存を受諾せよ
一が朽ちる時、二もやがて朽ち果てん
黒九尾の声が頭に浸透する。翳した手が熱い。まるでそこに血が集まっているようだ。
俺にある生きた魂の力が祭助に移動しているのだろうか。倦怠感を感じる。
祭助のことは教えられないと言っていたが、もともとはこいつは普通の人間だったのだろうか。聞こうとは思わないが、気にはなるな。
いや、今はこれに集中しなくてはならない時。無駄なことは考えるな。
「ありがとう、かなで」
これは祭助の声か。何に対するお礼なんだ。こんな時に話しかけてくんなよ。空気読めないのか。
返事はない。もうあいつは自分の身体に戻ったのだろうか。
「よし、儀式の下拵えは終わったぞ。疲れただろう奏、今は眠れ」
身体が傾く。酷い倦怠感と睡魔のせいだろうか。身体を起こし、動こうという気分になれない。そこまで怠惰な人間ではないとおもっていたんだけどな。
俺はそのまま意識を手放した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます