夏のしぶき

夏藤涼太

夏のしぶき

 波がその音は、初夏が最も聞こえる。

 新緑が映り込んだ、青みがかった緑の海。深藍ふかあいの海。

 沖から緩やかにうねる波は、やがて大きな波となり、防波堤にうちつけられる。限界まで持ち上げられた大きな波が、さっと崩れる、その瞬間――ばらばらに、砕け散った波の粒――その粒が、防波堤に込む。

 耳を澄ますとふつふつと、白く泡立つ音が聞こえる。染みて消えゆくしぶきの音だ。


 波がその音は、初夏が最も聞こえる。

 真夏は人がうるさいし、風の強い秋冬は、波の音のが大きいからだ。

 春から初夏にかけてのそれは、プランクトンを豊かに含む、豊穣ほうじょうの海。

 は、そのプランクトンの、命がはじく音かもしれない。地球最古の生命は、波のしぶきの中で生まれたと謂う。

 いわば夏のしぶきは、記憶に浮かぶ故郷ふるさとの、最も古い鐘のだ。


 波の音……潮の匂い……

 また、夏が来る。

 変わらない、夏が。


   *   *   *


「ちょ、ちょっと、危ないって! 観鈴みすず!」

 観鈴は踊るように堤防に手をかけ、ひらりと飛び乗った。ここの堤防なら目をつむっても歩けるよ、そう言わんばかりにまぶたを閉じて堤防の上を歩んでいく。両手を水平に掲げて指先をピンと立てて、すいすいと。

 危ないはずなのに、目をつむっていてもわかる彼女のその楽しそうな顔を見ると、止めることはできなかった。


 きめ細やかな白い肌に、光の粒子がきらめいている。

 風が吹く。風上に立つ観鈴の匂いを含んで、僕の前を通り抜ける。

 海風うみかぜに流れてたわむ髪を束ねる彼女の姿は、とても静かで、美しくって、まるで時が止まったようで――この時を硝子ガラスの箱に閉じ込めて閉まっておきたい――そう思わずにはいられない――静謐せいひつを極めたその「画」につい見惚れてしまって――だから僕もギリギリまで気づけずに――

「あっ 危ない!」

 僕の注意も虚しく、観鈴は看板に激突した。

 漁獲禁止の看板だった。僕達が子供の頃にはなかったものだ。幸い堤防からは落ちなかったが、膝をついた観鈴は涙を浮かべていた。その猫のように大きな瞳をうるませて――


 雲一つない青空。日はうららかに照っており、かすかな潮風しおかぜと相まって、暑すぎることのない、過ごしやすい初夏であった。

 潮風の吹く方に――防波堤の先に目をる。

 気温が上がり、海藻もよく繁っているのだろう――青みがかった、深い緑の海。深藍ふかあいの海。

 波は大きく立ち上る前に磯に砕け、ほぐれてゆく。波音は寝息を立てるようにおだやかで、静かだった。

 その安らかな潮騒しおさいと豊かな色合いは、僕の心を落ち着かせた。


   *   *   *


 大学生最後の夏休み。

 就職先の目途がついた僕たちは、久しぶりに生まれ育った町に帰ってきた。

 何年ぶりだろうか。この町には高校がなかったから、中学を卒業して都心部に引っ越して……それから数えるほどしか帰ったことはなかった。

 それほどに、この町は田舎で、魅力がなかった。

 引っ越した先は新しさと驚きに満ちていた。毎日が楽しくて、魅力的だった。

 立ち止まることもなく、時は流れるように過ぎていった。

 帰省するのも、祖父母に会うのも忘れるほどに。


 が起こったのは、半年ほど前のことだ。

 すなわち学生という一つの人生の区切りが見えた時――その瞬間、僕の心は得体の知れない苦しさに抑えつけられた。

 胸が張り裂けるような切なさだった。

 憂鬱? 焦燥? 悲哀? 絶望?

 どれも的を射ているとは言い難い。

 しかしもう時の流れに立ち止まることもできず、悩む暇もなく、僕は就職活動を始めた。


 就職活動を通じて、僕はいろいろな町に行った。

 昼になると人があふれるビル街や、バスでないと行けない田舎町。

 普段行かない住宅街には、小さな神社や祠が溶け込むようにいくつかあることを知った。駅前を中心に栄えている主要駅の裏側は、なんとなく暗く、昔ながらの店がまだ多いことを知った。

 その頃から僕の目は、土塀が崩れていたり傾きかかっていたりする建物や、雨や風に蝕まれた存在感のない小さな鳥居のように、古くて見すぼらしいものに惹きつけられるようになった。

 家に帰ってテレビをつける回数は減り、流行りの音楽も聞かなくなった。

 その代わりに、 子供の頃の耳に残る、かつて流行っていた音楽をインターネットを通してよく聞くようになった。楽しみにしていた漫画や小説の新作を買うことはなくなり、棚の奥で眠っていた本を読み返すようになった。

 なんとなく、自分の心が乾き、しぼんでゆくのを感じた。


 その時ふと、この町のことを思い出した。


 ――忙しくなかったら、久しぶりにあの町に帰らない?

 観鈴からの誘いを受けたのは、夏休みに入る前――ちょうど就職活動を終えた頃のことだった。

 観鈴もまた、中学を卒業して僕と同じ圏域に引っ越してきた、幼馴染だった。観鈴とは大学は違ったが、連絡はずっと取りあい、数か月に一度は会う仲だった。

 それでも、二人であの町に帰ったことは、今まで一度もなかった。


 電車を乗り継いで終点で降りた僕たちは、海沿いの道を歩いた。

 小中学校の通学路で、毎日通っていた道だった。観鈴はあの頃から、堤防の上を歩いていた。大人たちの注意も聞かずに――


   *   *   *


 それから僕たちは海側を離れ、通学路に沿って自分たちがかつて住んでいた家――祖父母の家へ向かうことにした。

 雲一つない快晴だが、真夏みたく熱くはない。ちりちりと肌をく感覚が心地よい。

 こういう日の陽の光は好きだ。

 真夏の陽光ははげしいが、今はまだ涼しげで、帽子がなくても大丈夫だ。影もまだ濃くなく、どこかあおい。

 夏の風物詩――そびえ立つ入道雲――はまだ見えない。遠く見えるのは、消えゆく飛行機雲だけだった。

 僕たちはその飛行機雲を見送って、歩みを続けた。


 通学路にある少しだけ大きな建物。タバコ屋と畳屋と花屋とおもちゃ屋が一つの建物に――空から見ると四角い建物の東西南北、四つの面にそれぞれの店が入っている。お店は一階にあり、二階部分は居住区になっているが、ここも四つにわかれていた。

 四つの家族が四つの店を出しているこの建物は、商店街と呼ぶにはあまりにもこじんまりとしていて――かといってショッピングモールなどとはとても呼べない昔ながらの感じで――僕たちは勝手に「お店センター」と呼んでいた。


 だがそのお店センターも、どうやら全て畳まれてしまったようだ。

 店名の彫りだけは残っているが全て締め切られており、営業していないのは明らかだった。塗装が禿げ、奥の金属板が赤くさびついているのが見える。

 建物もいたるところにヒビが入り、黒ずんでいた。二階に繋がる鉄骨階段は風雨にさらされ、ところどころがぼろぼろと崩れ落ちている。元気がいいのは植物くらいで、道路との間のアスファルトの割れ目からは、びっくりするほど高い雑草が青々と生えていた。

 お店センターは、死んでしまった。

 しかし居住区はまだ生きているようだ。さびれたベランダに布団が干されてるのが見える。

 それでも、四つの家族すべてが残っているとは限らない。


   *   *   *


 祖父母の家はリフォームされていた。

 築五十年は優に超えているとは思えないほど綺麗で――いや、間違いなく自分の家よりも綺麗に見えた。

 年金の力なのだろうか……いや努力してためた貯金によるものかもしれない。なんにせよあの家は年をとった祖父母には不自由だろうし、隙間から通る風は身体を冷やすだろうしで、少し、安心した。もちろん二人とも元気だった。

 でもこんな綺麗な建物は、あの、昔は行くと聞くだけでちょっとだけワクワクしてしまうような「おばあちゃんの家」という感じはしなくて、なんとなく、寂しかった。


 しかし祖父母の家の、車道を挟んで向かい側にある貸しアパートは、幼い日々と変わらずに古臭く、さびれていた。

 コンクリートには亀裂が入り、木材は腐り、鉄骨は錆を吹いている。このアパートは、物心ついた頃から、ヒビとカビとサビに侵されていたのだ。

 その様はなぜか、僕の心を妙に落ち着かせた。

 アパートの前にはドブがあり、汚水が流れていた。フタもされていないドブから漂う汚水の生臭さは相変わらずだ。

 子供の頃、目をつむって祖父母の家まで帰ろうとして、左脚をドブに突っ込んで汚水で汚したことを思い出す。半泣きのまま、祖父母の庭のホースで流したっけ。

 庭には純和風の盆栽から西洋風の華やかな花々、そしてサボテンのような多肉植物まで、統一感皆無の様々な種類の鉢が並んでいた。そしてその隙間に、よその家の猫がよく潜り込んでいたのを覚えている。

 だがそれも、もうない。

 猫ももう、いない。


   *   *   *


 同じように祖父母の家を見てきた観鈴と合流し、遅めの昼食を取るべく町の中心地に向かった。

 昔と比べると、だいぶチェーン店が増えた気がする。観鈴は大きな目をくるくると輝かせながら、子供のような笑顔を見せた。

カレーやファミレスといった飲食店が増えたのは嬉しいけれど、そのやけに新しい外観はこの町には似つかわしくなく、浮いて見えた。だから僕はその真新しい、ギラギラしたカレー屋から目をそむけた。

 その時、思い出した。このカレー屋が立っていた場所には、本屋があったはずなのだ。祖母に子供向けの科学の本を買ってもらった覚えがある。

 ああいう本は今見ると、子供向けのわりに――いや親に買ってもらう前提だからなのだろうか――思った以上に値段が高くてびっくりする。もちろんわかりやすくて面白く、しっかり値段に見合った質の中身ではあるのだが。


   *   *   *


 僕達を残して変わってしまった町。

 幼い頃、廃線になった駅で遊んでいたことを思い出した。

 夏の線路。素足には痛かった、けた線路。

 でもそれも、もうない。

 観鈴が日の匂いのする夏草なつくさを結んで腕に巻いていたのを思い出す。

 無造作に伸び切った夏草も、あの時は好きじゃなかった青臭い匂いも、もうないのだ。


 新しいものなんて何もなかったこの町も、ずいぶんと変わってしまった。

 あの頃は、古臭いこの町を疎ましく思っていたのに、どうしてだろう。

 今では、汚い洗濯物が干してあったり、がらくたが転がしてあったり、むさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りのように、古くて見すぼらしいものに惹かれてしまうのは、どうしてだろう。

 流行りの音楽を聞かなくなり、子供の頃の耳に残る、かつて流行っていた音楽を聴き漁るようになったのは、どうしてだろう。

 本棚からひょっこり出てきた、幼い日々に愛読していた古い本をめくっていると、心が妙に落ち着くのは、どうしてだろう。

 古くて懐かしいものに、心地よさを感じるのは、愛おしさを抱いてしまうのはどうしてだろう。


 どうしてだろう。いつからだろう。

 懐古趣味や郷愁感ノスタルジーに、溺れるようになったのは。


 目の前を、一羽のカラスが歩いている。まだ幼いのか羽ばたくことはなく、ぴょんぴょんと、跳ねるように飛んでいる。

 それでもこの鳥も、やがては風を切って飛ぶのだろう。

 僕たちを残して、飛んでいってしまうのだろう。


 僕たちは何も変わらない。

 自分一人取り残されることが寂しくて――いやきっと、いつまでも変われなかったことが悔しくて――僕は観鈴の指に触れた。

 観鈴は何も言わずに、手を握り返してきてくれた。

 やわらかく、あたたかく、そしてちょっとだけ冷たかった。


   *   *   *


 喫茶店で遅めの昼食をとった後、僕たちはいつものように互いの近況を伝えあった。静かなひとときだった。

 それが終わるともう一度、海の方へ向かうことにした。

 今度は浜辺まで行こう、という観鈴の提案に、僕は賛成した。

 喫茶店を出ると空はほのかに赤らんでいた。日が傾きかけているのだろう。


 いつもの堤防をいくらか進むと、堤防が途切れているところにあたることがある。浜辺に降りる階段が備えられているのだ。

 手すりは恐らく金属製で、午後の身には冷たかった。階段は二段階になっており、3メートルほどの高さがある。

 うしおのとどろきの昇ってくる、階段下の海に目をる。日暮れが近いのだろう、堤防を歩いていた時より風が強い。海面のいたるところに白いささくれが立ち、うしおが大きくうねっている。

 階段と連なっている防波堤に白波が打ちつけられ、そのしぶきの流れ落ちるのが見えた。


 堤防にいた時よりも強い海風うみかぜは、美鈴の黒いスカートをばたばたとはためかせた。長い髪は大きくうねるようになびいている。逆光で陰ったカモメは滑るように夕空を飛んだ。


 階段を降りきると、豊かな砂浜が広がっていた。

 ひとあしひとあし、細やかな砂に足が沈むのがわかる。

 両手で水をむすぶように、まばゆい砂を手にすくった。乾いた砂はてのひらから流れ落ち、なんとなく、虚しくなった。

 少しだけ沖に向かうと、波の、薄く伸ばされたその余波なごりが、足元すれすれに迫る。足に触れることなくしおは引き、淡い泡沫ほうまつばかりがまばゆい砂の上に残った。

 ふつふつと、それも消えゆく。


 潮風に素足をさらす観鈴は、海の果てを見つめている。

 その目はどこか朧げで、焦点が定まっていないように見えた。観鈴は浜辺に来ると、いつもこんな、哀愁に満ちた眼差しでひとり海をじっと見つめる。

 沖の果てに、何があるのだろうか。

 観鈴は何を、見ているのだろうか。


 遥か昔、海の向こうに、常世とこよの国という理想郷があったという。古代の日本人にとって神の恵みは、常世の国からもたらされたものだった。

 観鈴がのぞんでいるのも、同じものなのだろうか。


 波が赤らんできた。日暮れが近い。

 美鈴の瞳の下のほうは少しだけうるんでいて、なんとなく、悲しそうに見えた。潤みに夕日が照り返り、きらめいた。

 何かをこすったような、カモメの高い声が響く。


 僕にはわからない。

 美鈴が何をうれいているのか。

 いや、きっと美鈴もはっきりとはわかっていないのだ。ただぼんやりと、哀しいのだ。だから見つめる他に、何もできないのだ。

 ただそうしている時の美鈴は酷く儚げで、軽くぶつけるだけで音を立てて壊れてしまう、硝子ガラス細工のようにもろく見えた。


 波は夕日を映し、だいだいに染まっていく。まばゆい緋色が目にしみる。

 寄せては返す光を浴びて、ずっと向こうを見続けている美鈴。


 見えているのに手が届かない場所。海岸線の先。灼けた線路。飛行機雲。無限の終わり。

 ずっと終わらない、記憶の海に浮かぶ幻を、もう一人の自分を、見続けている。そんな気がする。


 観鈴はきっと、この夢の終わりを、ひとり目指し続けている。

 ここではない、どこかを。

 すぐ目の前に見えているのに手が届かない、はるかな夢を。

 その景色はここからが一番よく見えるから。この浜辺が、一番近い場所だということを知っているから。

 でも、近いだけであって、追えども追えども、その手は果てなく、届かない。

 はるかな高み。

 僕はそれを知っている。


 僕たちは、いつも同じ夢を見る。


 この町に鳴る潮騒はいつも変わらない。

 しぶきの音は、46億年前から変わらない。百億の波と千億のしぶき。

 海のに浸っていると、ふっとまどろんでしまうような、幼い頃聞いた音楽に触れるような気持ちになることがある。

 朧げで、どこか懐かしい、心地のよい郷愁感。


 防波堤にうちつけられて、消えゆく波のしぶきは――一瞬で燃え、たち消える――花火のように、儚げで――

 波のしぶきを浴びた観鈴は、きらきらと細やかに光った。


 君を纏う空気は、いつもとても静かで、緩やかに時が流れている。ずっと前から変わらない君を愛おしく思ってしまうのは、どうしてだろう。

 それは君が、波のに似ているから?

 ずっと変わらない、波の音に。


 ふと、風が止まった。

 夕凪だ。


 その瞬間、半年前から僕の心を終始抑えつけていた、あの言いようのない気持ちの正体がわかった。

 憂鬱でもなく、焦燥でもなく、悲哀でもなく、絶望でもない、胸が裂けるようなあの切なさの正体が。


 その切なさは時の流れに端を発していた。

 すなわち立ち止まることなく過ぎ去ってしまった過去への後悔であり、そしてこの先も抗えずに過ぎ去ってゆくのであろう未来への恐怖であった。そしてその後悔と恐怖は、懐かしさという快楽に浸ることでのみ慰めることができたのだ。


 この半年間僕は現実から逃げ続け、新しい未来に目を塞ぎ、郷愁感という名の麻薬的官能に溺れていた。懐古趣味に浸り、ずっと変わらない今を、ありもしない普遍を、ここではないどこかを夢見ていた。

 ――何も考えなくていい、時の止まった小島で、君と二人で、永遠に――

 ――時のとまった、凪の島を――

 ――そんな夢を。

 

 こんな弱い自分を、君は許してくれるだろうか。

 いやきっと、許しはしないだろう。

 だって君は、強いから。


   *   *   *


 楽しそうな声が聞こえ、後ろを振り向いた。

 海に日が沈むのを見に来たのだろう、中学生くらいの男女の二人組が浜を歩いている。二人の顔には笑顔がこぼれ、 制服は夕日に染まっていた。

 後ろを見る僕に気づき、観鈴も二人に目を向ける。

 そして。


 ――やっぱり、ああいう風にお喋りしながら歩きたいよね……? 発話の訓練とかもあるみたいで、始めてみようと思ってるんだけど……

 観鈴は申し訳なさそうに眉と目を伏せながら、で自分の気持ちを伝えた。口元は自嘲気味にやや笑っている。

 ――全然、大丈夫だよ。それに、彼女たちみたいな会話は、僕にはかしましすぎる。

 僕も手話で返す。


 観鈴の行動はうるさいくらいにおてんばで、目が離せないのに――どうしてか時折、君をまとう空気の静けさに、涼やかな佇まいに、苦しいくらいに惹きつけられて――やっぱり、目が離せないから――


「言葉なんて、いらないから……ずっとこのままで、いいから……」


 これは手話にはしなかった。

 ……まだ未熟で、手話に訳せなかったからだ。わからなかったものは仕方がない。

 呟きは潮風にさらわれ、消えていった。

 彼女は猫のように大きな瞳をきょとんとさせながら僕を見つめていた。


 ――帰ろ。

 今度は手話で。


   *   *   *


 君を見ていると、君を思い浮かべると、いつも聞こえる波のしぶき

 潮騒しおさいが、ふっと頭に響いてゆく。


 波の音……

 潮の匂い……


 僕たちは、いつも同じ夢を見る。

 まどろみの中、君が堤防の上を歩くのが見える。朧げに。潮騒をバックに浮かぶ君の姿。

 波がしぶく音が聞こえる。ばらばらに、砕け散った波の粒――その粒が、防波堤にしぶき込む。耳を澄ますとふつふつと、白く泡立つ音が聞こえる。染みて消えゆくしぶきの音。観鈴の音だ。

 生まれたときから――いやきっと、胎内にいる頃から聞いている、潮騒のせいだろうか。それとも有史以来変わらない、あまねく全ての生命が、その先祖が聞いていた、しぶきの音のせいだろうか。


 不思議と君とは、ずっと昔から一緒にいたような気がする。

 夏の海の潮鳴しおなりをずっと聞いてきた、そんな気がする。

 夏はどこまでも続いてゆく。そんな気がする。

 これは、何回目の夏なんだろう。

 千回目の夏。そんな気がした。

 次の夏も、君は笑っているだろうか。笑っていたら、いいな。そう思った。


 ――もうすぐ、日が暮れるね……

 観鈴は海を見て、眩しそうに目を細めた。


   *   *   *


 町が夕日に包まれてゆく。

 紫色しいろに暮れる夕空が、家々の白い壁や窓に映り込む。深い朱色に染め上がってゆく。

 町は潮鳴しおなりに包まれてゆく。家々の隙間に入り込み、こだまし、壁の奥まで染みいってゆく。


 漁獲禁止の看板は、長い影を伸ばしていた。

 濃い、影だった。

 僕たちはふたり、その影を超える。

 ――夏の影を。


 振り返ると、堤防の上に人がいるのが見えた。

 浜辺を歩いていた二人組とは違って、幼児か、小学生くらいに見えた。

 男の子と女の子。

 男の子は眠っているのか、顔を伏せて座っていた。その横で女の子が、起きるのを待っている――そんなふうに見えた。

 女の子が僕らに気づき、手を振る。観鈴が手を振り返すと、女の子は笑った。


 ――来年も、また来たいね……でも、働いてるんだよね、来年は。私たち。お仕事のお休みが、合えばいいんだけど。


 ――そうだね……でも、きっと合うよ。


 やめてくれ。そんなことを言わないでくれ。まだ、まだ、そんなのは、見たくない。考えたくない。思い出させないでくれ。頼むから、話すのを、やめてくれ。その手話を、やめてくれ。


「ずっと、このまま……」

 その言葉はきっと潮風にさらわれ、消えゆく。


 僕の求める永遠の普遍もまた、ここではない、どこかでしかないのだから。郷愁という名の、麻薬に溺れているに過ぎないのだから。先の見えない未来を孕む現実からの、逃避に過ぎないのだから。

 それでも、わかっていても、追い求めてしまう。

 僕は、弱いから。

 逃げずにはいられなかった。


 君は、どうしてそんなに強くいられるのだろう。

 君のその強さに、引力の強さに、きっと、僕は――



 僕らは夢を乗り継いで、そしてまた、生まれ変わって再び出逢う。



 波がしぶく。

 また、夏が来る。

 変わらない夏が。

 千回目の夏が。

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夏のしぶき 夏藤涼太 @hondobo

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