第5話 恩讐の果てに -クリスマスの祈り

 「主人と知り合って、彼の説教を聞くうちに、変わったのです。恨むな、赦せと。恨むことは、誰にでもできる、地獄への第一歩。赦すことは、困難だけれども天国につながる鍵。そう、言ったわよね?」

 小城牧師がうなずき、純子さんは語り続けた。

「あなたは、十分に償いをなさいました。遺族が言うのです。生きてくださいと。あなたが極刑にならなくて本当によかった。そうしたら、こうやってお話をしたり、スープをお配りしてお近づきになれないところでした。食卓には、いつも主がいらっしゃるというのが、主人の持論なんですよ。だから、最後の晩餐があったのだと。主の陪食の席に連なる、私たちは、今日はあなたがたのお食事にも奉仕させていただきました。みなさんと、この社会が少しずつ変わるように、私たちも頑張りますから、野中さんも決してやけにならずに、いつでも教会においでください。教会は、信者だけのものではありません。迷えるもの全ての集う場所です。あなたは、十分に苦しまれました。そうでしょう?」

 こうした優しい言葉を、他ならぬ遺族から聞こうとは思っていなかったので、俺は呆然としていた。小城牧師は、やはりにこにこと笑っていた。

 「このような……こんな、俺を、あなたは……」

 「そんなあなただからこそです。主もおっしゃいました。丈夫な者に医者はいらない、私は罪人を招きに来たのだ、と」

 俺の涙は、ぽろぽろとこぼれはじめた。不意の優しさ、親切に飢えているときの温かさが、どれほど人間の支えになるかわからない。俺は、子供のようにしゃくり上げた。

 赦された、赦された。俺は、生きていて、いいのだ。

 俺を囲む牧師夫婦は、ただやわらかい笑みを浮かべながら、そばで手を握っていてくれた。

 俺は、天を見上げた。

 20数年前の、孤独な犯罪者としてのクリスマス。

 今の、贖罪者として、優しい人たちに囲まれたクリスマス。

 俺は、命を奪ったその手で、自分の糧を稼いで生きてゆく。その強さをください。

 神様、どうか……。

 俺は、いつの間にか祈っていた。祈るのが、自然だった。そして、牧師夫婦も祈った。

 俺たちは、三人で、いつまでもひざまずいていた。


(了)


********

【あとがき】

 2014年のクリスマスイブに向けて書いた作品です。あるサイトで紹介され、SNSでも少し拡散していただきました。ありがたいことです。

 主人公が食べるスープの描写は、「イワン・デニーソヴィチの一日」に登場する収容所での食事にヒントを得ました。あの作品は好きでときどき読み返します。

「祈り」というものは、普段はどうしても「願い事」と一体化してしまって、信仰を持つ方のそれとは乖離してしまうのが現実ですが、クリスマスにこそ考えてみたい行為でもあります。なので、この作品に扉絵をつけるとしたら、デューラーの祈る手の素描ですね。

 小さな罪を犯しながら生きる人々。そして大きな罪を犯して贖罪に苦しむ人々。罪を許すのは、不意をつくひとのやさしさであり、何よりも、「許されていい」「生きていていい」という罪びと自らの自己肯定なのです。


猫野 拝



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クリスマスの祈り 猫野みずき @nekono-mizuki

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