第5話
美岬は私をベンチに座らせると、温かいミルクティーを買ってくれた。
「自販機の缶コーヒーってなんであんなに熱いんだろうね」そう言いながら渡してくれたペットボトルは、激しく流れていた血液を穏やかにした。
「美岬、わたし……」
バスを降りてから、大学までの道を必死になって探し回った。今日訪れたすべての場所に行って、ついには研究室にまで戻り、ごみ箱の中まで目を凝らしたが、紙くずやボールペンがあるだけだった。
これ以上もうどこにも、心当たりがなかった。落とすような原因も、思いつかなかった。
「落ち着いて」美岬は私の頭を撫でる。
「大丈夫、怒らないよ。というか、もう五年も使い続けてくれたんでしょ。充分、役目は果たしたよ」
「でも、私はもっと使っていたかった。ぼろぼろで、使えなくなるまで、使いたかった。なのに、なくしちゃうなんて」
一つのものを作るのに、どれだけの材料が、時間が、労力がいるのか。そして、気持ちが込められているのか。
ものをなくすということは、それを全部捨ててしまうことになる。手袋に込めた美岬の気持ちを、私は、無下に捨ててしまったのだ。美岬だけじゃない。ここ最近の私は、いったいどれくらいの人の思いという思いを捨ててしまったのだろうか。
「昨日行った、雑貨屋の店員さんが、長く大切に使われたものには不思議な力が宿って、持ち主のお守りになるって。でも、そうだとしても、私は手袋を手放したくなかった。ずっとずっと、そばにいてほしかった」
美岬は静かに息を吐いた。端正な横顔が、冬の風の冷たさからか、それとも今日の暖かい気候の所為か、少し赤くなっている。
「ものがお守りに、か」彼女は微笑んだ。「素敵じゃん」
「美岬……」
「私の手袋が、聡美を守ってくれたのかもしれないんでしょ? 大切に使ってくれた聡美に、恩返しをしてくれた。それって、すごく素敵なことじゃない?」
あのね聡美、と言って彼女は立ち上がる。
「嬉しかったんだよ。ずっと」
「え?」
「私この前、いい加減に服とか新しいものにしなって言ったけれど、毎年毎年、聡美が手袋を付けて来てくれるの、すごく嬉しかった。縫ったあとを見つけたときはさすがに買い替えればいいのにって思ったけれど、でも、自分があげたものが大切に使われているのって、こんなに嬉しいことなんだってわかった。そして、思ったんだ。ものを大切に扱うことは、きっと作り手や、それにかかわったすべての人やものに、愛情で返すことなんだって。だから、もう十分」
十分と言う言葉を、ぐっと噛み締める。
「十分、手袋は聡美の愛情を受け取ったよ。そして、私も。出会ってから五年分の愛情を、私はちゃんと、受け取ったよ。だから手袋の分も言うね」
美岬は私の前に立つ。あのとき、手袋を渡してくれたときのように。
「聡美、大切に使ってくれて、ありがとう」
彼女の笑顔が眩しく輝く。
今日の冬の日差しのように、あたたかさが、ぐんと際立っていた。
「美岬、渡すものがあるの」
私は、リュックからプレゼントを取り出した。
「誕生日、おめでとう」
「用意してくれたんだ。嬉しい。見ていい?」
頷くと、美岬が中のアクセサリーを取り出す。翡翠色の玉はくすむことなく、輝いていた。
「きれい。どこに売っていたの?」
「美岬の最寄から三駅くらいとなりの雑貨屋さん。魔除けの置物とか、まじないものとか、変わったものが売っていた」
「ふうん」美岬はそれをしげしげと見つめると。なるほどねと呟いた。
「なるほど?」
「変わった雑貨屋にこれが売っていた理由がね。これも充分、不思議なものだよ」
彼女は嬉しそうに、それを手首に通した。そのまま、私に見せる。
「ほら、紐に結び目がないのに、玉の中を紐が通っている。どうやって作ったんだろうね」
翡翠色の玉が、途切れのない、輪になった紐に通っている。
あなたとご友人の友情が、いつまでも続きますように。
お姉さんの言葉を思い出した。
「聡美は、聡美が思っている以上に嬉しいものを、私にくれたみたいね」
美岬はきっと、ずっとそれを使ってくれる。
大切に大切に、使ってくれる。
瞳に翡翠色が映る彼女を見て、私はそう思った。
帰り道はずっと、今日一日のことを思い返していた。
大学近くのバス停で降りて、自宅まで歩く。夜道は注意という佐恵子の言葉を思い出して、私はスマホのライトをつけた。
ふと思い立って、地面を照らす。電柱の脇から道路の真ん中まで照らしてみるも、手袋はやはり見つからない。また少し悲しくなったけれど、私は小さく、ありがとうと呟いて、どこにあるかもわからないそれに、頭を下げる。
冷たい風が吹いた。やはり夜は寒い。
さて、早いところ家に帰ろう。ここで通り魔に会って、命を落としてしまっては大変だ。私は凍りそうな頬をマフラーに埋め、足早に、自宅に向かった。
次の日、少々寝不足のまま、いつも通りの時間に目を覚ました。
楽しい一日の余韻に浸りながら入浴や家事を済ませ、良い気分のまま就寝した。だが真夜中に救急車のサイレンがけたたましくなり、せっかくの安眠が妨げられてしまったのだ。
大学と専門学校がいくつか集まり、そのため学生が多く住むこの一帯は、酒に飲まれた若者が問題を起こすこともしばしばある。だから今回も、また学生指導部の職員が胃を痛くするな、くらいにしか思わなかった。
重い瞼をこすり、シャワーを浴びて、キッチンに立つ。唯一出来る料理のオムレツを作って、トーストと、コンビニで買ったサラダと一緒に食べる。
電話が鳴った。
美岬だった。こんな時間に珍しいと思いながら、スマホを耳に当てる。
「もしもし、美岬?」
「おはよう。よかった繋がって」
美岬の声は、どうしてか慌てていた。
「どうしたのよ」
「それがさ、今ニュース見てて。ほら、あの通り魔事件に動きがあって。もう心配になって」
美岬の話は全く要領を得ない。それを伝えると、とりあえずニュースつけてと言われる。
オムレツが冷めるのを心配しながら、テレビの主電源をつけた。美岬が見ているのと同じニュース番組にチャンネルを合わせる。
流れているニュースを見て、私は、頭が真っ白になった。
「昨夜未明、千葉県〇〇市の路上で、血を流して倒れている人がいるとの通報がありました。警察が向かったところ、千葉県××大学大学院の柘植佐恵子さん二十三歳が、首にナイフが刺さった状態で発見されました。柘植さんはすぐに病院に搬送されましたが、死亡が確認されました。
ナイフからは柘植さんの指紋のみが確認されており、現場の状況から、ナイフは柘植さんの私物であったもの考えられています。
なぜ柘植さんがナイフを持ち歩いていたかについては不明ですが、警察は、近隣で起きている通り魔事件との関連性もあるとみて、現在捜査を行っております。
また、柘植さんの脚には、手袋のようなものが絡みついており……」
ものは大切に 大鳥風月 @huzuki-ohtori
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