第4話

 天気予報によると、今日は平年より気温が高くなるらしい。日差しが窓から差し込むと、昨日までの厚着では汗ばんでしまう。とは言え、夜は別だ。気を抜いて防寒を怠ると、帰るころは極寒地獄が待っている。手袋とマフラーは、だからリュックに入れておいた。

 出かける前に荷物の最終チェックをする。昨日のアクセサリーは、お姉さんがきれいにラッピングしてくれた。忘れずに、マフラーと手袋で挟んでおく。

 美岬と会うのは午後からだった。それまで滞っている研究を少しでも進めようと、大学へ向かう。

 研究室には、すでに佐恵子がいた。明日のゼミは彼女の担当なので、資料作りでもしているのだろう。熱心に作業をしていたので静かに自分の席に着くと、向こうから挨拶された。

「おはよう、聡美」

「おはよう。早いね」

「まあね。ちょっと予定が狂っちゃって」彼女は大きくため息を吐いた。

「最近物事がうまいこと続かなくてさ。明日の準備も、本当ならもう終わらせているはずなんだけれどね」

「物事って、研究?」

「研究も、プライベートも。おかげでフラストレーション溜まりまくり」

 才色兼備な彼女でもそういうことがあるのかと、素直に驚いた。少しだけ私との距離が近く見えた気がして、思わずにやけてしまう。すると彼女に「こらー笑うなー」と怒られた。

「そういえば、聡美。今日は友達と会う約束では?」佐恵子は聞きながら、ボールペンでなにやら書いている。

「会うよ。午後からだからそれまで研究」

「プレゼントはこの前言っていた雑貨屋で買ったんだっけ」

「それがさあ。いろいろあって全然違うところに行ったの」

 ここしばらくのものの紛失を話すと、なにかに憑かれているんじゃないのと心配される。研究者の端くれがオカルトを信じてどうするのと、私はすかさず突っ込んだ。自分のことを棚に上げて。

「じゃあ聡美も、進捗が悪いってわけね。友人と遊びに行く日ですら、大学に行って研究する必要があるくらい」

「そう。まとめてくれてありがとう」

 返事の代わりに、かちっとボールペンの音を鳴らす。インクが出ないのか、何度も何度もペン先を動かしていた。

 そのまま佐恵子が集中し始めたので、私も自分の研究を始めることにした。

 今日は遅刻が出来ない。頭の中で研究の段取りを組みながら、私は白衣を羽織った。



「夜道は気を付けなよ」

 出発間際、佐恵子が言った。同じようなことを前に言われたので、すぐに察した。

「通り魔のことね。最近大人しいみたいだけれど」

「でもまだ捕まってないんだから。夜歩くなら人通りの多い明るい道とか、スマホのライトつけるとか、ある程度、身を守ることはしておいた方がいいよ」

「お互いにね。佐恵子だって狙われるかもしれないんだから」

 佐恵子はキョトンとした顔で私を見た。

「そうか。私みたいな美人、通り魔が放っておかないか」

「自分で言うな」

 大学を出て、バス停に向かう。今日の待ち合わせは、このあたりのバスの終点駅だった。時間通りに来たバスに乗り、窓際に座る。美岬に、今日は遅れないぞとメッセージを入れると、期待しないで待っているよと返された。待ち合わせに関しては、もはや信用がないらしい。

 リュックの中のプレゼントを取り出す。なくなっていないことに安心し、過敏になっている自分に苦笑する。

 ふと、お姉さんの言葉を思い出した。

 美岬とは高校で知り合って、もう五年の仲だ。大学を卒業した後まで付き合いがあるのは、もう彼女しかいない。あまり他人が苦手であった私にとって、彼女との時間は唯一、気が滅入らなかった。

 友情が、いつまでも。

 お姉さんの言葉は、だから、とても嬉しかった。誕生日に送るものとして、このアクセサリーはこれ以上ないものだと思った。

 一つ目のバス停を通り過ぎる。赤信号でバスが速度を緩め、景色の流れが静かになる。

 プレゼントをリュックに仕舞うと同時に、バスが動きを止めた。

 一瞬、すべてのときが止まった気がした。

「すみません」何とか出した声が震えている。

「すみません、降ろしてください!」

 バスを降りて、私は来た道を走って戻った。呼吸が荒くなる。吐き気が襲ってくる。

 リュックに入れたはずのものが、なくなっていた。

 一番大切なものが、一番なくしてはいけないものが、なくなっていた。

 

 予定より三十分以上遅れて、私は待ち合わせの場所、駅のそばの公園に着いた。

 美岬は当然、そこにいた。陽の当たるベンチに座り、のんびり本を読んでいる。

「やっと来たか」彼女の目が私を捉える。「期待しないで良かったよ」

「美岬」私は、名前を呼ぶだけで精いっぱいだった。

「どうしたの?」美岬の声色が変わる。

「聡美、どうした?」

「ごめん、なさい。ごめんなさい」

 すがるように、美岬の服をつかんだ。

「な、なに。なにかあったの?」

「なくしちゃった」口にすると、張り裂けそうな胸が、さらに痛みを膨張させる。「ずっと使っていた、美岬が私にくれた、手袋。なくしちゃった」

 高校に入って、初めてできた友達からもらった、初めての誕生日プレゼント。

 穴が開いては縫い、汚れては洗い、冬の間、ずっと私の両手を温めてくれた、大切な手袋。

「ごめん。美岬、ごめんなさい」

「聡美、顔上げて」美岬の声は、とてもやさしかった。

「とりあえず、座ろうよ。そんで、涙を拭く。眼鏡美人が台無しだぞ」

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