第3話

 ものの紛失は、あの二件だけに留まらなかった。

 鍵の後、まず財布がなくなった。

 基本的に大金を持ち歩かないようにしているし、カード類とお金は分けて持つようにしているので(一緒にするのはポイントカードくらい)大した被害ではなかったものの、財布自体がなくなったことが私を大いに悲しませた。その日はたまたまいた四年生の一人にお金を貸してもらい一日を過ごしたのだが、翌日、研究を早めに終わらせて、彼にご飯を奢らなくてはならなかった。

 その後はペンケースだった。

 ちょっと図書室で調べ物をした帰りだった。受験の時に大変お世話になった、銀色の勝負シャーペンもろとも、神隠しにあったかのように消え、今日まで出てくることはなかった。大学の落とし物コーナーを漁り、図書員さんに聞いてもみたが、もはや諦めざるを得なかった。

 極めつけは、昨日だ。

 まずUSBだ。それはまずいことだった。なにせ大切な研究データが入っているのだから。

 データ自体のバックアップは取ってあるが、問題はそれが他人の手に渡ることだ。どれだけ些細な研究であっても、その第一人者は自分なのだ。それが自分以外の手に渡ってしまえば、仮に新進気鋭の発見をしても説得力がなくなってしまう。

 そういったわけで血眼になって研究室や自宅を探すと、自宅の冷蔵庫の下にあった。中身も無事で一安心したが、おかげで一日つぶれてしまった。ひっかきまわした部屋の惨状を見て、私は疲労感に襲われた。

 

 そう言ったことが続いたため、雑貨屋さんに行く日にはすっかり意気消沈していた。

 もう五回だ。余計な出費が激しく、研究も他の予定も上手く進んでくれない。現実が嫌になった私は、電車の中で物語の世界に逃げ込むことにした。

 最近は参考書ばかりを読んでいたため、小説を読むのは随分と懐かしく思える。何を読むべきかわからなかったので、最近話題の若手作家のミステリーを選んだ。

 根っからの理系人間であるため、登場人物の心情などは正直、よく読み取れなかった。でも謎が謎を呼ぶ展開はぐいぐいと私の意識を引き込み、私を夢中にさせた。その結果、乗り換えの駅に着いたことに気が付かず、乗り過ごしてしまった。気が付いたのは、そこから三つめの駅だった。

 その駅すら乗り過ごしそうになったので、駆け込み乗車ならぬ駆け抜け降車をする羽目になった。後ろで電車が出発する。最後尾が背中を通り過ぎると、安堵ため息を吐いた。

 なんだか、ため息を吐いてばかりのような気がする。どれもこれも不注意による自業自得だが、それにしたって、どうしてこうも良くないことは続いてしまうのか。

 自暴自棄になっても仕方ない。今日は大事な明日のために、快くプレゼントを用意したかった。

気持ちを何とか切り替えて、階段を伝って反対側のホームへ向かう。小説は乗り過ごしの元なので、リュックの中にしまう。

ついで、定期を出そうと中をまさぐる。そして、私はいい加減、叫び出しそうになった。

 定期券がない。

 慌てて降りたときに落としたのだろうか。ホームまでの短い通路には当然見当たらず、電車の中は、もはや確認のしようがない。

私は乱暴に髪を掻き上げた。息が荒い。体が熱い。

いい加減にしてくれ。

いったい何なのだ、最近の私は。

どこにも向けようもない怒りと虚しさを、奥歯を噛み締めて飲み込む。駅員さんに事情を伝える。私はそのまま、駅を降りた。

いくら何でもひどすぎる。ここまでくると、何かの病気なんじゃないかと思う。そうでなければ、どういう説明がつくのか。だが今更どんな理由であれ、友人の誕生日を祝おうとしているときにこういう事態が重なることが、私の不安を駆り立てた。

降りるとすぐに、まっすぐに伸びる道があった。ちょうど線路と交差していて、坂になっている。上りになっている左手には大きな鳥居が立っており、その奥には寺院が見えた。また右手にはお店が立ち並び、もう一つ駅があった。

そして、すぐ目の前に、何やら怪しげな雑貨屋さんがあった。店頭に鳥かごがあり、黒い鳥が首を動かしている。

私は吸い込まれるように、そのお店に向かっていった。

中を覗くと、怪しげな仮面だとか、木彫りの置物だとかが並んでいる。中には茶碗(のように見える)みたいに日本的なものもあり、国内外の文化が入り混じった複雑な世界が広がっていた。

 “魔除けにどうぞ”というポップが目に入る。なんだそれはと、いつもなら信じないところだが、終わらない不運に心が折れた今の私には、それが救いの神様に見えた。

 ああ、きっと私には良くないものが憑いているんだ。ものがどんどんなくなるのも、きっとそのせい。そう思わずにはいられなかった。

 もっと中を見たくなり、店内に足を一歩入れる。すると大人しかった鳥が、突然「いらっしゃいませ」と叫んだ。比喩ではなく、饒舌な発音でそう言ったのだ。

 それに続いて、はーいと奥から返事が聞こえた。現れたのは、一見、私とさほど年が変わらない、若いお姉さんだった。

「店長、連絡ありがとうございます」店長と呼ばれた鳥は、素知らぬ顔で羽繕いをしていた。

「いらっしゃいませ。おや、若い方が来るなんて珍しいですね」お姉さんは人懐っこい笑顔を見せる。営業用ではない、素のものだろうなと、何となく思った。

「あの、表の鳥、九官鳥きゅうかんちょうですよね」

「はい。よくご存じですね」

 これでも鳥類学者の端くれ。物真似が得意なこの鳥を知らないはずはなかった。

「ここは、なんのお店ですか」

「世界各地の珍しい骨董品とかを販売しています。そのため、どうしても怪しい雰囲気になってしまうのですが」お姉さんはぽりぽりと頭を掻く。

「コレクター向けのお店ですが、若い方が来てくれてうれしいです。何も買わなくてもいいので、ゆっくり見ていってください」

 ゆっくり見ていってくださいと店長が繰り返す。お姉さんの口癖らしい。よく耳にする言葉ほど、九官鳥は覚えやすい。

 お言葉に甘えて、中を見て回る。誰が作ったのかも、いつ作られたのかもわからない置物や、仮面や、装飾品。用途のわからないものもある。どれも複雑かつ、きれいな作りで、怪しいだけでなく神秘的だった。

 何より、どれも見ていると、心の中がざわりとするのだ。不快な感覚ではなく、例えば動物園や水族館で生き物たちを見ているとき。例えば窓の外の電線に止まるスズメやカラスを眺めているとき。そのときに感じる、こちらも見られているという感覚。人工物なのに、まるで生き物と同じ、体温のようなものを感じたのだった。

 その中の、木彫りのフクロウに触れてみようと、手を伸ばす。それはやはり木彫りで、羽毛の感触もぬくもりもない。

 突然、鳥の鳴き声がした。一瞬本当に動き出したのかと思ったが、壁掛け時計が十四時を知らせただけだった。それに合わせて、店長が物真似で答えていた。

 店頭にでる。お姉さんはじょうろで鳥かごの上から店長に水をかけていた。九官鳥は水浴びが好きだと何かで読んだことがある。

「どうでしたか」お姉さんは笑顔で尋ねた。

 自分が感じたものを上手く言えずにいると、お姉さんは小さくうなずいた。

「不思議な感覚がしたでしょう。まるで生きているかのような」

「はい」そうだった。このお店のものはすべて、どこか生物的だった。

「ここにあるものは、作られてからどのくらいの年月を経ているのかわかりませんが、古いものばかりです。

長い間、いろいろな人の手に渡り大切に扱われたものは、纏うのだと思います。魂と言うとちょっと大げさですが、意志と言うか、不思議な力というか。あ、もちろん適当な作り話ではなくてですね」

 私は首を横に振った。本当の話かどうかは別にして、お姉さんの言うようなことを、まさに感じていた。

 でも、だとしたら。私が使ってきたもの、私の元から、離れたものは。

「最近、ものをよくなくすんです」私は口に出していた。

「今までずっと大切に使ってきたものが、むしろそういうものほど、何処かへいってしまって。一個一個なくなるたびに、ものに捨てられたような気分になったんです。私の下にいるのが、嫌になったのかって」

 毎日何度も目にするものがなくなる。私にとってもはや心身の一部のように感じていたものが、ふとした瞬間にいなくなる。そうして私が少しずつかけていくのを、それらは望んでいるのではないのか。

 私の愛情は、余計なものだったのか。

「そんなことは、ないと思いますよ」

 お姉さんはじょうろを足元に置いて、ハンカチで手をふいた。

「こんな話を聞いたことがあります。

ずっと昔の話。とある村に美しい娘がいました。その娘には幼いころから大切にしている人形がいました。あるとき、その娘は貴族の青年と恋仲になり、結婚をする約束をしました。しかし、それを良く思わなかった青年の許嫁の家系が、娘を殺そうと暗殺を企てます。暗殺者は娘の家へ忍び込み、寝ている彼女の心臓を一刺し。しかしあくる日、娘と青年は二人でどこかへもわからぬ場所へ逃亡したと連絡が入りました。許嫁は慌てて、娘の家に押し入ると、そこにはぼろぼろになった、娘の人形があるだけでした。

大切に扱われたものは、持ち主に報いようとします。もしかしたら、あなたがなくしたものも、その身を犠牲にあなたを守っていたのかもしれません」

 ものが、私を守ってくれた。

 これはきっと、お姉さんの作り話だ。もしその話が本当なら、私はここ何週間かで五回は危険な目にあうところだった、ということになる。短期間で一人の人間にそう何度も危険は訪れないだろう。よっぽどの悪運の持ち主か、もしくはストーカーのような、個人を狙う犯罪者の対象にならない限りは。

 でも。

「本当にそうだったら、私はもっと感謝しなくちゃいけないですね」

 私のものに対する愛情が、間違ったものじゃなかった。私の思いに、答えてくれた。

 そう考えるだけで、少しだけ、心が軽くなった。

「ひとつ、お願いしてもいいですか」

 お姉さんは笑顔で、喜んでと言った。

「あの、明日友人の誕生日なんですが、何かプレゼントに良いものありませんか。ココにあるものなら、彼女も喜んでくれると思うんです」

「それは良いですね」お姉さんは店内に戻ると、あちこち探し回り、それから思いついたというように、ぽんと手を叩いた。

 店の奥から持ってきたのは、ブレスレットのような、輪になった装飾品だった。丸く成形された木と、それに挟まれて翡翠色の球が通っている。

「色には様々な意味があるのですが、緑は友情を表すようです」

 お姉さんはそれを、私の手のひらにそれを乗せる。陽の光に当たって、玉の表面が瞬いた。

「あなたとご友人の友情が、いつまでも続きますように」

 

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