第2話
スクリーンの前で研究の進捗を発表しながら、我らが研究室の生徒たちを眺めてみる。院生はもちろん真面目に聞いている。卒業研究真っただ中の四年生たちは、熱心にメモを取るものや、ぼんやりと顔だけ向けているものもいる。まあ、そんなものだろう。
美岬の家でまとめ上げた資料をもとに、滞りなく発表を終える。席に着くと、同じ院生の
「さすが聡美だね。とても分かりやすい説明だった」
佐恵子は他大学からこの大学院にやってきた外部生だ。大変手先が器用で、優秀な研究者だ。
「そりゃ、たいして興味もなくこの研究室に来た人もいるわけだし。ほら、うちは卒研は必修科目だから、やりたくなくても研究しないといけないでしょ。でもせっかくここに入ったんだから、そういう人にも、少しでも自分がやっていることを知ってもらいたいじゃない」
「優秀な人は言うことが違う」
「持ち上げたってなにも出ませんよ」
私たちは揃って研究室へと戻る。長身でスタイルのいい佐恵子は、美岬に負けず劣らずおしゃれである。
「なにか付いている?」私の視線が自分の体に向いているのに気づいて、彼女は自分の服を確認する。
「いや。私ももっと服装に気を使った方がいいのかなと思って。昨日、友達に言われてさ」
「ああ」彼女は視線を私に戻す。佐恵子はまっすぐにこちらを見るから、私はいつもどきりとしてしまう。
「ごはん食べに行ったんだっけ。結局大学に戻ってこなかったけれど、どうしたの?」
「過保護なママの門限がきつくてね」
冗談よと訂正して昨日のことを話すと、愛されているねとからかわれた。
「佐恵子は、服ってどうやって選んでいるの」
「どうと言われても。適当にお店回って、良いのがありそうだったら中に入って、気に入ったのを選んでいるとしか」
「結局はセンスの問題か」私に致命的に欠けているものだ。
「いいもんね。私のセンスはこっちに注ぐし」研究室に着くと、ハンガーにかかっている白衣を手に取って抱きしめてみせる。
「そんなこと言って。というか、いつも思うけど白衣きれいだよね。買い替えたの?」
「まさか。大学一年の最初の実習で買ってから一度も替えておりませぬ」
「本当に?」佐恵子は目を丸くする。「まるで新品なんですけど」
もちろん、それは私がこまめに洗濯しているからである。
うちはまだ使う薬品が限られているからそこまで汚い人はいないが、よその学科で染みだらけの白衣を着ている人を見ると、寒気が走る。
「実験道具は清潔に。コンタミ防止の鉄則よ」
「恐れ入ります」
私は自分の席に着くと、今日の研究を開始する。そばで大腸菌の様子を見ていた四年生たちが、余計なものまで発生していると喚いている。泣きつく彼らに佐恵子が、ちゃんと
「服の話だけどさ」コンビニでコーヒーを買いに行こうと白衣を脱いでいると、ふいに佐恵子が言った。あれから後輩たちについて実験を手伝っていたため、彼女が自分の研究をやり始めたのはつい先ほどのことであった。
「服?」
「うん。よかったら私が選んであげようか」
「まじ?」
「まじ。聡美、結構顔立ち整っているから服替えるだけでモテモテになっちゃうかもよ」
「今更期待していません。でも選んでくれるのは助かるな」
「決まりね」佐恵子は手を叩く。「今週はお互い体験自習の手伝いがあるから、次の週末とかどう」
次の週末と聞いて、ため息を吐いた。
「ごめん。その日は大事な用事があるの」私は両手を合わせる。
「友達の誕生日が日曜で、土曜にプレゼント買わないといけないから」
「いいよいいよ。そっちを優先して。ちなみに、どこで買うの?」
「昔から気に入っている雑貨屋さんがあって」私はスマホを取り出し、その店のホームページを検索する。
「ちょっと電車乗り継がなきゃいけないんだけど」
佐恵子は私が見せた画面を、じっと見つめる。スマホにはしっかりとストラップが付いていて、私の親指に引っかかっている。
「良かった。ちゃんとセンスの良さそうなお店だね」
「ダサいやつはダサいなりに精いっぱい考えるものよ」
スマホをしまい、コートと手袋を身に付ける。自転車で行くか少し迷って、結局、鍵を手に取った。
「あ、ついでにチョコ買ってきてよ」そう言って佐恵子が二百円を渡す。
「狙っていたな」
「釣りはいらねぇぜ」
そう言うと、彼女は星が飛んできそうなキュートなウインクする。それを雑に払うと、ひどーいと肩をすくめた。
外はもう薄暗かった。お天道様が隠れると、一層空気が冷たくなる。
大学の駐輪場は、あちこちに空きがあった。用のないものはもう帰っている時間。さんざん佐恵子に迷惑をかけた後輩たちも、自分の失敗が解決すると手伝いもせずさっさと帰ってしまった。これは明日きつく言っておかないとなと思いながら、自転車の鍵を取り出そうとする。
そこでまた、私は動揺した。
鍵がなくなっていた。
駐輪場までの道を戻ってみるも、結局見つからず、私は途方に暮れた。
リュックから手に取ったのは確かだ。研究室のドアを閉めたときも、確かに持っていた。
そこから先は、無意識で覚えていない。
仕方なくコンビニへの道とは違う、この辺で唯一の自転車屋に向かうことにした。回らない後輪を持ち上げながらだったので、進みにくいことこの上なかった。
やっとこさたどりついて、鍵の解錠をお願いする。店員さんが愛想よく引き受けてくれたので、ひとまず安心する。
ストラップと、自転車の鍵。立て続けに二回だ。自分の不注意さに、私は心底呆れていた。
コンビニへ行くだけだったのに、戻ってきたのは結局一時間近く経ったあとだった。
「ただいま」研究室に戻ると、誰もいなかった。私にチョコを頼んだはずの佐恵子の姿がない。
荷物はあったので、花でも摘みに行っているのだろう。待っていようとも思ったが、鍵の紛失ですっかりやる気が萎えてしまったので、私は先に帰ることにした。
チョコを彼女のカバンの上に置き、私は身支度をした。先に帰るねと置手紙を書いて、帰路に就く。
錆と傷だらけの自転車の、新品の鍵を見て、私はため息を吐いた。
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