ものは大切に

大鳥風月

第1話

 キーボードを打つ手が止まり、私は眼鏡を押し上げた。一人しかいないこの閉鎖された空間で私が動きを止めると、冷蔵庫やインキュベーターと言った研究機器が発する無機質な音だけになる。卒業研究にいそしむ四年生たちの大腸菌は、丸いシャーレの中でちゃんとその数を増やしているのだろうか。

 しばし脇に置いてある実験データを眺めたあと、ようやくうまい言い回しが思い浮かび、私は再びキーボードを打つ。一区切りついてスライドを保存すると、白衣の中のスマホがぶるると身震いした。

淀川よどがわ聡美さとみさん。時間見ています?」

画面に浮かび上がるメッセージ。その上にある時刻は、午後五時三十分を告げていた。

「しまった!」

メッセージの送り主との待ち合わせの時間は五時ちょうど。すでに大遅刻だった。

 私は慌ててノートパソコンをしまい、隣の部屋の後輩たちに挨拶をして、待ち合わせのカフェに向かった。




「熱心なのはいいけれど、ほかのことを忘れるのはいただけないな」

 カフェに着くなりへこへこと謝る私に、友人の美岬みさきにこつんと頭を叩かれる。

「ごめん。明日のゼミの資料作りに没頭してしまって」

「ま、最初から時間通りなんて期待していなかったけれどね。付き合いの長い友人に感謝しなさい」

「本当、頭が上がりません。美岬が相手だと気兼ねなく遅刻ができるから、ありがたい」

「さては直す気ないな、その悪癖」

 私たちはスパゲッティのセットを頼んだ。良く味の染みたひき肉とソースを絡めてフォークに巻く。私が好物を、ボロネーゼなんておしゃれな名前で呼ぶようになったのは最近のことだ。口に運ぶときに、ひき肉がいくつか皿に落ちた。

「研究、忙しいの?」もぐもぐと動かす口元を隠しながら、美岬が聞く。

「まあね。夜中に帰ることなんてしょっちゅう」

「理系の大学院となると大変ね。今、何やっているんだっけ」

「近縁種間における鳥類の形態変化を決める遺伝子の特定」

「同じ日本人とは思えないね。何語、それ」

 美岬は首を傾げる。とはいえちゃんと説明すれば、彼女はすぐに理解するだろう。高校で学年主席に座り続けた実力は、決して衰えてはいないはずだ。

「充実しているようで何より。でも気を付けなよ。この辺、通り魔事件が続いているでしょ」

 ここ数か月、無作為に通行人を切りつけるという事件が発生している。今日までに四件。犯人はいまだ確保されておらず、百七十センチくらいの身長で、黒いフード付きのジャンパーを身に着けているということくらいの情報しかない。近隣の小学校は集団下校や保護者同伴での登下校を余儀なくされ、私の大学でも注意を促す連絡が来ている。

「こんなときに、夜中に女一人で歩くなんて良くないよ」美岬は人差し指を立てて言う。

「犯人だって相手を選ぶでしょ。可愛くておしゃれな美岬ならわかるけれど、どっちも持ち合わせていない私じゃあね」

「私だってどっちも持っていないよ。でも」美岬はきれいに巻いたジェノベーゼを口に含むと、しげしげと私の体を見る。

「おしゃれに関して言えば、聡美、いい加減服を買ったら。ここ数年、毎年同じ格好を見ている気がするんだけど」

「おお」毎年の恰好を覚えているのかと、相変わらずの記憶力に驚いていると、美岬はむっとしてこちらを睨む。

「最後に買ったの、いつ?」

「大学に入ったころかな。もう制服じゃなくなるからこのタイミングでって感じで」

「五年は同じ服を着まわしているのね」

「でもまだ着られるよ。よれよれにはなっているけど」

「聡美は無駄に物持ち良いからね」

 一度ものを持つと、壊れない限りは同じものを使い続ける。服以外なら、スマホは五年。それについているストラップは三年使い続けている。消しゴムは一度もなくしたことがないし、最も愛着のある手袋は、ほつれるたびに自分で縫っていた。

「スマホって、そんなに使えるものなのね。私の友達なんて、買って数週間で画面がばきばきになっていたよ」

「落とすように扱うからだよ。ストラップつけて手首とか指とかに引っかけとけば落とさないのに」私は自分のスマホを取り出して、ストラップのわっかに親指を通して見せる。

「落とす落とさない以前に、機能的な問題が起きそうな気もするけれど」

「確かに、ちょっと画面の感度が悪くはなっているね。でも苦ではない」

 アラームを止めるために何度もストップボタンを叩くのは、毎朝の恒例だ。慣れればどうってことはない。むしろ一度で止まらないから目が覚めやすいだろう。こんなことを言うと、屁理屈だと言われそうだけれど。

 周りを見ると、頻繁に新しいものに取り換える人が多い。私はそれを見るたび、今まで使っていたものはどうしたのだろうと思う。私は壊れない限りは使い続けるつもりだし、使い続けようと思うから、壊れないように大切に使う。それはポリシーのような格好良いものではなく、二十三年の人生の中で身に付いてしまった人格だった。

 一つのものを作るのに、どれだけの材料が、時間が、労力がいるのか。それをいちいち考えてしまう私は、消しゴムの一つだって最後まで使い切ろうと思ってしまう。そう思うと、何でもない物一つにも愛着が湧いてしまうものであった。


会計を済まして外に出る。私は十年使い続けている自転車の鍵を解き、駐輪場から引っ張り出す。手で押しながら、美岬と一緒に駅まで行く。

「さて、大学戻るかな」無事、駅まで送り終えると、私はぐっと伸びをした。時計を見ると、もうすぐ八時を差そうというところだった。

「え。まだなんかやるの?」美岬は定期を持ったまま、思いっきり顔をしかめる。

「明日のために資料まとめをしたいんだよ。家だと誘惑が多いから集中できない」

「また夜中に帰ることになるじゃないの。聡美、仮にも女なんだから危ないよ」

「大丈夫だよ。そのために近くにアパート借りているんだから」

 決して自宅から通えない範囲ではないが、研究室に配属になったときから院に進むことを考えていた私は、研究が夜中までかかることを見越して大学近くのアパートに引っ越した。帰路が短い分危険は少ないし、終電を気にする必要がなくなる。

「その考えに納得は出来ないんだけれど」それを説明すると、美岬は呆れてため息を吐いた。

「大丈夫、大丈夫」

 私は自転車の向きを変えてサドルにまたがる。

「じゃあ大学付いたら“無事帰着しました”って連絡するよ。それで安心して」

「私はあんたのかーさんか」

「美岬がお母さんか、悪くない。これから青山聡美って名乗ろうかな」

「門限は七時。毎日塾と通信教育漬けにするよ」

「超過保護アンド教育ママだった」

 ちゃんと連絡するのよーと母親っぽい声を背中に受け、私はペダルをこぎだした。大学までは近道があるが、青山ママの顔を思い出して、人気の多い大通りに沿って行く。学生街であるため、まだあと数時間は活気がある。

 校門に着くと、大学入学の時に買ったリュックからスマホを取り出す。子供っぽい文言を考えながら折り畳み式のカバーを開くと、私はあることに気づいた。

 ストラップがない。

 中で取れてしまったのかと、リュックをまさぐる。しかしそれらしいものは入っていなかった。

 なくしてしまったのか。

 いや、もしかしたらカフェに落としたのかもしれない。そう思って急いで戻るが、座席にはなく、店員さんに聞いても見当たらなかったと言われた。

「そうですか。ありがとうございます」

「見つかりましたら連絡しますので」

「お願いします」

 電話番号と苗字を告げ、店を出る。自転車のハンドルを握って、がっくりと項垂れた。

 ショックだった。長いこと使っていたものがなくなると、心の一部まで欠落したみたいで、私が、私でなくなるような気になった。

 スマホを取り出す。本体とカバーだけの不完全な姿が、私の手に重くのしかかる。

 何度目かのため息を吐くと、ふいにスマホが震えだした。ブラックアウトしていた画面に、先ほど別れた友人の名前が浮かび上がる。

「どうしたの」

「ああよかった。聡美、ストラップなくしてない?」

 ストラップ。その単語を聞いて、私は声を荒げる。

「うん! どうして⁉」

「電車降りてから気付いたんだけど、なぜか私のバッグの中に入っていたのよね」

「本当?」

「うん。あ、なんか状況的に嫌な結論に至りそうだから言っておくけれど、私、盗っていないからね」

「盗っていようがいまいがどっちでもいいよ。見つかってよかった。なくなったと思って、今沈んでいたところだったのよ」

 今度は安堵のため息を吐いた。

「ありがとう。今度取りに行くよ」

「それなんだけどさ、聡美、今からこっち来なよ。と言うか、今日泊まっていってよ。やっぱり夜中に一人でいさせるのは心配」

「え、でも明日のゼミが」

「パソコンなら貸すし、どうせ資料もバックアップ取って携帯しているんでしょ。嫌だよ。昨日会ったばかりの友人が、被害者になってニュースになるのは」

 いいから来なさい。

そう告げると、一方的に電話を切った。静かになったスマホが、また物足りない姿を見せる。

「過保護め」

 私は自転車にまたがると、いったんそれを置きに、アパートまで戻った。一人じゃない夜を過ごすのは、久しぶりのことだった。

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