第28話

 それから随分と日が経ち、一向に良くならない天気の中を過ごした。晴天が異世界に奪われたみたいに、ずっと現実世界では雨が降り続けている。

 瑠璃の体調は悪化していき、日に日にやせ衰えていく一方だった。体力も失い、今では布団で寝付いている時間の方が多いくらいだ。

 その間、俺は瑠璃から家事のやり方を手取り足取り教えてもらいながらこなしていた。炊事、洗濯、掃除。どれも俺がやってこなかった部分だ。


 下手くそな料理を作っては、しかめた顔をして「美味しいよ」なんて瑠璃は言ってくれた。明らかに無理をしているのは丸わかりだったが、本人は誤魔化しきれているようだったから、敢えて何も言わなかった。


 部屋干ししていた洗濯物を見ては、恥ずかしそうな顔をして「下着は隠してほしいなあ」なんて瑠璃は言ってくれた。俺は構わなかったが、瑠璃の場合は別だろうと言われてから気づかされた。瑠璃も女の子なのだから、一目で視界に入る位置に干すのは不味かったな。と気遣いのなさに自分で呆れるほどだった。


 部屋に掃除機をかけていては、クスクスと綻んだ顔をして「つまっちゃったね」なんて瑠璃は言ってくれた。細かい物でも次々と吸い込み続けていたら、何かに引っかかったようで掃除機が唸りを上げたのだ。悪戦苦闘をして、ようやく原因を取り除けたかと思えば、ゴミをぶちまけてしまったり。その度に瑠璃の顔は綻んでもいた。


 こうしてやってみて、普段の瑠璃の苦労さが理解できるというものだった。何でもない風にいつも軽々とこなした瑠璃は凄い奴だと感心すらした。

 それでも、瑠璃の手助けを受けながら、俺は着実に腕を上げた。

 そうして始めは上手くいかなかった家事だが、少しづつ慣れていき、今では何とかやれている状態だ。


「もう、一人でも大丈夫だね」

「瑠璃のおかげだよ」


 夕飯を食べ終わったとき、瑠璃はそんなことを言ってくれた。

 俺自身もだいぶ、慣れてきた手ごたえを感じてはいたが、どうやら瑠璃の目から見ても安心できるようにはなっているらしい。


「ねえ……兄さん。お願いがあるんだけど、いいかな?」

「どうした?」


 食器の片づけをし始めようとしたが、先に瑠璃の方を優先してやりたくて、手を止めることにした。


「庭が見てみたいの。一緒に来てくれる?」

「庭? 外は雨も降っているし、暗いから何も見えないぞ。大人しく横になっておいた方がいいんじゃないか」

「ちょっとぐらいなら平気よ。たまには、兄さんとのんびり外を眺めたっていいじゃない。……ね? 兄さん。いいでしょ」

「まあ……瑠璃がそういうなら、いいけど」


 本音を言うと、休んでいてもらいたいのだが、数日間も寝たっきりになっているのもさすがにしんどいのだろう。たまには気分転換をさせてやるのはいいだろう。


「じゃあ、先に行ってるから、兄さんは後片付けをしてから来て」

「分かった」


 上機嫌になっている瑠璃は、おぼつかない足取りで庭の方へと歩き出した。

 皿洗いは後回しにして水に浸けるだけで、俺はさっさと瑠璃の元に行くことにした。雨も降って寒いことだし、あまり待たせるのも悪いしな。

 床に座り込み、窓越しからじっと深い夜に降り注ぐ雨を眺めている瑠璃。

 この暗闇の中で、一体瑠璃には何が見え、何を考えているのだろうか。俺には分かりそうにもなかった。

 ただ、その後ろ姿は儚く、切なげに、触れたら壊れてしまいそうなほどに弱々しく見えた。


「……風邪ひくぞ」


 念のために持ってきた毛布をそっと、瑠璃の肩越しから掛けてやった。


「ありがとう」

「気にするな」


 瑠璃の横に座り込むと、手を伸ばしてくる。冷たくて、白くて、細い腕だ。

 それを俺は体温を分け与えるように、伸ばされた手を包み込んだ。そして、俺も深い夜に降り注ぐ雨を眺めてみた。けどやっぱり、暗いだけで何も見えやしない。

 それからしばらく、二人揃って窓越しから闇の中で輪郭だけが残る庭を黙って見ていた。


「兄さん。これを受け取ってくれる」


 意を決したように、瑠璃は少し照れ気味にして白い紙束を渡してきた。


「これは……?」

「私が書いた小説。兄さんに最初の読者になってもらいたいの」


 受け取った紙束は、まるで百万円分の札束ぐらいありそうな分厚さを誇っていた。こんな例え方になってしまうのは、仕事柄札束を受け取る機会を多かったせいだろうか。

 俺は四百字詰め原稿用紙に書かれた、綺麗な手書きの文字に目を通してみた。


 小説の一ページ目には“私とあなたの異世界存亡”というタイトルが書かれていた。


 こんな物騒なタイトルの小説を書いている人物が、年端もいかない病弱な少女だとは誰も思わないだろうな。


「ファンタジー小説か」


 単に興味が湧かなくて読むことすらしなかった、フィクション物。人の空想上で作り上げた世界が舞台のお話し。読んでまともな感想が言える気がしなかった。


「そうだけど、ちょっと違うわ……それはね、私と兄さんだけが知っている。ノンフィクション物のファンタジーよ」

「どういう意味だ?」

「読めば分かるわ」


 そう言うのなら、早速読ませてもらおうか。


「読み終わったら言ってね。それまで私はここで、庭を眺めているから」

「分かった」


 ページをめくり、本文へと目を通し、次のページをめくっていく。

 俺はその内容をどこか他人事のように思えなく、既視感を覚えた。それで、ようやく瑠璃の言った意味が理解できた。

 この作品は、俺と瑠璃が体験した異世界での出来事が書かれていたのだ。それを瑠璃の視点で描かれている。

 日々、死闘を繰り広げていた俺の視点とはまた違う異世界。必死に病と戦っている少女から見た異世界がそこにあった。

 次第に俺は本文に夢中になって、読みふけっていった。

 俺が感じてこなかった、もう一つの異世界。同じ世界を旅していたはずなのに、こんなにも捉え方が違うのか。

 怨み、辛みは一切書かれておらず、ファンタジーの世界に迷い込み、見たままのことをメルヘンチックに書かれている。

 滅べだとか、殺すだとか。そんな感情しか湧いてなかった俺には、異世界は薄汚れて見えていた。だが、ことあるごとに関心を持っていた瑠璃は、異世界を綺麗な姿で見て取っていた。

 異世界人の度重なる暴力や病気に苦しめられ、必死に戦っていたはずなのに、暗い感情は持ち合わせていなかったんだと、これを読んで初めて理解した。ただ、それでも異世界人を恐怖の対象とは見ていたようで、そこだけは俺の認識と合っていた。

 俺には知らない、瑠璃の想いのすべてが文字となって書き起こされている。まるで、俺に訴えかけてきているようで、この小説にはメッセージが込められているかのように感じた。

 やがて物語はクライマックスを迎えていき、つい最近身に起こった異世界の王との対決シーンが始まる。

 だが、瑠璃の視点からは別だ。戦闘シーンなんて一切書かれていない。自分を蝕む病に耐えながら、現状を掴むことも出来ず、薄壁一枚隔てた向こう側で戦っている青年への心配や不安が長々と書かれていた。

 激しい魔法の戦闘音を黙って聞かされ、心配で不安になって瓦礫の山を頑張って乗り越えようとしている瑠璃が描かれている。

 戦いが終わって、瓦礫の上で滑って怪我をして、足を引きずりながら駆けて来た瑠璃のことを思い出す。

 あのとき、こんなにも心細い思いをしてたのだなんて、俺には気づけるわけがなかった。

 目的や過程すらも一緒だったのに、ここまで大きく変わる物なのか。

 知らなかった。瑠璃がこんな気持ちを抱えていたなんて。


「もう、そろそろ読み終わったころかしら?」


 瑠璃の一声で現実に戻される。結構、時間が経ってしまっていたようで、瑠璃の声にも覇気がなくなっている。


「あともう少しで読み終わるよ」

「……そう。最後なのに……私ったら、もう、耐える気力も……残されていないのね」

「おい、瑠璃! しっかりしろ」


 瞳がゆっくりと閉じていき、瑠璃のやつれた身体を無我夢中になってゆすった。


「兄さんに……私の気持ち……届いているかな……?」

「ああ、全部届いているよ」

「……良かった。初めて書いたから、ちゃんと伝えられているか……自信なかったの」

「上手く書けてるよ。プロと比べても大差ないぐらいだ」

「もう……褒め過ぎよ」


 瑠璃が笑ってくれた。嬉しいのだろうか。だったら、もっと、もっと褒めてやりたい。その笑顔を絶えさせたくない。


「このまま出版したら、プロになれそうだ」

「……ダメよ。それは、兄さんのために書いた小説なんだから、兄さん以外には……読ませるつもりはないのよ」


 そうなんだろうとは薄々気づいていた。だからこそ、こんな実話を使ったのだろう。


「兄さんは家事を一人でこなせるようにもなったし……兄さんに想いも伝えられたし……これで心残りは、もうないわ」

「心残りがないなんて嘘だろ。もっと、ほかにやりたいこととかあるだろ」

「……ふふ、そうね。強いて言うなら、兄さんが小説を読み終わらすまで……付き合いきれなかったこと……かな? 初めてだから、感想も聞いてみたかったし――!」

「瑠璃……っ!」


 語尾で咳き込んだ瑠璃に呼びかける。

 なぜだ? なぜなんだ? あともうちょっとで読み終わるのに、それすらも待ってくれないのか。なぜ、そこまで神は瑠璃を見捨てようとするのだ。もう少しぐらい……待ってくれたっていいじゃないか。


「兄さん……こんな私を……今まで支えてくれて……本当にありがとう」

「待て……瑠璃。あともうちょっとだけ、頑張ってくれないか!」


 目を閉じた瑠璃にもう一度だけ、開いてほしくて俺は必至になって呼びかけ、揺さぶった。

 けれど――。


「………に……い…………さ………………ん」


 努力は実らず、瑠璃はゆっくりと息を引き取った。

 こうなることは、柩に言われた時から覚悟はしていた。だが、実際にそのときが来てしまうと辛かった。


 もう喋らない瑠璃。もう動かない瑠璃。もう呼びかけてくれることすらなくなった瑠璃。


 瑠璃が最後に見せてくれた微笑みが、まるで美しい絵画のように、俺の脳内に焼き付いている。


 俺は――最愛の妹をこの日、土砂降りの雨の中で亡くした。


「……」


 何も言葉が出てくることなく、俺は手に残っていた瑠璃の小説をふと思い出した。

 まだ、読み切っていない。読まなければ。

 最後の一ページをめくり、最後の一行まで目を通す。


『最初で最後の私と兄さんの二人旅。私にとっての大切な思い出をありがとう。

 最後まで一緒にいてくれて、ありがとう』

 

 この一連の騒動は自宅の庭から始まり、そしてここで終わった。

 その最後を瑠璃は優しい言葉で締めくくってくれていた。

 俺は優しい一文だけを何度も何度も読み直していくうち、何故だか無性に虚しくなった。

 そう感じたときには、無意識のうちに冷たく細い瑠璃の身体に温もりを求め、強く、強く抱きしめていた。

 雨は、まだしばらく――止みそうもなかった。


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私とあなたの異世界存亡 メープル @0maple

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