第27話

 雨だった。

 最初に意識した存在がそれだ。湿る肌。冷たく、大粒の雨が意識を引き戻す。

 ここはどこなのかと、周囲に目を配ってみると、覚えのある場所に俺たちはいた。あのときと寸分違わない場所。自宅の庭で雨ざらしとなって、俺は瑠璃の手を繋いで立っていた。


「戻って……来たみたいね」

「ああ、そうだな」


 長い、長い夢から覚めたような感覚。途方にも暮れるような体験をしていたせいで、いまいち現実感が掴めないでいる。

 呆然として、何をするでもなく、ただ現実に降り注ぐ雨の下に晒され続けていた。

 ああ……またか。今日も空が啼いている。

 耳にうるさく飛び込んでくる雨音の中、手を繋いでいた瑠璃が急に咳き込み、それを切っ掛けに俺はようやく我に返った。


「お、おい……瑠璃。大丈夫か」

「うん……だい、じょう……ぶ」


 力が抜け、だらしなく膝を付く瑠璃。どうみても大丈夫なわけがなかった。身体に触れてみれば、異世界にいた頃よりも格段に熱が上がっていることが瞬時に分かった。

 とにもかくにも、俺は急いで室内に瑠璃を入れ、身体を拭いて、着替えさせてから何重にも重ねた布団の中に寝かしつけ、主治医である闇医者のひつぎに連絡を入れた。

 しばらく音信不通になっていたせいか、柩は心配げな声を出していたが、一蹴して速く来いとだけ伝えた。

 瑠璃はひどく咳込み、何かしてやれないかと思案に耽っていた時、机の上に置いてあった薬が目に付いた。気休めにしかならないが、飲ませておくべきか。

 急いで水と薬を用意して、瑠璃に飲ませていたところ、玄関が激しく叩かれた。喧嘩でも売りに来ているのかというぐらいに叩きつけてくる。自分で呼んでおいて、舌打ちしたくなる気分だった。

 玄関を開けてやると、黒いコートを羽織り、無精ひげを生やして、黒いカバンを持った男が顔を出す。相変わらず胡散臭さが滲み出ている奴だ。


「急ぎなんだ。ノックなんかせずに入ってこい」

「鍵を閉めときながら無茶いうなよ」


 そこまで頭が回らなかった。


「悪かった。……そんなことよりも、とりあえず瑠璃を診てやってくれ」


 急かすように柩を家に入れ、苦しみ、もがいている瑠璃の元に案内した。


「おいおい……なんでこんなことになってんだ? 薬は手配しておいただろ。ちゃんと飲まなかったのか?」

「……訳あって飲めなかったんだ」

「……? なんだそりゃ。薬が飲めないってどういうことだ」


 どう説明をしたらいいのか。異世界に行っていたなんて馬鹿げた話しを披露したって、余計にややこしくなるだろうし、適当に誤魔化すしかないか。


「色々あってな」

「それじゃ、さっぱり分からん」

「……それよりも、瑠璃の様子はどうなんだ」


 結局上手い言い方も見つからず、多少強引に話しを変えることにした。それに、瑠璃がどういった状態になっているのかも気になっていたところだ。


「どうもこうも、これはもう手が付けらないぞ。一体、何日こんな状態で放っていたんだ?」

「2、3日ぐらいだろうか」

「はぁ? しばらく姿を見ないと思っていたが、ほんっとお前ら今まで何していたんだ?」

「旅行……のようなものだ」

「薬も持たずにか?」

「日帰りのつもりだったんだが、旅先でトラブルが起きてすぐに戻ってこれなかったんだ」


 苦し紛れの言い訳だったが、瑠璃の体中につけられている傷跡を見て、納得はしてくれたみたいだった。


「……ったく。どんなハードな体験をしてきたんだよ。お前ら兄妹は」

「語って聞かせれるようなことは何もない」

「気にはなるが、まあ聞かないでおくか。殺し屋の事情なんて、どうせロクでもないことだろうしな」

 

 色々な質の悪い客を相手にしてきているだけあって、出来る限り自分から深く関わろうとしてこない奴だった。それが反って都合がよくもあった。

 柩は瑠璃の容態だけでなく、傷跡の治療の方に取り掛かってくれる。


「お前も怪我してるところを見せてみろ。もののついでだ、一緒に手当してやるよ」

「悪いな」

「言っとくが、こっちも生活が懸かってるからな。金は取るぞ」

「いくらでも出すよ」

「さっすが、金持ちは言うことは違うねえ」


 そんな金持ちからボったくるお前は何様だ。と返そうかと思ったが止めておいた。下心もなしで柩が手当てなんざしてくれるわけがないしな。法外な金は取られるが、任せるとするか。


「あー、それとだな。一応、薬の方も出しておいてやるが、期待はするなよ。たぶん、瑠璃ちゃんはそう長くは持たないぞ」

「そう……なのか?」

「今すぐに死ぬって訳じゃないが、いつ死んでもおかしくはないってことだけは、頭に入れておけ」


 素人目線でも瑠璃の容態が悪化していることぐらいは分かっていたが、まさかそこまで進行してしまっているとは。それなりのことを言われるのではないかと思っていたが、実際に言われてしまうとさすがにショックは隠せないな。

 神はいつだって、残酷な事実ばかり突き付けてくる。 


「さて、用事も済んだし、俺は帰らせてもらうぜ。代金はいつでもいいから、うちまで持ってこい」

「分かった。ありがとな、助かった」

「礼なんか要らんよ。医者が患者を救うのは当たり前だろ」

「闇医者のくせに何言ってるんだ」

「闇がついていようがなかろうが、医者に変わりないだろ」


 そういうものなのか。何か違うような気もするが、まあいいか。医者の定義なんて俺には分からん。


「そうだ、聞きたいことがあるんだが」

「……ん?」


 靴を履きながら、聞いているのか聞いていないのか、曖昧な返事をする柩に気になっているいくつかの質問をぶつけることにした。


「俺たちがいなかった間に変わったことはあったか?」

「んー……そうだな。そういや、溝杭の奴もここ数日の間、姿を見せなくなっていたな」


 俺たちと同じく異世界に飛ばされた溝杭。そこで俺はあいつを殺した。もう二度と帰ってはこない。その事実を知っているのは俺たちだけだ。

 説明しておくべきだろうか。迷ったが、結局黙っておくことにした。瑠璃の状態が落ち着いてくるまでは、胸の内に秘めておこう。


「他にはなかったか?」

「他っつーと。お前ら朽月と溝杭が二人揃って忽然と消えてしまったせいで、この辺りの治安が悪くなってきているぐらいか」

「そんなに悪くなってきているのか?」


 しばらくの間、瑠璃の養生のためにも出来れば静かにしておいてもらいたいのだが。


「まだ荒れ始めたばっかりってところだな。たぶん、このままいけば数十年前にあった、朽月の二代目が失踪した当時のような状態になるかもしれないな。あの惨劇だけは勘弁してほしいもんだけどな」


 直に当時を体験している柩は、嫌そうな顔をしていた。話しで聞くのと体験するのは、やはり別なのだろう。


「相当ひどいもんだったらしいな」

「ああ、出来ればお前には現場復帰してもらって、暴れ出した連中を大人しくさせてほしんだけどな、まあ無理な相談だよな」

「瑠璃があの状態になっているから、俺はしばらく側に付いておくつもりだ」

「あいよ。医者としても、そう進言したかったところだし構わないぜ」


 柩は玄関を開き、傘を差して外に出て振り返った。


「残り少ない命だ、お前がちゃんと面倒みてやれよ。……最後までな」


 嫌なことを一つ言って、雨の中を帰っていった。

 だが、その通りなのだろう。瑠璃はもう長くない。

 延々と降り続ける雨は、今日も土砂降りだった。憂鬱な気持ちは晴れそうもなかった。

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