第3話

その夜、俺は久しぶりに夢を見た。真っ暗闇の中で佇む露木が、色とりどりの千羽鶴を胸いっぱいに抱えている。露木の周りだけが、ぼんやりと発光したように明るく、俺はその光に吸い寄せられるようにして彼の方に歩み寄った。

「なんだよ、そんなものを大切そうに抱えたりなんかして、馬鹿馬鹿しいと思わないのか」

「そんなものなんて言うなよ。皆が作ってわざわざ持ってきてくれた宝物さ。氷室だって、俺のためを思って、この鶴を折ってくれたんじゃないのか」

 露木は夥しい数の鶴の中から、緑色の一片を取り出し、指先で摘んで見せた。不恰好なそれは、クラスメイトに促された俺が、内心冷笑しながら完成させた折り鶴だった。露木の指が、まるで愛おしむように鶴の羽を撫でる。俺は頬がかっと熱くなった。その鶴には、何の思いやりもこもっていやしない。ただ、作れと言われたから作っただけの、くだらない紙細工だ。俺は苛立ちに任せて、露木の身体を力一杯突き飛ばす。夢の中だからなのか、露木は抵抗もせずにあっけなく地面へと倒れこみ、その胸に抱えられていた千羽鶴が空中へと投げ出される。その瞬間、色とりどりの鶴たちが、激しい羽音を立てて羽ばたいた。

「やめろ、やめろよ!」

 手のひらほどの大きさの折り紙の鶴が、一斉にこちらに向かって勢いよく飛んでくる。頬や首筋、耳にぶつかり、俺が掌で払いのけるたびに鶴は次々と呆気なく落下した。百羽近いそれを全て撃ち落とした頃には、息がすっかりあがってしまっていた。

 落下した鶴に目をやると、いつの間にか鶴は折り紙で作られた色とりどりのカードに形を変えていた。ぞわ、と全身に鳥肌が立つ。震える指先で赤色の一枚を拾い上げると、そこには歪で大きな文字で、こう記されていた。

「おとうさんとおかあさんがいなくなって、さびしいとおもいます はやくげんきになってね」

 俺は悲鳴をあげて、赤色のカードを地面へと放り投げた。緑色や青色、ピンク色の折り紙で作られた数十枚のカード。俺はそれを思い出したくもないし、見たくもなかった。

 両親が死んだ後、俺は忌引きで1週間ほど学校を休んでいた。俺が学校に通わない間に、当時の担任だった若い女教師は随分と俺の扱いについて悩み、また、早くに両親を亡くした俺のために涙を流したりしてくれていたらしい。後で聞いた話では、女教師もまた、自分の母親を癌で亡くしたばかりだったそうだ。最愛の母を亡くし、すっかり憔悴していた彼女は、自分自身で抱えておくべき悲しみを勝手に俺の上に投影し、過剰なまでに俺に同情した。幼くして親を亡くすということがどれだけ悲しいことか、俺がどんなにかわいそうな子かをクラスメイトに繰り返し説いた挙句、久しぶりに登校した俺に、クラスメイト全員に書かせたメッセージカードの束を手渡してきたのだ。

 両親を亡くした俺にとって本当に必要だったのは、何も変わらぬ楽しく明るい学校生活だった。以前のように無邪気に友人たちと遊び、学べればそれで良かった。しかし、久しぶりに登校した俺を待っていたのは、目に涙をいっぱいに溜めた女教師と、腫れ物に触るような扱いをしてくるクラスメイトたちだった。

 俺は、両親を亡くしたかわいそうな子という枠に入れられ、何をするにつけても、その枠が付いて回った。枠を飛び越えてもう一度友人を作るだけの元気は俺にはなかった。両親を亡くし、住み慣れた家を離れて叔母の家に移り住み、当時の俺はまだ小学校低学年のほんの子供で、何もかもにすっかり疲れ切ってしまっていたのだ。俺は努力することよりも、諦めることを選んだ。

 色とりどりのメッセージカードには、どれも同じような言葉が書いてあった。かわいそう、はやくげんきになってね。こんなカードなんて、俺はちっとも欲しくなかった。ただいつも通り、笑って迎えてくれれば、それで良かったのに。



 露木が家に居候をするようになり、彼との奇妙な共同生活が始まった。家に帰ってただいまを言うと、露木がおかえり、と迎えてくれる。俺がいない日中はひたすら本棚に置かれた本を読んでいるらしく、数日もすれば、俺の好みの作家の話ができるようになった。太宰治や司馬遼太郎は、兄がかつて読み、今は俺の本棚に入っているお気に入りの本だった。叔母の家に引き取られた頃から、兄は難しい顔をして色々な本を読むようになっていた。両親を亡くし、唯一の肉親である俺はまだ幼く、おそらく彼の中に抱えた問いや悩みの答えを、兄は本の中に探していたのだろうと思う。俺が高校生になった今なら、兄の話し相手をしてやれるのに、と時折考えることがある。


「中学の時さ、氷室は図書委員だっただろう?」

 ある日露木にそんなことを言われて、俺は思わず数学の問題集を解く手を止めた。俺が学校でどんな役職に就き、何をしているのか、そんなことに興味を持っている同級生がいるなんて、思いもしなかったからだ。

 あの頃の俺が図書委員会に所属していたのは、長い休み時間に図書室で静かに本の整理をしていられるという理由からだった。友人のいない状況を寂しいとも思わなかったが、誰とも話すことのない日々は時間の流れが遅く、ひどく退屈だった。返却された本の番号を確認して元の書棚に戻し、図書室内に溜まった埃を箒で掃除したりする仕事は地味で、俺の他には誰にもやりたがらなかった。一人で時間を潰すにはもってこいで、俺はむしろ進んでそれらの仕事を引き受けたのだった。

「なんで覚えてるんだよ、そんなこと」

 照れ隠しに、やや乱暴な口調でそう問いかけると、露木は困ったような顔で笑い、軽く首を傾げて見せた。

「氷室は僕のことなんて知らなかったと思うけれど、僕は随分前から君のことを知っていたんだぜ」

 読んでいた本が、ぱたりと音を立てて閉じられる。彼は部屋にいる時は大抵、床に敷かれたラグの上に座ったり寝そべったりしながら、熱心に本を読んでいた。しかも読み進めるスピードが異様に速く、俺は本棚の本が読み尽くされてしまうのではないかと内心冷や冷やしていた。同年代の奴らと比べれば、俺はそれなりに本を読んでいる方だと思っていたが、このままでは読書量で露木に負けてしまうかもしれない。

「図書室に本を借りに行くたびに、氷室が貸し出し処理をしてくれていたんだけどなぁ」

「一日に何十人も貸し出し希望者が来るから…悪いけど、俺は当時のお前のことは覚えていないよ。声でも掛けてくれたら良かったのに」

 話し相手が誰もいない俺は、常に退屈していた。そのくせに、かわいそうな子という枠を乗り越えて、自分から誰かに話しかけてみることは出来ずにいた。そんな風にひどく臆病なくせに、誰かが話しかけてくれないかな、などという甘えた気持ちは捨てきれずにいたのだ。

「見ているだけで十分だったのさ。氷室が元気そうだと、僕も嬉しかった」

「なんだよ、それ…ちょっと気味が悪いぜ」

 コミュニケーションもとらず、一方的に観察されていたということだろうか。かわいそうな奴、という認識はなかったにせよ、気分が良いとは言い難い。

「氷室に声をかけて、友人になる勇気がなかったのさ。僕は小さい頃から病気がちで、学校にまともに通えなかったからね。仲良くなっても、またすぐに入院暮らしで、そんなことをしているうちに、相手は僕のことなんて忘れてしまう。また会おうね、なんて言ったって、その約束を守れるのか、僕には全くわからなかったんだ」

 考え事をする時の癖で、露木は赤い色の唇をぎゅっと噛み締めた。

「高校生になるまで生きられるなんて、小さい頃は思ってもみなかった。10歳になるまでに死ぬものだとばかり思っていたんだよ。僕は、死んだ後に遺された家族がどんなに悲しむのか、ずっと心配だった。まだ成人もしていない僕を亡くして、父や母がひどく嘆き悲しむんじゃないかと…」

 露木のくっきりとした焦げ茶色の瞳がうつむきがちになり、睫毛がきらりと光った。

「だから、両親を亡くした氷室が、元気に過ごしているのを見るのが、僕は嬉しかったのさ。いつか僕を亡くしても、きっと父や母も氷室と同じように立ち直ってくれるはずだって、君の姿を眺めながら僕はそんなことを考えていたんだ。友人になれれば良いと思ったけれど、勇気がなくて…だから、病室に君が来てくれた時、僕は本当に嬉しかったのさ」

 病室を訪れた時の、露木の様子を思い出す。部屋に入った瞬間、驚いたように目を見開き、俺が名乗る前に名前を読んでくれた露木。帰ろうとした時も、服の裾を掴んで引き止めようとし、それが叶わないと知って、また来てくれ、と指切りで俺たちは約束をした。死期を悟っていたのかもしれない、彼との最後の約束だった。

「大切な家族を亡くしても、必ずいつかは立ち直る。少なくとも俺はそうだったよ。時間が憂いを少しずつ洗い流してくれるんだ。全て元どおりというわけにはいかないし痛みは忘れられないけれど、その後も人生は続くんだから」

 かわいそうな子として距離を置かれ、腫れ物に触れるように扱われたのは、俺にとって辛い体験だった。しかし、露木は違った。両親を亡くし、遺された家族である俺の幸せを願い、密かに友人になりたいと彼は思っていたのだ。そんな奴がいたということが、俺の冷え切った、寂しい心に火をつけた。

「今からでも遅くないだろ。友人になれるんじゃないか、俺たちは」

 我ながら恥ずかしい台詞だったと思う。口に出したそばから俺は後悔の念に襲われたのだが、露木の血の気のない顔が明るく輝くのを見て、ほっと安心したのだった。笑われでもしたら、しばらく立ち直れなかったかもしれない。


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桜散る坂道で 藍田 墨 @aidasumi

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