ポッキーの日

斜 てんびん

ポッキーの日

「ううっ、寒いなぁ……炬燵、潜り込みたい」


 ぶるり、彼女は一人、体を震わせる。

 古びたアパートの一室。

 焦げ茶色の髪をふわふわと棚引かせながら、朝羽あさばはぐつぐつと煮え立っている鍋に蓋をして、ガスの火を止めた。

 エプロン帯のちょうちょ結びを解きながら、炊飯器が定時に炊き上がるかを確認。

 ズボンのポケットから、スマホを取り出して時間を見る。


「うーん、まだ迎えの時間にはちょっと早いかな」


 夕飯の準備を終えた朝羽。——あとは彼の帰りを待つばかりだ。

 ふと、スマホに表示されている日付に目が留まった。


「11月11日……ポッキーの、日?」


 何かを思いついた彼女は、いたずらをする子供のように、その顔をにへら~とにやけさせた。


***


 ——お財布の中に入っている免許書よし!!


 今日はちょっとばかり早く、彼を迎えに。

 首に茶色のマフラーを巻いて、厚手のコートを羽織る。ぎいと軋むドアを開けて、めちゃくちゃに滑りやすい階段を気を付けつつ、華麗に降りるのだ。


 朝羽は、アパートの裏手に止めてある自家用車に乗って、暮れなずむ景色の中を走っていく。

 学校帰りの生徒や、夕飯のおかずを買いに来た主婦に、通勤帰りのサラリーマン。

 人々でごった返す商店街を抜けて、坂を上る。

 見えてくるのは、すっかり葉が落ちた桜の並木道と、その向こうにある懐かしい学び舎。


 そういえば、彼と会ったのは高校の時だったなぁと、懐かしくって。

 朝羽は車から見る、流れていく景色が好きだ。

 でも偶には、彼とゆっくり歩きながら、思い出を共有する。そんな景色の楽しみ方をしたいな、と思う。


 ——そうだ、今度の休日は、車を使わず歩いてどこかに出かけよう!!


 そんなことを思いながら、母校を過ぎて。

 坂のてっぺんから、湖の方へ下っていく。

 湖側は、都市化の波が来ているらしく、ここ最近で高い建物が随分と増えた。

 見慣れた景色が変わってしまうのは、ちょっぴり悲しいと、朝羽は感じる。

 建物群を割るように真っすぐ、真っすぐ、道なりに。


 マイカーをブイブイ言わせていると。ちらと横眼に、以前に自分がバイトしていた喫茶店が映る。丁度信号が赤に変わったので、店内を見てみると、ぽつりぽつりと席が埋まっていた。

 ……良かった。客足は途絶えていないようだ。


 喫茶店を過ぎれば、遊具や野球場、テニスコートといった施設がある、大きめの運動公園。

 さらに湖の方へ車を走らせれば、さあ楓明ふうめい湖前駅だ。


 そこは、愛しい彼が毎日行って、帰ってくる場所。

 改札を過ぎるまで、疲れた顔を見せていた彼が、自分の顔を見た瞬間に相好を崩す。

 その一瞬が、朝羽はたまらなく大好きなのだ。

 胸がきゅうっとなって、愛しさがこみあげてくる。大げさかもしれないけれど、生きててよかったと本気で思えてくる。


 ——今日も、いつものようにあの顔を見せてくれるだろうか。


 朝羽は駅の駐車場に車を止めて、車外へと出た。

 駐車も慣れたもので、以前は一発で上手く止めれると小躍りして喜んだものだが、今はなんとも思わない。

 当たり前ってこわいなぁと。

 こんなふうに、彼と過ごす時間も感じてしまうようになるのかなって考えると、ブルリと寒気がした。


 びゅうと湖の方から吹いてくる木枯らしが、朝羽の髪を巻き上げ、晩秋の冷えが体温を奪っていく。

 その華奢な体が、ぷるぷると小刻みに揺れて、寒さを和らげようと躍起になった。


「うぅ、寒いよぅ……早いとこアレ・・買いに行こ」


 朝羽は寒さを紛らわすがごとく、駅前のコンビニまで、小走りで駆けて行く。

 程なく到着する電車の存在を知らせんと、駅のアナウンスが鳴り響いた。


***


 赤錆色の車体の腹から、人々が降りていく。

 皆改札を早足で抜け、自らが帰るべき場所へ。

 その中から目当ての人物を探し当てた朝羽は、彼に見えるようにぶんぶんと手を振った。

 キョロキョロと辺りを見回していた彼も、同様に朝羽を見つけ、手を振る。


「――あ!! おかえりぃ次善じぜん!!」


 声が届く距離まで近づいた二人。

 彼女は愛しい彼に言う。


「ただいま、朝羽」


 次善も、はにかみながら彼女に返した。


「んふふ~」


 朝羽が、嬉しそうに彼の腕に抱き着き、その目を愛おし気に細める。


 ——私を見て、今日も次善が笑ってくれた。ああ、もう、ほんとうに。……私は次善が大好きでたまらないんだ。——


「どうしたの? 朝羽」


 そんな朝羽の心情を知ってか知らずか、頬を緩めた次善が問いかける。


「な、何でもないよ、寒いから早く帰ろ」


 自分が考えていたことは、恥ずかしすぎて口にできないと。

 朝羽は、照れ隠しに次善の腕を引いて、早足で歩きだした。


***


「ひぃー、寒い寒い!! 次善、早くお部屋入ろう!?」


 アパートまで戻ってきた二人。

 次善の荷物を抱えた朝羽が、降りた車の傍で言う。


「ちょっと待って、車の中にコンビニの袋が置きっぱなしだぞ?」


 次善が、後部座席に置いてある袋を、車の外から指さした。


「あっ、忘れてたよ……袋の中身、見えちゃった?」


 車のドアを開けて、袋を取り出した朝羽。

 少し上目遣いで次善に問う。


「いや? 見えなかった。何が入ってるんだ?」


「んー……んふふ、秘密」


 問い返した次善に、朝羽はいたずらっぽく微笑んだ。


 朝羽がドアの鍵を開け、次善が戸締りをする。

 部屋に入った二人は、すでに朝羽によって作られた夕食を、炬燵の上の机に並べ、いつものように対面に座った。

 どんと机の中央に置かれた大鍋から漏れる匂いが、次善の空腹を悪化させる。


「今日は何だろう?」


「何だろうね~、当ててみて?」


 朝羽が、少し意地悪く問い返した。

 少し開いている鍋の蓋からは、醤油に、昆布と鰹の合わせ出汁の優しい香り。

 みりんと砂糖で甘さを出し、竹輪やはんぺん、餅巾着、たまごといった具材がごろごろと入った、あの料理。


「おっ、このにおい。分かった、おでんだ」


「さっすが次善、いい鼻をお持ちでございますねぇ」


 おどけながら、朝羽が鍋の蓋をぱかっと開けると、蓋の中に籠った水蒸気と香りが、狭い六畳間中に広がった。

 おでんをつつきながら、二人でお酒を飲む。


「次善、今日はお仕事どうだった?」


「機械部品の注文数多くて、かなり忙しかったよ……」


 疲れた顔で、次善が答えた。

 彼は高卒で、小さな町工房の営業部で働いている。

 働き始めたときには、すでに朝羽と生活を共にすると、二人で決めていた。


 今度の休日は徒歩でどこかに行こうだとか、昔の二人の青臭い話だとか。

 回ってきた酔いに任せて、楽しく、いろんなことを共有した。


***


「朝羽、髪乾したげるから炬燵から出て」


「ええ……寒いからやだぁ。じぜん~、炬燵まで来てよ~」


 二人でお風呂から上がり、脱衣所に出たところで寒さに負けた朝羽が、髪も乾かさずに炬燵に潜り込んでしまった。……おでんを食べている時に、少しお酒を飲んでしまったのがいけなかったのだろうな、と次善は考える。

 洗面所で自分の髪を乾かし終わったので、ブラシ型のドライヤーをもって朝羽の元まで行く。

 コンセントの空きがないので、炬燵のそれを抜いてドライヤーの電源を入れた。


「あ~、こたつの電源ぬいたぁ、ダメだよ~?」


「はいはい、髪乾かしたらすぐ入れるから我慢してな」


 言いながら、朝羽のこげ茶色の髪を梳かしていく。

 彼女の髪は、肩甲骨に掛かる位で毛先がカールしているので、ブラシが頭頂部から毛の先までするりとは抜けてくれない。

 無理に毛先にブラシをかけると痛いらしく、髪にもよくないので、毛先はブラシをかけないようにしている。


「ん~、ふふ、きもちい」


 彼女は髪を梳かされるのがお気に入りらしく、上機嫌だ。

 一通り乾いて来たので、ドライヤーを止めた。最後に彼女の頭を一撫でして、行為の終わりを告げる。


「はい、終わったよ」


「もうおわり? もっと~」


 子供のように駄々をこねる彼女。

 ああもう、可愛い。

 ドライヤーと炬燵のコンセントを入れ替えて、次善も朝羽と同じ炬燵のスペースに潜り込んだ。


「ねえじぜん~、今日何の日か知ってる~?」


 次善に体を預けながら、朝羽が甘く問いかける。机の上には、件のビニール袋が置かれていた。


「いや、知らないな」


 彼がそう答えると、朝羽は袋からガサゴソと例の物を取り出した。


「これです! 11月11日はポッキーの日なんだよ?」


 じゃーんと効果音が付きそうな勢いで、彼女が宣言する。

 そのまま箱から、ポッキーの入った袋を取り出し、開封。


「……ん」


 朝羽は、ポッキーの端を口に咥えたまま、背中を次善の胸に預けてのけぞった。

 彼女の顔を、次善が上から覗き込むような形。

 そして、彼の口の前にはポッキーの端のもう片方が。


「えっと、朝羽?」


「ん~……キス先にした方が負けね。早くポッキー咥えるべし」


 次善が真意を問うと、朝羽がポッキーを口から離し、謎のルールを説明。

 有無を言わせぬジト目に、苦笑しながら次善はポッキーを咥える。


 ——朝羽が、ポッキーを食べ進める。徐々に近づく彼女に負けじと、次善も口を動かした。


 目と鼻の先に、彼女の顔が。

 二人の息が、互いの顔にかかる。

 目と目が磁石のように合って、離れない。離れられない。


 ——不味い、これはきつい。

 大好きな女の子が、こんな距離にいて。

 心臓もこれ以上ないくらい早鐘を打っているのに。

 ……何もできないなんて、あんまりだ。


「……ん~、ふふ」


 朝羽が、不敵に笑い、咥えていたポッキーを噛み切った。

 上でポッキーを咥えていた次善は、消えた唇と唇の間の抵抗に対応できなない。


「んっ……」


 次善の顔が、朝羽に被さった。

 口の中のチョコの甘さと、している行為の甘さが混ざって、蕩ける。


「はい次善の負け~、私のお願い聞いてね? ……もっかいキスしてほしいな?」


 酔いがさめたのか、演技だったのか。はっきりした声で、次善の顔を両手で挟み、彼女が求めた。


***


 小一時間かけて、ポッキーを消費した二人。

 朝羽がコンビニで一緒に買ったお酒も一缶空けた。

 炬燵の、同じスペースに入っていると、とてもあったかくて。


「すぅ……すぅ……」


 朝羽は、頭を次善の胴に預けて、眠ってしまった。

 同じ柄の、次善のパジャマの裾をぎゅっと掴んで眠る彼女は、とても愛しくて。

 彼女の頭を撫でながら、そんな風に思う。

 もう少し寝顔を見ていたいと思うけれど、次善も瞼が落ちてきて。

 意識が途切れる寸前に、もう一度だけ、唇を重ねた。


「おやすみ……朝羽」


 起きていたのか、寝言なのかは分からなかったが、


「おやすみ……次善」


 朝羽は、そう返してくれた、そんな気がした。

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ポッキーの日 斜 てんびん @tenton10

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