第6話
尻切れトンボ。
沢口との中途半端な会話を置き去りに放課後になって、俺は今一つ集中力を欠き部長から叱られながらも部活を終えた。
上空は生憎の曇り空。
今夜の予報は雨だったか。
沢口への言葉は、自己主張の押し付けだったかもしれない。
それでも昔言うべきだった気持ちを吐露したのに後悔はない。
あるとすればそれは……。
俺はまだ帰らずに職員室に足を運んでいた。
他の教職員たちの大半が帰宅したがらんとした職員室には、予想通り都筑先生が残っていた。
幸い彼の姿しか見当たらない。
都筑先生――先輩の男は、窓際の席に静かに座って書き物をしていた。
俺の入室に気付くと、徐に顔を上げる。
入室の挨拶以外は黙ったまま席に近付いて窓際に立った俺は、そこで一つ気付いてしまった。
ここは……。
「都筑先生、屋上の鍵を貸して頂けませんか?」
屋上の鍵の管理は天文部顧問の都筑先生が主にしている。
時々部で天体観測をするという。
先輩との会話の中でそう聞いた事がある。
「悪いけど屋上は立ち入り禁止だよ」
「知ってます。それにきっと先客がいるでしょうし」
紙飛行機を飛ばさなくたって先輩は日々屋上に行くんだろうから。
――だってあそこから見下ろせば、職員室のこの人の背中が見える。
先生は、俺の顔をじっと見据えた。
真意を測りかねているに違いない。
「数学の質問ではなさそうだね?」
「質問はありますが、まあそうですね。……先生はどうして大事なものを手放す選択をしたんですか?」
「……君は……」
察しがいいのか都筑先生の顔色が僅かに変わった。
「冷やかしじゃないですよ。勿論嫌がらせでも」
俺は一つ返しそびれていた、いや敢えて残していた紙飛行機をジャージのポケットから取り出し、目の前の男に見せた。
「これは?」
「ある先輩がいつも飛ばしていた物です。何度も何度も飛ばして自分で拾いに行って、懲りずにまた投げて。しかも屋上から」
……ほとんど俺が拾っていた苦労性の事実は割愛する。
俺は窓に寄って、見上げた。
屋上には人影があって、それはたった今まで足元くらいしか見えていなかっただろう生徒が俺と知って、動揺したように後ろに下がった。
屋上と言う単語にピンと来たのか、先生も釣られたように同じ方向を見上げた。
けれどその頃には人影は後ろに深く下がっていた。
「これにはその先輩の気持ちが込められているんです。誰かに読まれたら秘密が白日の下に晒されるかもしれない、それを望みながらも望まない、複雑な心を抱えて」
「……」
「理由は俺にはわかりませんが、背を向けても、先輩はきっといつかあの人自身の翼で羽ばたいて、目の前に舞い降りて来ますよ。そういう人なんじゃないですか?」
おそらくは、俺よりも彼女の多くを知るこの
この真面目そうな男が軽い気持ちで付き合っているとは思えない。
それでも突き放すのにはそれなりの事情があるんだろう。
「俺は今からこれを飛ばします。きっといつもみたいに中庭に落ちます。先生は――……」
拾いますか? それとも拾わずそのままにしますか?
俺は左右に軽く首を振るとそう言うつもりだった言葉を切って、踵を返した。
職員室を出て屋上へと走った。
あの場の俺に気付いた先輩はどうしただろう。
俺と入れ違いに職員室に行っただろうか、それとも……。
息を切らした俺が屋上の扉を開けると、そこには先輩がいた。
俺が来るだろうと予想してか体を真っ直ぐこっちに向けて。
俺は無言で距離を詰め、彼女の真正面に立った。
背筋を伸ばして大きく口を開く。
「俺は、俺のために先輩に協力します」
高らかにそう言ってポケットから紙飛行機を取り出した。
「それ……?」
「はい。そうです。先輩のための飛行機です。最後の最後にもう一度だけ飛ばしましょう」
「……」
先輩は俺の顔を見つめ、やや思案した後に空を見上げた。
今にも怖じ気付いて泣き出しそうな曇天を。
そして心を決めるまでの時間稼ぎのように、雨粒の詩的な哲学を口にした後、掌を差し出して来た。
「見てて、世界を変えるから」
「はい、先輩」
俺は言われるがまま紙飛行機を先輩に手渡した。
彼女の狭い世界よ終われ、そう願う。
俺はそれに乗じたい。
先輩は、確かめるように紙飛行機を手にとって眺め、怪訝な顔をした。
「中に何も書いてない……。これ、私のじゃないよね……?」
俺はあっさりと頷いた。
「はい。でもそれでいいんですよ」
「……?」
「白紙の中に全てを詰め込んで飛ばして――俺と世界を変えよう、先輩」
思いもかけない言葉だったんだろう。
先輩はびっくりしたように俺を見つめた。
「俺はどこかあなたに自分を重ねてました。どんな形であれあなたを後押しできれば、俺も変われるんじゃないかって思って」
過去の失敗が今の俺をここに立たせた。
人生何一つ無駄なんてないのかもしれない。
先輩は目を見開いたまましばし俺を凝視する。
「ッふ……」
思わずと言った具合に笑いの吐息が漏らされる。
「私の手を借りずとも、君はもう十分自分を変革してるよ」
「え……?」
先輩は少し含み笑ってその腕を高く上げて――――……。
祝福の白い鳩が舞うように、白い飛行機が進んで行った。
目を瞠る事に、いつになく風に乗って長く遠くまで。
惜しむらくは、空一面の雨雲だろうか。
夕焼けだったらきっともっと壮観だっただろう。
まあでも人間の日々なんてそんなものだ。
いつもベストシーンとは限らない。
またはどれを以ってベストシーンというのかも。
「へへっ、あの時飛行機を拾ってくれたのが――君で良かった」
何だか吹っ切れた顔で屈託なく笑った先輩に見惚れたのは、一生の秘密だ。
その直後、肩で息をした都筑先生が駆けこんで来て、俺は彼にその場を譲った。
翌日の休み時間、俺は沢口のクラスの前に立っていた。
今度は俺の方から英語の教科書でも借りようと。
中学の時のもやもやした未練とは違う、成長した未練とでも言うのか、俺はまだ沢口に言い足りない言葉があるし、たくさん聞いてもらいたい話もある。
すれ違いの埋め合わせをしたいと思う自分がいる。
――叶うなら、彼女と今度こそちゃんと向き合って、大事にしたい。
――彼女もそれを望んでくれるとすれば……だけれど。
すぅと息を吸って気を落ち着ける。
バスケの試合に臨む時のような、でもそうじゃない緊張を胸に、一歩前に踏み出した。
紙飛行機に乗せる世界 まるめぐ @marumeguro
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