香水店で春の絵本を『王国の調香師』前日譚

仲村つばき

第1話

 香水店「フロノワ」。

 草花の恩恵から見放された土地――シュタイン国唯一の香水店である。

 有能な庭師が貴重な花を丹精こめて育て、店主の調香師、フェイがそれを香りにする。


 とある少女には、控えめなスイートピーとさわやかなリンゴを使った、「みずみずしい初恋のような」香水を。

 とある青年には、シダーウッドにほんの少しのバニラを加えた、「とっておきの秘密をうちあけるような」香水を。

 とある女性には、夏を想わせるレモンと官能的なマグノリア。「単調な日常に、ほんのすこしの刺激を感じさせる」甘美な香水を。


 天才調香師フェイの作り出した作品の数々は、「運命の人と出逢える香り」と称されていた。

 また、彼の運命に導かれた少女がひとり――。


「読み書きができない?」


 フェイは眉間のしわをよりいっそう、深くした。


「は、はい……。そうなんです」


 先日フロノワに見習い入りしたばかりのリンディール・クライドは小さな背を縮こめた。

 十三歳で村を飛び出し、都会の香水店に身一つで修行入りをしたリンディール。彼女にひとつめの壁がたちはだかっていた。


「あの……生まれ育った村には学校がなくって。その……この図鑑もなんて書いてあるのか、さっぱり……」


 ――これをすべて読み込んで、庭の世話をしてこい。

 フェイから渡された植物図鑑を前にして、リンデは顔を青くした。


「図鑑なしでよく庭仕事のノウハウを学べたな。シュタインの土地が特殊なのはよく知っているだろう」

「祖母から教わりました。うちは代々畑を持っていましたので……」


 お手伝いをするうちに、土との接し方は自然と身につけた。

 リンデの育ったナヴォー村はシュタイン国の山間地域で、村人たちは畑を耕して暮らしている。野草が豊富に育つ、国でも珍しい自然豊かな土地だ。

 フェイはやれやれといったばかりにため息をついた。


(ううーっ、読み書きできないならクビとか……ないよね……!?) 


 手にじっとり汗をかいてきた。フェイが「仕方ない」と口火を切ったので、リンデは思わず声をあげた。


「ク……クビだけはご勘弁をっ……!」

「まだなにも言っていないだろう」

「えっ、クビじゃないんですか!?」

「クビにしてほしいのか?」

「い、いいえっ、とんでもない!」


 フェイは執務机をごそごそとあさると、一冊の絵本を取り出した。

 タイトルは「ぽんぽん はるの おはなが さいた」。


「あの……?」

「まずはこれで勉強しろ」


 リンディールは絵本と師匠を見比べる。ようやく気がついたかのように、フェイは言った。


「ああ、読めないんだったな。「ぽんぽんはるのおはながさいた」だ」

「ブッ」

「お前、なんで今笑った」

「だって師匠、そんな顔で、ぽんぽんはるのおはながさいた、って……」


 そのするどい顔でぽんぽんはあるまい、と思ったのだが、師匠の表情はさらに威力を増している。


「お前……教わる立場だってこと、わかっていないようだな? 誰のために俺がぽんぽん言っていると思っているんだ?」

「す、すみません。ぽんぽこ言わせてすみません」

「ぽんぽこじゃなくて、ぽんぽんだ。その耳が飾りじゃないならしっかり聞き取りしろ」


 へへえ、と謝りたおすと、彼はリンデに座るようにうながした。リンデは言われたとおり、ソファに腰を下ろした。


「では始めるぞ。ぽんぽん、はるがやってきた。ちょうちょがとんで、おひさまがにっこり――」


(!?)


 フェイが当然のように横に座って絵本を広げたので、リンデは思わずすすすと横にずれてしまった。


「なにをしているんだ。ちゃんと見ないと文字がわからんだろうが」

「い、いいえべつに、すみません」

「ったく、一度しか読まないからちゃんと見ろよ。俺はベビーシッターでもなんでもないんだからな」


 女性客たちはフェイに香水を作ってもらうと、うっとりしたような顔をして店を出ていく。

 フェイの整った顔立ちと硬派な印象が、彼女たちを虜にしているのだ。

 それだけではない。物語を感じさせるような、フェイの香水。自分のためだけに作られたその香りを、彼女たちは恋人から贈られた手紙のように大事にする。

 フェイは異性からすこぶる人気なのである。


(こんなところ、ほかの見習いの女の子たちに見られたらなんて言われるか……)

 ああら、出来損ないのリンディール。またフェイさんに迷惑をかけてるの? なんて、からかわれるに決まっている。


「おい! 集中しろ!」


 こつん、と額を軽くはじかれて、リンデはぎゃっとうめいた。


「い、痛いです師匠」

「お前がぼけっとしているから悪いんだろうが。くまさんがどうしたか言ってみろ。どうせわからんだろう」

「す、すみません……」


 それにしても、鬼師匠の彼の口から「くまさん」という単語が飛び出すのは、なかなかシュールである。


 リンデが額をさすると、フェイは彼女の顔をのぞきこんだ。

 夜の湖のような深青の瞳に、自分の顔がうつりこんでいる。その澄みきった美しさに、リンデは思わず目を見はった。


「悪い。加減したつもりだったんだが」

「い、いえっ、大丈夫ですのでっ」

「くまさんがどうしたかわかるか?」

「わかりません!」


 フェイににらまれて、リンデはしおしおと謝った。


「すみません。次はちゃんと集中しますから……」

「……ではもう一度いくぞ。おひさまぽかぽかいいてんき。くまさんのそりとおきあがる。はちさんぶんぶんとんできた――」


 フェイはリンデのために、ゆっくりと絵本を読んでくれた。

 低くよく通るその声を聞きながら、リンデの意識は絵本の世界へとびこんでいた。

 フェイの語りによって閉ざされた冬の世界がめざめ、森に春の恵みがもたらされる。


 両親が出稼ぎにでてしまい、村で祖母とふたり、畑仕事に明け暮れていたリンデにとって、それは初めての経験だった。

 誰かが自分のために、絵本を読んでくれる――。心の中がほっこりとあたたかくなるような、まさしくこの物語のように、春の陽気が体を包み込むような。

 溶け出た春の、こぼれそうな喜びだ。


 最後まで読み終えると、フェイはぱたんと絵本を閉じた。


「……師匠、ありがとうございます」

「この本は持っていろ。今度は文字をうつしとって俺に提出しろよ」


 フェイは、彼女のひざに絵本を乗せた。


「同じ年頃のナタリーなら、もっとお前が興味が向く本を持っているだろう。貸してもらえ」


 ルームメイトのナタリーは、たしかにおしゃれな装丁の本やきれいな香水瓶のイラストが載った本をたくさん持っている。けれど――。

 リンデは絵本をぎゅっと抱きしめた。


「私……この絵本、大切にします。でも、師匠はどうして執務室に絵本なんか――」


 子どもの来客に貸し出す用だろうか。リンデの問いに、フェイはしばし口をつぐんでいたが、やがてしぶしぶと言った。


「……俺も、昔は文字なんて読めなかったんだよ。子どものころ……とある屋敷で庭師の仕事をすることになったとき、主人の息子からもらったんだ。いずれ調香師になるなら、レシピを書けるようにならないといけないと」


 この絵本は、幼い頃のフェイの教科書だった。歴史の詰まった一冊だったのだ。


「大切な絵本を譲ってもらえるなんて、うれしいです!」

「……言っておくが、絵本の書きとりだけですむと思うなよ。いずれ自分の考えを大作で発表してもらうことになるからな」

「え」


 リンデがぽかんと口を開けると、フェイは厳しい表情を、そのときだけはふっとゆるめたのだった。


「まぬけ面だな。覚悟しておけ」


 ――リンディールが、反省文の大作を彼に添削してもらうことになるのは、まだもう少し、先のお話。

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香水店で春の絵本を『王国の調香師』前日譚 仲村つばき @tsubaki_nakam

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