第五章 天花《てんか》其ノ漆


結局この事件のため、帝の加冠の儀は延期となり、その首謀者として自ら名乗り出た重盛は責を取って邸に引きこもって謹慎し、曹司からすら一歩も出ない生活を送った。

彼は権大納言職もすぐさま返上したのだが、天皇の乳父めのとの立場にある人物を即座に解任するわけにもいかず、また、今は衝撃で伏せっているという相手方の摂政基房からも事情を聞かねばならないと、公卿僉議くぎょうせんぎの場で決められた。

とはいえ、重盛が成した行為は普通ならば許されるものではなかった。

幼い帝に代わって院政を布く後白河院のお声掛かりと、まだまだ盛んな平家の勢威、そして重盛自身のこれまでの忠勤ぶりとすぐさま身を慎んだ謙虚さに、意外にも格別なるお咎めなしという沙汰が下ったのは、歳も押し詰まった頃であった。

しかしその聖恩に感じ入った重盛は、結局権大納言を辞任した。

彼にとっては、遠流おんるの憂き目に遭わずに済んだだけでも充分すぎたのである。

片や松殿基房は太政大臣に昇り、藤氏長者としての面目を立てた。


翌正月三日に再度行われた帝の加冠の儀にも重盛は謹慎中とて欠席したが、この儀式を義兄に代わって執り行ったのは権中納言となった宗盛だった。

目の上の瘤と疎んでいた義兄が宮中の役職から退場し、得意の絶頂にあった宗盛は二十四歳。

以後彼は重盛をしのぐ重みを一族内で得ていくのであるが、それはまた後の話である。



加冠の儀当日、上げさせた半蔀はじとみを隔てて、ふわりふわりとちらつく雪を眺めながら、重盛はまたも床に就いていた。

蟄居中とて正月の祝いも家人のみで秘やかに行った直後、高熱を発して寝込んだのである。

(俺の身体はどうなっているのか…)

白いものが落ちてくる鈍色の空は、不思議な透明感を持って彼を包み込むようだった。

儚い雪のひとひらのように、自分の命もやがて消えゆくのかもしれぬ。


重盛は己の生にはさほど執着してはいないが、平家の行く末は心から気に掛けていた。

すぐ下の同母弟基盛が、数年前に現在の宗盛の歳で病死している今、自分がいなくなった後はおそらくは宗盛が棟梁となるであろう。

そのこと自体はよい。だが、宗盛の性格を考えると、とても平家の棟梁として相応しいとは思えないのだ。

してみると一族郎党あわせて平家千人の行く末というのは、思った以上に危ういものかもしれぬ、という危機感が彼を苛む。


しかし同時にこうも思う――では自分はどうなのか。

果たして父のように一族をまとめ、みなの生活と地位名誉を安堵してやることができているのだろうか。

そんなふうにいつも揺れている己の心を、重盛は歯がゆく感じている。

そして小さな弟たちが、幼いながらもしっかりとしたものを持ち、善し悪しの判断を他人に任せることなく、己自身で決めていることを羨ましく、頼もしくも思う。


昨夜、寝込んだ兄を見舞った子供たちを傍らに座らせ、語ったことを重盛は反芻する。


「そなたらは臥龍鳳雛だな」

「大兄上…」

「いつか天翔けて飛び去っていくのだろう」

「そのようなことはありません。おれはずっと、父上や兄上、五郎たちとともにありたいのです」


珍しく知盛が即座に反論してきた。無論、重衡もそれに同調する。


「そうです、私も兄うえがたとごいっしょがいいです」

「そうだな…。そうあれればどれほどよいか」


最近妙に大人びてきたとは言っても、まだ子供らしい言葉に、安堵と心配、相反する気持ちを抱く兄である。

まっすぐに己を見上げてくる瞳は、いまだ穢れなき澄み切った黎明の輝きを湛えており、それを失わせたくはないと強く思う。

だが同時に、この子らが大人になるまで自分が健在であれるかどうかという不安が、このところの世相の慌ただしさが、大切な弟たちを子供のままでいさせてやれないことも告げている。

老いてゆく父、病身の自分、次代を担うべき強力な壮年の者の不在。そこに改めて思いを致し、背筋を滑り落ちていく氷塊の冷たさに身を震わせる重盛だった。


「四郎、五郎。兄はそなたらのために、平家をより良き処へと誘いたい。己がためではない。そなたら明日ある若き者たちのために、この身朽ちようとも、必ず平家を今よりさらに強く、盤石のものとしたい。だがそなたら自身にもその意思を確りしっかと持ってもらいたい。…わかるか」

「大兄上…」


黒い瞳を瞠る弟たちに言い聞かせるように、順に視線を当てる。


「そなたらが今成すべきことが何か、常に考えていよ。周りに惑わされるでない。そなたらには歩むべき王道がある。それを見極め、刻むように進んでゆけ。ゆっくりとでかまわぬ。ただ、生き急ぐな。早道はないと心得よ」


じっと聞いていた弟たちのうち、口を開いたのはまたも珍しいことに知盛だった。


「…道なかばでたおれたときには、いかがいたさばよいのですか?」

「その時にはれかに継がせよ。必ずしも血を分けた者である必要はない。己が意思を、思いを継ぐ者であればよい。そうすればそなたの思いは絶えることがない」


昨夜はそう知盛を諭したが、あれは自戒ではないかと考える。

未だわかく、前途洋々たる知盛重衡に対し、己は既に人生の半ばを過ぎた。

院や父など意気軒昂たる巨人であればともかく、凡百の才と気概しか持てぬ自分であれば、余程の長命でもなくばこの先そう長く生きてもいられまい。

いや…昨今の体調の悪さを考えれば、早々に儚くなっても不思議はなかろう。

その時に後事を託せるのは、精神的に脆弱な我が子惟盛でも、気儘自儘な宗盛でもなかった。

まだ十を過ぎたばかりの二人の弟…知盛と重衡という、幼いながら稀有な才と度量を併せ持った子供たちに、重盛は賭けざるを得ないのであった。

――否、賭けてみたいと思った。


「…大きうなれ、四郎、五郎。身体やよわいだけではない。心持ちの大きな男になれ。それが兄のたった一つの願いじゃ」


ひとり伏す房室へやで、呟くように発した重盛の言葉は、しんしんと降り積もる雪の花びらにうずもれていった。




   冬ながら空より花の散りくるは

          雲のあなたは春にやあるらむ

                   (古今和歌集 巻六 清原深養父)

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胡蝶 橘櫻花 @sakura_wa

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