第五章 天花《てんか》其ノ陸


「…父上…!いつの間にこちらにいらしたのです」


重盛が慌てて声を上げると、清盛はそのまま塗籠に入り込んでまた扉を閉めた。


「つい今し方じゃ。表門に到着してみると、誰も迎えに出てこん。門番にどうしたのかと訊いても埒が明かん。勝手に入り込んで申し訳ないの、棟梁殿」

「…何を仰せられます。塗籠までお入りになっておいて、今更でございましょう」

「子供たちだけで何やら楽しそうな密談をしていたのでな。我も混ぜてもらおうとまかりこした次第。どうじゃ四郎、五郎。兄上とこそこそ隠れん坊するのは楽しかろう?」


父は年取ってできたこの二人の子を溺愛している。好々爺そのものの温顔でにこにこと笑いかけているが、言外にお前も儂の子じゃと言われ、重盛は鼻白む。

三十路を越えた男が隠れん坊もないであろうに。


「父上。そのような悠長なことを仰有っている場合ではござりませぬぞ。どうせ事の次第はどこからかお聞き及びなのでしょう」

「おう、そのことじゃ。儂はしばらく京におるでな。五郎を送り込まれても福原には誰もおらん。こちらに置くしかなかろうよ」


そう言われてしまえば、重盛は家長たる父の言葉に従うしかない。

溜息をひとつついて、弟を見やる。


「父上にお礼申し上げよ、五郎。そなたには百万の味方がおいでじゃ」

「では…」

「だからと申して、そなたらのしたことが許されるわけではない。身を慎んで四郎と謹慎しているように」

「は…はいっ…」

「…ありがとうございます。父上、大兄上」


引き離されることだけはどうにか免れ、喜色を浮かべて手を取り合う幼い弟たち。

改めて父と兄に頭を下げる彼らを房室に残し、重盛は父を案内して母屋へ移動した。




「突然のお越し、よもや今日あるを前々からご承知だったというわけではありますまいな」


棟梁とはいえ、敬うべき父に上座を譲ると、当然のようにどかりと腰を下ろした清盛は、しかし――少し痩せたろうか。

そういえば自分の病ばかりが気になっていたが、父上のご体調はいかがであろうか。福原から京まで、遣いも寄越さず自らやってくるとは、まだまだお元気なのであろうけれども。


「お拗ねめさるな棟梁殿。いかにわしとて、さまでの勘は働かぬ。まして福原に引き籠もっておってはな」


では都にいて弟たちと日々接しているにも関わらず、また知盛の不安定さに気づいていたにもかかわらず、この大事件をみすみす許してしまった自分はどうなのだ、と忸怩たる思いで再び溜息をつく息子を揶揄からかうように見やり、清盛は続ける。


「しかしそなたとて内心では、摂政殿下の奇禍に快哉を叫ぶ思いであろう?」


これからの始末に胸と頭を痛める息子の前で、この父は意味ありげに笑いながらそんなことを言うのだ。

だから重盛は、巨人と懼れながらも父を愛さずにはいられない。

咳払いしつつ、鹿爪らしい表情を作ってみせる。


「それは…正直、様を見よ、とは思いますが」


堅物で名を馳せる息子のこのしれっとした返答を聞いた父は呵々大笑した。


「そなた、まことに正直者よの!…じゃが、確かにこのままでは済まぬ」

「…はい。面目次第も…」

「なんの。そなたのみに責を負わせるつもりはない。…といって、四郎に職を返上して頭を丸めよ、とも絶対に言えん」

「無論です」


あの弟の才は、平家として決して失ってはならないものだ。弟として愛するゆえのみならず、一族の長としての重盛の意思がそう答える。

知盛の器は、己などよりも遥かに大きい。これからの平家を背負って立つ大将軍の器量が幼いあの身体に備わっていることは、父や自分のみならず、側近たちもすでに心得ていることであった。

――しかしこのまま内々で済ますにしても、大きな問題がある。


「秘かに殿下のお身周りを探らせたところ、公はこう呟かれたとか。襲ってきた賊は頭巾で顔を隠してはいたものの、目元は出ていた、と」

「見られたか、あれの眼を」

「……おそらくは」


そう声を低める二人は、同時に知盛の黒々と光る瞳を思った。

ご寵愛深い院からは、弟重衡ともども「黎明の菫、暁の紫苑」と譬え愛でられた美しい瞳だが、ただ漆黒というには不思議な光を放つあれは目立ちすぎる。

他に物証は何もないと思うが、摂政たる人の証言ならば、それだけで拘束されるには充分だ。

また知盛とともに襲撃に加わった者たちの誰かが足のつく証拠を残していないとも限らぬ。


「…私が成したことにいたしましょう」

「なんと申す。いかに何でもそなたが自ら禍患を被ることはあるまい」

「いいえ。もし四郎もしくは五郎と向こう方に知られているなら、それを打ち消すほどの大きな衝撃を与えるものでなくてはなりませぬ。人身御供に家人など出したのでは松殿基房も黙ってはおりますまい」

「しかしそれなら儂にすればよい。先の短い老いぼれのこと、領地のひとつも献上すれば許されよう」

「…いえ、父上。松殿基房が真実憎んでいるのは、私にございますよ。巨木のように聳え立つ父上には太刀打ちできぬとわかっているのです。なればこそ目の上の瘤はこの重盛、私を追い落とすことができる機会を、あの御仁は逃しはしません。そこに食い付かせるのです」


そう決意を述べる一の息子を、清盛は睨んだ。


「…儂には何もさせてくれんのか」


口唇を尖らせ拗ねて呟く様子は、重衡とそっくりだ。

つい笑いを誘われるこういうところが、この父の愛敬というものだろう。


「いいえ。私が帝のご勘気を被り謹慎している間、父上がこちらにお戻りくださらねば困ります。…監視役がおらねば、弟たちが何をするかわかりませぬゆえ」


それは暗に宗盛を抑えてくれというも同然であった。

重盛を目の上の瘤と疎ましく思うのは、何も基房てきがただけではない。それをわかっているだけに、父も苦笑しつつ承諾せざるを得ない。


「やれやれ。この息子殿は父に楽をさせてはくれぬのう。楽隠居を決め込んでおったものを、重き荷ばかり背負わせおって」


その言葉はこれから謹慎あるいは降格、悪くすれば配流の憂き目さえ遭おうかという長子を案じる気持ちの表れであった。

息子が都で健在であれば、何も父親がふたたび世に出ることもあるまいに、という言外の意味を汲み取りつつも、重盛は口に出してはこう言った。


「よくもそのようなことを仰せある。福原から御身軽々しくお出ましの方に言われとうはござりませぬぞ」


呆れたように溜息を吐いて見せたが、堪えきれずに噴き出した。息子の真意をわかっている父も、大きな口を開けて笑っていた。

自分は本当にこの父が好きだ。この人の息子に生まれたことは、自分の人生最大の幸運かもしれぬ、と思った。


重盛が子供の頃、父はまだそれほど位も高くはなく、よく共に遠駆けや狩りに出かけた。まだ小さかった重盛や、すぐ下の弟の基盛が手習いの稽古をしていると、ふらりと房室に入ってきては、筆を握る手を添えて教えてくれたこともある。

考えてみれば、知盛や重衡はあまりそのようなこともなかったはずだ。彼らがもう少し幼い頃、すでに父は宮中の重職に就いていたし、今や両親ふたおやとも別に暮らしている。彼らが父親代わりにしてきたのは重盛自身だった。

これからも出来る限りのことをしてやりたい、そのために自分が棄て石になれるものならば、いくらでもなろう。そう、決意を新たにする重盛であった。



(続)

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