君よ知るや南の国

@silvermoon_algol

君よ知るや南の国

青年というにはとうがたち、中年というにはためらわれるほどの年ごろの男が、パレルモの街を歩いていた。

どこに行くともなく、彼はベネディクト修道士特有の黒い修道服を半ば引きずっている。裾からはサンダルが見え隠れしていた。

修道士仲間とパレスティナに向かう途中、サラセン海賊に襲われ、北アフリカに送られるところを嵐に遭い、シチリアに流された。シチリアを治めるノルマン人の為政者であるルッジェーロ二世は修道士たちもサラセン人も受け入れてくれた。

話には聞いていたが、驚いた。

街中にはイスラム風の意匠がそここに見られる。道行く人も、見慣れた欧州人だけではない。浅黒いサラセン人と彫りの深いビザンツ風も多い。

店先には豊かに果物や香辛料、そして色とりどりの織物があふれていた。

こんな光景は生まれ故郷では見たことがない。

美しいと思った。眼を楽しませることを、神は許してくれるだろうか。

もう一つ、彼が密かに楽しみにしていることは、シチリアではギリシャやイスラムの学問を学ぶことができることだった。

少し歩いたな。

勤勉な修道士は歩くのには慣れている。ましてや、あたたかな日光は、人の足取りを軽くする。いつの間にか、街から離れた丘にまで出ていた。そこここに人はいたが、なじみのある欧州風の顔だちの人間は見当たらない。風に混じる香辛料の香りが強くなった気がした。

修道士の聡い耳が、気になる音を捉えた。

遠くでなにかが激しくぶつかり合う音がする。音が鈍く響く。

喧嘩か?

少し速足で音の方へと急ぐ。見ると、男が二人、棒きれで打ち合いをしていた。

おたがい相手には当たらぬように……というより、一人のほうが明らかに技量が上だ。

男とはいったが、片方はまだ育ち切っていない少年、もう片方は大柄な青年だ。

少年のほうは明るい髪を陽光に反射させている。この丘で初めてみる欧州人だ。

青年のほうは黒い髪に浅黒い肌。サラセン人に違いない。

剣の稽古のつもりだろうか。青年は軽く笑いを浮かべ、少年の表情は真剣だ。

ここはサラセン人たちがくらす区間だ。

甘い香りにも、欧州人の彼にはなじみのない刺激が混じっている。欧州には珍しい果樹が栽培されているのだろう。

オレンジやナツメヤシやざくろ。どの木もなにかの調べ物をしていた時に、写本で見たはずだ。どれがどれだろう……。

手近な木の葉を睨んでいたら、少し離れたところに立っているサラセン人らしき男と眼が合った。修道服を身につけた自分は、明らかに彼にとって異教徒なのに、人懐こく微笑む。

それには果物は成らないよ。そいつは桑の木だ。

修道士は笑ってうなずいた。男は蚕を飼っているらしい。

パレルモの店先に溢れる絹織物の色彩、その色をまとってシチリアを飾る女性の美しさは彼のような人間が支えているのだろう。

風が吹いた。今度は少し強い風だ。風にあおられ、修道院にいた時は、あれほど几帳面に手入れいていたトンスラが乱れていることに気づいた。ほうっておけば蓬髪になってしまう。

彼は苦笑した。

南の国でわたしも気が緩んだかな。

棒きれの剣戟を見たせいか、かすかに血が騒ぐ気がした。

神よ、過去と南国の華やかさに惑わされる未熟を許したまえ。

再度苦笑しながら、街へと戻る方向に踵を返した。

無意識に、昔剣を携えていた左の腰に触れながら。

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