第5話 序2-王子様への中身のない羨望

 お兄ちゃんと、パンくずが無くなるまで歩いて、パンくずがなくなる先に一つの扉があった。


 扉をあければ、この世界と何かが違うのは本能で気づいた。

 ああ、全ての「終わり」なんだって思った、扉を開ければこの暗い森から帰られるんだって安心しかけたけれど、動かない存在に気づく。

 後ろから伸びてる影は、ぴたっと止まっている。

 お兄ちゃんを振り返る。気づくとお兄ちゃんは、だいぶ後ろのほうで立ち止まっていた。

 お兄ちゃんの強い瞳が、「行け」と命じている。私は首を左右にぶんぶんと痛くなるまで振った。


「兄貴の命令が聞けないってか」


 お兄ちゃんの表情はよく判らないけれど、小さく笑った気配がした。僅かに体が震えている……私も、お兄ちゃんも。


「そんな強いふりしたってばれてるからね、お兄ちゃんも怖いんでしょ、ここから出たいんでしょ」

「――……リカオン、お前にだけは少し話しておくか。オレはな、食べる行為が怖いんだ。物を食べる行為がな。生き物を食べて生きていかなきゃなんねぇそっちが怖い。だから、これでいいんだ。何も恐れる物がないお前が帰るべきだ」

「食べてかなきゃ生きていけないよ! どうしてそんな意地悪言うの!?」


 もう帰られるのに、今になってそんな変な考えを言い出すお兄ちゃんが理解できなかった。

 思えばこの時に色んな引き留め方があったのに、私は自分本位だった、理解できない思いを伝えるしかしなかった。

 もっと、辛い寂しい一緒に来て、って情に訴えればお兄ちゃんは揺らいだかもしれないのに。


「……リカオン。忘れろとはもう言わない、その様子じゃお前はどう足掻いてもオレを覚えてしまう、たとえどの世界の理から外れてもな。オレの存在だけを覚えるだろう。明確なものがなくても。でもよ、明確なものを一つだけ覚えておいてくれねぇか? オレは――……」


 扉が勝手に開く、バンっと音を立てて開くと私を吸い込もうとしていた。

 私の足下の地面が崩れていき、扉の中に吸い込まれていく。そして、お兄ちゃんは地面から鉄格子が飛び出して、空で大きく集い鳥籠を象った。

 お兄ちゃん、と叫んでも呼んでも、お兄ちゃんは鉄格子の中から寂しく笑うだけで。

 扉の中からいくつかの黒い手が現れて、私の長い髪の毛を引っ張る! 痛い、痛いよ!

 私の体が吸い込まれていく、私は扉の縁を掴んで留まっていたけれど、お兄ちゃんの言葉を最後に怖い世界から「帰された」。




「オレは、醜い鳥なんだ。星にもなれねぇうざってぇ生き物の宿命なんだ――ヨダカって知ってるか?」


 ギィ――ばたん。


 お兄ちゃんとは永遠に会えない――もう、二度と会えないと思った。

 だって、吸い込まれた先は私の部屋で、私はベッドの上にいた。涙をぼろぼろ零して、虚空に手を伸ばしていた。

 私は最初はぼんやりとしていたが、徐々に何が起きたか思い出していく。

 思い出していくというのに、それが徐々にシャボン玉が一つずつはじけ飛ぶように記憶が消えていく。


 あの人の暖かみ、ぱちん。

 あの人の優しさ、ぱちん。


 どんどん潰れていく記憶は、空虚な私に別の代理品を用意して、脳に埋めていく。

 このままだと何もかも忘れていく気がした。

 ふと隣にあった写真立てを見れば、お兄ちゃんと一緒に映っていた写真が私だけになる。

 世界がお兄ちゃんを拒絶した――シャボン玉が一つ消えたみたいに、些細な出来事になっていく。お兄ちゃんという存在は何だったのか。あの人は誰だったのか。

 徐々に消えていくのが恐ろしかった、何もかも、何もかもが消えていくんだ!

 あの人が世界に存在していた証拠が、全て消える!

 私はどうすればいいか分からなかった、もう一度あの世界に行くにはどうすればいいのか。

 こんな――こんな長い髪。こんな長い髪だから、引っ張られたんだ。痛みに気を取られたんだ。

 背もそうだ、まだ低い。声も弱々しい女の子そのもので、甘い砂糖菓子にスパイスをちょっと添えたもの。

 何もかもが、弱い者であり守られる存在である象徴。

 王子様――お兄ちゃんの話していた王子様っていいなって思った。

 お兄ちゃんは王子様だったんだ、だから完璧に私を守ったんだ。かっこよくて、頼りになって優しくて――強い王子様。



「王子様になりたい……王子様になって、あの人を迎えに行くんだ……!」


 私は弱くなりたくなかった、あの背中が私の理想全てだった。あの強い背中を持ちたい。

 私はハサミを取り出して、長い髪の毛をジョキジョキと切った。

 要らない、こんなもの、こんな弱い証明である物、要らない! 溢れる涙も要らない、泣けばきっと弱みを晒すだけなんだ! 泣くだけで何もできないなんて嫌だ!

 まだお兄ちゃんがいたという想い出を忘れないうちに私は、この弱い証明を消し去りたかった。私の魂に、もう二度と弱さという単語を覚えさせたくなかった。

 魂に刻みたかったんだ、強くなりたいって。誰のためか、なぜそうなったかは全て忘れてしまっても、強くありたいっていう気持ちだけは忘れないように。

 嗚呼、嗚呼お兄ちゃん、――……君の名前は、何だったっけ。


 ヨダカとはなんだったのだろう。


 私は「王子様になりたい」という意志だけを忘れなかった。「誰の王子様になりたいのか」、そんな簡単な物覚えも出来ずに。

 ただ、ただ、悪戯に年月は私を女性として、世間へ覚醒させようとしていた。

 年を取れば取るほど、女性だから丁寧に扱わなければという認識をされていく。

 丁寧に扱われないだけのがさつな女子になりたい訳じゃない。

 上品に、華麗に、勇敢なかっこいい「王子様」への憧憬は、年を取るごとに募っていった……それと同時に私は、自身が女性であると自覚せねばならなかった。

 「お前は何もできぬ」――女性だから?

 女性でも王子様になれるって、私が証明してやる。思えば、そんな思考をした頃から、「時間」と闘っていたのかもしれない。

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