第2話 夏の始まり

目を開けると、夏の匂いがした。私はこの匂いがあまり好きではない。狭い木の上で器用に伸びをする。肩にかけた大槍が音を立てる。その表面をそっと撫でて、木の上から飛び降りる。あたりを見回し、歩き出す。目と耳と頭の三分の二はあたりを警戒しつつ、残り三分の一ではぼーっと考えを巡らす。珍しい夢を見たもんだ。あんな夢、久しく見ていなかったのに。しばらく街のはずれを歩くと不意に角を曲がった。それを幾度か繰り返した路地裏に、ぼろい酒場があった。一般人ではない人々が集まる酒場で私はいつもの席に座ると、出てきたよくわからない飲み物には口をつけずに持参した酒をゆっくりと飲んだ。後ろではひそひそと男二人が話している。常人の2~300倍はよく聞こえる耳を澄ませばこの店の屋根裏にせっせと巣を張る蜘蛛の動く音すら聞こえた。いろんな音が混ざる中目的の音だけを聞き分け、しばらく耳を欹てて、私は風のように気配を消して金を机に置き、店を出た。その夜、私は船着き場の倉庫の上に寝っ転がっていた。この2,3ヶ月追ってきた組織の取引が今日だと、先ほどの酒場で聞いていた後ろの席の商人の男の会話から調べを付けた。この組織は表向きはこの街を支える優良企業であるが、裏では麻薬の独占密輸で儲けていた。それを街の連中に最初は安値で、依存がきいてきたころから値を釣り上げて売りさばいているのがたちが悪い。依存性が強く粗悪品ばかりの危険な麻薬が蔓延したおかげでこの街の失業率は50%を超え、中毒による死者も出ている。領主すら大きな闇に支配されているとか。闇とはそれこそ正体不明の、麻薬の密売組織の親玉だった。こちらはしっぽすらつかめないでいる。まずは、と目先の懸念を潰すことにした。五感を研ぎ澄ましていると、遠くのほうから人の足音が聞こえてくる。漂う匂いは緊張による汗の匂い。わざわざ足音を消そうとしているのが分かるから、手練れのものではない。しばらくすると若い男が歩いてきた。なんと嘆かわしいことか…とため息をつくと気を取り直した。男がきょろきょろしていると、港に小舟がついた。何やら話し始めたところで私は静かに動き出す。大槍を肩に担ぐと、音を立てずに屋根から降りる。そして若い男と船の男が何かを交換した瞬間、私はばねのように飛び出した。うねる空気。二人を取り押さえると若い男が、

「風の詠み手だ!逃げろ!」

と叫んだ。どうにか人の力をはるかに超えた私の腕を抜け出そうと躍起になっている若い男をより強く取り押さえた瞬間、足に激痛が走った。思わず男を捕まえていた腕を離すと、船の男も若い男もいちもくさんに逃げだした。戦闘態勢に入っている私の皮膚を貫通する威力を持つものといえば槍くらいしかない。足を見下ろすとやはり太い槍が刺さっていた。ここでようやく気付く。嵌められていたのは私だったのだ。私を殺すために用意された見せかけの取引。闇に紛れて8つの影が見える。私の油断と合わせても、飛び道具に気付く暇を与えない相手だと気をさらに引き締めた。毒が塗ってあったらしい槍は棘がついていて、私の足を抉る。だんだん片足の感覚が麻痺してくるのを感じながら自然体で目を閉じ、相手の攻撃を待つ。相手の動きは目で見るのではない。これが父の最初の教えだった。すべての感覚を空気の中に溶かし、相手の殺しを感じ取ること。息、心拍、指の動き、衣服のずれに至るまで、空気から触れるのだ。私の周りの空気が持ち上がり、髪が煌めく。その刹那、一人の足音が私の斜め前から近付いてくる。私の足に刺さる槍と同じ匂いがする。ダガー遣いか、槍遣いか。私は考える、ここは逃げるべきか?自分が生き残るために、何が最善の策だ?0・3秒考えて、肝を据える。答えは戦闘。嵌められた喧嘩から逃げ出すほど弱くない。私は強い。何かを護るために生まれたのに護るものがない、生きていく以上で一番悲しい強さだとしても。片足がなくなるくらいで戦いをやめたりしない。自分が、自分である限り。その時、粗野な気配が前方に。つまり、一般人がこの場に紛れ込んでしまったのだ。相手方も気付いたらしく、人物のほうへ一斉に振り返る。硬い黒髪がつんつんと伸びた、私と同じ年くらいの少年だった。子犬のように大きな黒目がちの眼を大きく見開いて固まっている。着ているのは上等な服。小綺麗な身なりをしているので中流貴族の息子当たりだろうか。私が一言、「逃げろ!」と叫んだ時には襲撃者達は、目撃者になってしまった少年を消すために動いた。足がすくんだらしい少年は棒のように突っ立っている。私は奇妙なことをこの時思った。この名も知らぬ少年が、“護るべき人”であると。私は風になった。私がすべきことを、しなければ。もはや本能のように私は動いていた。槍が刺さったままの足の痛みすら感じず、手にした大槍雲獣をふるった。地面に突き立て助走をつけて飛ぶ。片足だけの跳躍力でも龍の足は軽々と少年の前まで私を運んだ。飛んだと同時に地面から引っこ抜いた雲獣を手の中で滑らせ、石突を思いきり石畳に向けて撃つ。石畳は割れ、その風圧で正面から向かってきていた男が吹っ飛んで海に落ちた。それを見届けぬまま、横なぎ一閃、等間隔で三方向から向かってきた男を峰で叩く。襲撃者達は遠くの倉庫まで飛んで動かなくなった。残るは四人。下手に動かずに様子を見ている様子だったので、戦闘を回避、少年と逃げることに頭を切り替える。近くにあった木材を薙いで散らばすと雲獣を出鱈目にふるって粉塵に紛れて固まったままの少年を片手で掴むと跳躍し、一番近くの倉庫の上に立つ。追手の気配を感じながら屋根伝いに移動していく。途中肩に矢を受けたが振り返らず、複雑なルートで細かく方向転換しながらこの街で寝床にしていた廃屋に逃げ込む。追手の殺しがないことを数分確認してからようやく少年を降ろす。少年はまだショックで口もきけぬようだったので、無言で持ち物にあった眠りを催おす薬草を煎じて茶にし、少年に渡す。

「今日は外に出るべきではない。これを飲んで寝ちまいな。」

一言言うと少年に背を向け寝床を作ってやる。振り返ると、険しい顔をした少年が空のコップを持っていた。

「君の家のように立派なものはないけどね、勘弁しておくれ。」

そういってコップを受け取るとようやく少年が口を開いた。

「助けていただき、ありがとうございました。」

まだ声変わりの終わっていない少年の、それでも存外落ち着いた声。

私は少年の眼を見て言った。

「別に大したことじゃないよ。それより、夜中に君みたいな餓鬼が治安のよくないあのあたりをうろつくなんて感心できないね。」

「…すみませんでした。俺の名前は陽俊ヤウシュン。えっと、貴女のお名前は…。」

「私はケイ。」

「倞さん。そのケガも、俺のせいで…。本当にすみません。」

「大したケガじゃないよ。私の弱さ故のケガだ。君の所為などではない。それよりもうさっさと寝な。私は奥の扉の近くにいるよ。追手が来たら起こすが起きなければ君は死ぬ。いいね?」

少年は少し緊張した面持ちで頷いた。それから即席の寝床に入るとすぐに寝息が聞こえてきた。私は奥の扉の前に座ると傷の手当てを始めた。左肩に刺さった矢を引き抜く。血があふれたが厚手の布できつく縛る。血は出ても大したことのないケガだ。問題は足だった。棘付きの短槍を引き抜くと中の棘は折れて残る仕様だろう。換気の良いところで火をおこし傷口を焼く。肉が焦げる匂いと言葉にならない激痛に顔をしかめる。声を上げないように布を口に押し込んでおいて正解だった。傷口が乾燥したころゆっくりと槍を抜くと、足にぽっかり穴が開きすぐに血が染み出してきた。これまた悲鳴を上げそうな痛みに耐えて消毒すると包帯を巻いた。包帯を巻く以外のことはできず、どうしようもなく痛いが、再生能力も高いこの便利な体だと2,3日で治るだろう。槍を抜かずに移動したおかげで血が流れず、追手に血の跡を辿られる可能性は低くなった。血でひどく汚れた服は部分を切り取り、予備の布を縫い付ける。そうして寝ずに一晩を明かした。

次の日の朝、無心で座っていた私の前にいつのまにか陽俊が座っていた。びっくりして思わず後ずさると全身が痛かった。

「おはようございます、倞さん。」

さわやかに挨拶をしてくるヤウシュンを見てため息をつく。

「おはよう。」

人とまさかこんな普通な挨拶を交わす日が来るとは。陽俊はぱっと表情を変えると途端に顔を曇らせた。

「ケガの具合、どうですか。やっぱり痛みますよね。」

そういって足にそっと手を置いた。振り払うと叱られた子犬のような表情になった陽俊は手を引っ込めた。

「ごめんなさい、つい。」

そのころころと変わる表情をみて私は少し楽しんでいた。

「別にいい。私は大丈夫。」

それから私の携帯食料を分け、もそもそと食べる。

「帰った後のことだがね、君は見たところ中流貴族あたりの家だろう。しばらく家でおとなしくしていればその内的から外れるから、おとなしく家にいるんだよ。」

ヤウシュンは頷いたが、手を止め、しばらく私の顔を見ていた。

「何だい、私の顔に何かついてるかい。」

「倞さんは、これからどうされるんですか?」

「私がすべきことをするだけさ。」

「それはあの人達と戦うってことですか?」

「まあ、必要があればね。」

「聞いていいのか分からないですが、何故ですか?」

「君に答える必要はない。君は何も知らぬ存ぜぬ、昨日起きたことはさっぱり忘れちまうのが幸せだよ。」

しばらく陽俊は黙っていた。そして顔を上げる。

「分かりました。でも何か、お手伝いできることはありませんか?俺のせいでこんなことになってしまったのですから…」

真摯な顔で見つめてくる陽俊。

「君、何もわかってないじゃないか。君の力は要らない。私は強いし、おまけに大体死なない。君がいると邪魔なんだ。さあ、そろそろ出発するよ。」

邪魔、もそうであるが人間に好かれない私はこんなに素直な少年に、これ以上関わっていたくなかった。だが陽俊は動かなかった。ばっと私に向き直ると私の眼を真っすぐに見た。

「分かってます…俺じゃなんの力にもならないことを。回りくどい言い方になってしまってごめんなさい。でも俺はあなたと友達になりたいのです。」

私は思わず目を剥いた。どのようなつもりで、訳も分からず殺されそうになって、知り合って数刻の愛想のない得体も知れない味方かもわからない女と友達になりたい?友達とは、何だ?

「倞さんが強い人だってことは知っています。でも少しの時間だけで分かったのです。ああ、この人すごく心が温かくて、優しい人なんだなあって。」

私は言葉も発せずに聞いていた。私が優しい?人の血が通わない私が?

「でも、」

と陽俊は続ける。

「あなたは一人だ。すごくすごく、寂しそうだ。」

私はあまり動くことのない表情筋がぴくりと動くのを感じた。

「私は望んで一人でいるんだ。寂しくないし、これでいいんだよ。私が優しいって?私があんたを助けた理由を教えてやろうか、あそこであんたを見殺しにしたって良かったが、あそこで生存者を出せば敵は焦るだろう。そうすれば尻尾を掴みやすくなると考えたのさ。私はそこまで計算してあんたを助けてる。これは善意じゃなくてただあんたの存在を利用してやっただけの事。何を勘違いしてるんだい、君。私はね、自分らしくいたいのさ。その道を塞ぐやつがいるならば、私は君でもやつらでも、何者もこの大槍のえさにしてやる。私はそういう者だ。これは警告だよ、私に関わるんじゃない。」

ぼろい部屋の隙間から朝日がのぞく。光を当ててみたヤウジュンの眼は見たこともない金色に輝いていた。

「分かってます。俺はその道を邪魔したいんじゃなくて、並んで歩きたいのです。」

だから、といいかけた陽俊に槍を向ける。怖い。この少年が怖い。小さな、出会ったばかりの何の力も持たない少年が、無邪気に私が昔捨てたものを後生大事に抱えて私に近づいている気がして。私にはもう二度と、取り戻すことはできないのに。私は前髪で顔を隠すようにして後ずさった。

「これ以上話すことは何もない。行くよ。」

それでも陽俊は動かない。あろうことか槍を向けた私に近づいて手を取った。

「倞さん、怖がらないでください。俺はあなたを、」

言葉が終わらないうちに手を振り払うと殺気を込めて睨みつける。

「うるさい。気持ち悪いやつだね君。これ以上何か抜かすなら、斬る。」

ようやく陽俊は立ち上がった。それから昨日場所を聞いた陽俊の家まで、一言も口を利かずに連れていった。家の前に着いたとき、その気配を感じて避けるが陽俊は気づかず、まともにびっくりする。

「うわああああ!フウ!もう、普通に降りてきてよ!びっくりするじゃないか。」

飌と呼ばれた、陽俊と同じくらいの少年は白い歯を見せて笑う。

「ごめんごめん!なんかもう癖でさ。ていうか、気付いたこのお姉さんすごいよね。とりあえずおかえり!陽俊。」

「ただいま、飌。こちら倞さん。昨夜助けてもらったんだ。」

私はとりあえず会釈するとくるりと背を向け、「じゃあ。」と言って歩き出す。「あっ」と引き留める声が聞こえる前に私は片足で踏み切り飛び上がると近くの建物の上に着地、走り出した。不思議を通りこして気味が悪い少年だったけど、もう二度と会うこともない。しかし心が少しでも動いたのは随分久しぶりだった。小さくお礼を言うと次の瞬間には頭の中から追い出す。もう関係ない。私に、戻ろう。体を抜けていく風にまた夏の匂いを感じて、呟いた。

「ああ、これだから夏は嫌いなんだ。」



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Defender of Indigo dragon? @ruuyakureaharu

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