陰口
どうにも、人の陰口を言う人間というものは気に食わない。言いたいことがあれば直接言えばいいのに、自分が敵を作りたくないのか、それとも直接言う度胸がないのかはわからないが、とにかく、そういう直接的ではなく間接的に、しかも当人に見えないところで誰かを罵倒する人間というのは嫌いだ。
否、嫌いなのではない。純粋に、陰口が怖くて仕方がないのだ。天網恢恢疎にして漏らさず、陰口を言えばそれもまた天は見ているのだ。別に、私は神を信じるわけではない。しかし陰口は、必ずどこかで聞かれているのである。
「マジで気に食わないよね」
女子高生は鏡を見て睫毛を直しながら、不服そうにそう呟く。それを聞いて、彼氏と思しき隣の男子高生は、スマートフォンをいじりながら頷く。
「まあそうだよな」
「でしょー? 何考えてんのかわかんないし、不気味っていうかさ」
「んー」
話を聞いているのかいないのか、男子高生の方はスマートフォンの画面から目を逸らすことなく、ひどく適当な相槌を打つ。女子高生の方も大差なく、鏡に映した自分の睫毛と格闘しながら、成立しているかもわからない会話を続けている。
――またか。
私は、ひどく落胆した。この電車ではどういうわけか、こうして堂々と陰口を叩く学生をよく見かけるのだ。
おそらく彼女は、同級生か、先輩か後輩か、それとも教師か、いずれにせよ、今日学校であった何かについて腹を立てているのだろう。そうして、時折ひどい言葉を交えながら、静まり返った電車内で、周りを気にするでもなく普通の音量でそういった会話をしている様は、つまりこの陰口に何一つ後ろめたいことを感じていないということの証左であった。
最近の若い子が恐ろしい、なんていう話はよく聞くが、彼女らは見ず知らずの私から見ても実に恐ろしい。自分がどれほど棘のある言葉を、それこそ当人が耳にすれば決して浅くはない傷を与えるであろう鋭い言葉を並べ立てているか、彼女は自覚していないのだ。彼女の隣に座っている老齢の女性は、その話がしっかり聞こえてしまっているが故か、時折眉を潜めながら、決して目を合わせぬよう反対側に視線を向けている。それほどまでに、彼女の言葉はひどいものであった。
恐ろしいのは、陰口というものは、直接相手に向けないがゆえにその言葉がどれだけエスカレートしても、それに対する罪悪感をそれほど感じることがないということであろうか。そして、恐ろしいのはもう一つ、それを間接的に聞いてしまっている人間が皆、敵に回るということだ。
先ほどの女性は不快そうに眉を潜めるばかりであるが、その隣の男性は明らかに先ほどよりも顔が険しくなっているし、逆側、男子高生の隣に座っている老人は今にも彼女らを怒鳴りつけそうなほどに青筋を立てている。無理もない、それほどまでに、彼女の言葉は不快極まりないのだ。
ああ、もうどうしようもない。
私は何もできない無力さを感じながら、遠慮がちに彼女らに向けていた視線を、ゆっくりと下に落とす。視界の端では、まだ彼女は私の知らぬ誰かへの陰口を続けている。恐ろしく、およそ健全とは言い難い罵詈雑言を、虚空へと向けて吐き続けている。
天網恢恢、疎にして漏らさず。
私は神も仏も信じないが、悪いことをしている人間が誰かに見られているということだけは、ずっと信じている。というより、信じざるを得ない。
プシュー、というブレーキを解除する音が聞こえて、ゆっくりと顔を上げる。どうやら駅に着いたようだ。彼女の後ろのガラス越しに見えるはずのホームは、見ることができない。なぜなら、ガラスを埋め尽くすようにぺったりと耳をつけて、無数の真っ黒で瞳のない、人の形をした何かが聞き耳を立てているのだ。
彼女はゆっくりと立ち上がり、駅のホームへと降りていく。そのあとをずらずらと、黒い何かがついていく。ああ、集まってきたのだな、と、私は見慣れた光景を目の当たりにして、ゆっくりと目を閉じる。きっと彼女は、過ぎた言葉の罰を受けるのだろう。
ほどなくして、反対側のホームから急ブレーキの音が聞こえた。通過するはずの電車が、大きな音を立ててゆっくりと速度を落としていく。先ほどの瞳のない黒い何かは、その電車とホームの隙間をのぞき込むようにわらわらと集まっている。
これが、神罰というものなのだろうか。
日常の中に潜むもの達 水智晶(みずちあきら) @Akira_Shino
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