第4話 遠ざかる、あなた
母さんのサンダルを引っ掛けて雪の吹き込む通路を俺はエレベーターホールへと走る。
「!」
いない。
エレベーターのいる階数を知らせるモニターは一階を表示していた。
眞が出て行ってから、わずかしか時間は経っていない。
もし眞がエレベーターに乗っていったのなら、このモニターはエレベーターの稼動を表示している筈だ。
俺は非常階段へと向かう。
小さなサンダルは足に合わなかった。
何度も蹴躓き、転びそうになる。
非常階段へ通じる鉄製の重いドアを開けて、俺は階下を見下ろした。
微かに聞こえる足音、俺は転がるように階段を駆け下りて行く。
「待てよ! 眞ッ!」
頭の中は未だに混乱したままだったけど、このまま眞との十数年に及ぶ関係を一方的に断ち切られるのは耐え難いと思った。
眞が俺に特別な感情を抱いていた、でも俺にとっては眞は大事な親友である事には変わりないじゃないか。
この数年会う機会がなくなってしまっても、俺は眞を忘れた事なんてなかった。
「由紀……さん?」
駆け下りてくる俺に気がついて、眞は足を止めている。
階段の踊り場で俺は止まり……それ以上なぜか近づく事ができなかった。
俺は膝に手を置き息を吐いた。
白い息が漏れる。
切れかけた蛍光灯が、音を立てて明滅する。
「バカ!」
俺は思わずそう叫んでいた。
眞は目を丸くする……そしてまた自嘲の笑みを浮かべていた。
「そうですね、僕は大馬鹿者です」
「違う、そういう事いってんじゃないっ!」
俺は大声で叫んだ。
「これで、これで終わりなのか…? 俺達ってもうこれでお終いなのかよ!」
「俺は…俺はおまえの事嫌いじゃない。ずっと友達でいたいって思っているよ、それなのに…っ」
続く言葉を制して眞は静かに言った。
「でも、あなたにとって僕は友達以上の存在じゃない。そう、ただの友達だ。僕にはそれが耐えられない。そんな形のまま、この先あなたの傍にいたとしても……辛い」
眞は、息をついた。
踊り場に吹き込んだ雪が、ちらちらと視界に舞った。
「僕のあなたへの気持ちは恐らく、この先も変わりません。それならいっそ、もうこれっきり会わない方がお互いの為だと思います」
「……だからさよならしましょう」
そう言って眞は悲しく微笑む。
「距離を置いてこの感情を醒まそうとしました……でも離れたらますますあなたのこと、気になって、苦しくて」
「……だからこの気持ちに決着をつけたかった」
「おまえ、勝手だッ」
俺は両の拳を強く握った。
伝えきれない思いがもどかしく、またその術を知らない自分に無性に腹が立った。
「もう帰って下さい、風邪引きますよ」
否定も肯定もせずに眞は言った。
「いやだ」
「由紀さん」
「いやだ!」
俺は己に言い聞かせた、絶対に帰らない。
俺の中で強い決意が階段を一歩一歩降りさせる。
吹き込む雪混じりの強い風が、俺の髪をなぶって通り過ぎて行った。
「取り消せよ。もう会わないっての、取り消せよ」
勝手なのはもしかしたら自分の方なのかもしれない。
今までの関係を強要する事によって眞を傷つけてしまうのかもしれない。
眞のいう通り、もう会わない方がお互いの為なのかもしれない。
でも。
「このままもう会えないなんて…嫌だ。嫌なんだ」
俺は眞へと歩み寄り、その胸を一度叩いた。
ふるえている。
俺、泣いている。
眞は俺の両肩を強く掴むと、俺を遠くへと押し戻した。
仰ぎ見た眞の目許が潤んでいる。
「でも……平気だったでしょう? この何年か会わずにいてもあなたは平気だったでしょう?」
「眞」
「僕を勝手だと言うのなら、由紀さん、あなたは優しくて、そして残酷です」
眞は言葉を静かに、しかし強い気持ちを込めて俺へ向ける。
「僕はもう後戻り出来ない所まで来てしまっているのに、もう戻れはしないのに。……あなたは僕にここへ留まれと……」
眞の感情が膨れ上がっていくのがわかった。
気圧されて一歩後ずさる。
でも眞も俺を追うように、ゆっくりと歩み寄った。
どくんと心臓が大きく脈打った。
身震いする。
寒さじゃなくて、もっと心の底からくる震え……。
視界が揺れた。
「そう、言うんですね、由紀さんあなたは……」
背中に踊り場の壁が当たった。
息をつめて見上げる俺の頬を、眞は両手で包み込んだ。
その仕草は優しく、向けられる目はひどく哀しい。
「あっ……」
頬に、こめかみに、瞼の上に。
よせられた唇が躊躇いがちに押しつけられて、想いの一欠片を刻んで離れていく。
俺たちは見つめ合った。
そしてゆっくりと重ね合わされる唇。
深く、呼吸もできない位に深く奪われていく。
さまよう手はしっかりとからめ取られ、冷たい風に晒されている体は懐深く抱き留められる。
熱い。
眞の想い、受け止めきれないほど深くて強い想い。
俺にはわからない。
それが悲しくて、切ない。
熱はやがて、そっと離れていく。
包まれていた間に感じていた暖かさは、吹き付ける冷たい風にあっという間に奪われた。
眞が見せているのはいつもの穏やかな表情だ。
俺は追うように一歩踏み出して、それ以上進むことが出来なかった。
コートのポケットに手を入れて、眞は踵を返した。
階段を降りて行くその足音を聞きながら、俺はその場に座り込んだ。
だんだん遠ざかる足音。
消えていく足音。
「バカ…ヤロ…」
雪の降りしきる音に紛れ、とうとう足音は聞こえなくなった。
吹き込む雪は俺の上に優しく降り積もりった。
震える両手、俺はその手で顔を覆って嗚咽する。
きっと同じように、眞の上にもこの純白の雪は降っている。
ふと口をついて出たのは、あの歌。
どこにでもあるような、他愛もないラブソング。
(由紀さんにも聞いてほしくて)
そう眞は言っていた。
どんな気持ちで、どれ程までに想い、焦がれて、そうして去っていったのだろう。
俺は心に浮かぶメロディを口ずさんだ。
この雪の降りしきる空の下、遠ざかる彼の人へ届くようにと。
ユキソラ・コンフリクト 花野宵闇 @shinzi
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