烏と林檎

黎明

烏と林檎

 綺麗な深緋ふかひをした一つの林檎を見つけたのは一匹の美しい濡れ羽色の翼を持つ、剛悍ごうかんなる烏だった。烏はその林檎を見つけると体をひるがえし、その立派な双翼を伸ばして、ものの二、三秒というほんの一瞬で地に落ちた林檎を鷲掴みにして空高く舞い上がった。あしゆびで握った林檎は艶めいている。烏は慊焉けんえんとした顔つきをして、自分でも気づかないほどのほんの少し心にあった射幸心が満たされた。

 羽毛が風でなびき、斜陽に照らされた羽毛の群が燐光りんこうを発する。趾で握る林檎が微かに動いたような気がした。烏は難しく眉をひそめると、くちばしの尖端を林檎に向けた。

 林檎は穏やかな口調で言った。

「私を食べるのかい、烏さん」

 林檎は冷徹れいてつな眼差しで烏を見た。妙に落ち着いていた。逆にそれが烏にとって気味悪かった。烏は林檎を一瞥いちべつし、はいとだけぶっきらぼうにこたえた。そうか、そうかと林檎は烏の硬い拳のなかで頷いた。

「この先、生きていようが、死んでいようが変わらんものだよ。到底、こんな体さ。ろくな暇つぶしだって出来やしない。いつも空を眺めていた。なぁにそれくらいしかやることがなかったからね」

 林檎の声の響きは粛然しゅくぜんとしていた。もう自分の死を意識しているようだった。また、つられてこっちも息苦しくなるような重く心にのしかかる、そんな不思議な声でもあった。

剛毅ごうきのある鷹や、美しいみさご。様々な鳥が私の頭上を飛び交い、見ているだけで日頃の退屈を紛らわせることができたよ」

 烏には林檎が孤独感をなんとか瞞着まんちゃくしているように見えてならなかった。自分が握りしめているこの拳が林檎の心に僅かに残った希望を握りしめているようにも思えた。

 林檎はさらに続ける。

「私がずっと未熟な頃、枝に下がりながら、よく自分が空を飛べればなぁとよく思ったものだよ」

 林檎は懐かしそうに言いながらも、やはり言葉には悲哀の念が籠っていた。

「それはなぜですか?空を飛んだって何も得られないですよ。ただひたすらに風を切って進むだけです。面白さの欠片もありません」

 珍しく烏は口を開いた。林檎の話に納得がいかなかったからだ。

 林檎は烏の言葉を優しく否定する。

「それは君が鳥だからさ。君は飛ぶことに慣れてしまっているからそう思うんだろうね。でもね、飛べるっていうのは誇っていいことなんだよ。君たち鳥類にしか神は翼を授けなかったんだからね。ようするに君は選ばれた者の一人ってことさ。君は君だから特別なんだよ」

 いつの間にかあたりは夕闇に包まれていた。

 しばらく、二人は黙った。

 烏は林檎を食べるのが、嫌になった。どうにかして林檎を食べずにおわれないだろうか。烏は考えた。

 だが様々なリスクを考えると、うまく纏まらなかった。

「最後に夢が叶ったよ。来世は君と一緒に空を飛びたいな」

 林檎は静かに言った。林檎は完全に死を覚悟していた。

 この烏になら食べられてもいいと思った。

 烏は決心した。烏は川の横に降り立った。濺濺せんせんと流れる川によどみはない。

「自分はただの未熟者です。手にした獲物に情をかけ、食べることも出来ない。だから、あなたは違う世界をもっと見てきてください。私は一人前になればあなたを探しにいきます。必ず見つけます」

 烏はさらに続けた。

「あなたと同じで私も生きる意味がわかりませんでした。ですが、あなたの言ったように翼を持つことに誇りを抱き、自分は自分らしく生きることが大切だと学びました」

 林檎は黙って、烏の話を聞いていた。

「私はあなたが生きる意味とあなた自身を見つけます」

 それから烏は林檎を優しくくわえると、水の流れに林檎をのせた。

 林檎はなにも言わなかった。烏がやることに身をゆだねた。林檎は水にのって川を下っていった。その小さな背中がもっと小さくなって、見えなくなるまで烏は川の側に佇んでいた。

 烏の抱いた射幸心はすっかり崩れていた。

 ゆっくりと羽を広げ、烏は自分の立派な双翼を見て微笑み、翼を羽ばたかせた。

 烏の濡れ羽色の体は闇に溶け、夜闇やあんの中を音もなく、飛んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

烏と林檎 黎明 @reimeinet

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ