丘の上

鹽夜亮

丘の上

 良い場所だ、空を見上げながらそう思った。夜中に家を抜け出すのは、そう難しいことではなかった。少し倉庫を漁るのに手間取ったが、幸いもう家族は寝ている時間であったから、無駄な音だけ立てないように行動するだけで目的は達せられた。

「ん…しょっと。」

 年寄り臭い声と共に、柔らかな地面へと腰を下ろす。普段であれば虫が居るかどうか気にしてしまう場面だが、今となっては手を這うそれさえも愛おしく感じた。地面に付いた両の掌の皮膚に、小石が食い込む。少し痛むが、どことなく懐かしい感じがした。きっと小さい頃、よく感じたことのある感触だったからだ。

 そよぐ夜風が木々の間を通り抜け、遠くにある小さな沢から柔らかな水音を運んでくる。どれもこれも、自分が望んだものすべてで、それはこれほどにも近くに存在していたのだった。望むべくものはいくらでも用意されているが、何一つ手に入らない。そう誰しもが嘆く世の中だったが、それは大きな間違いだったのだ。

「汝、遠く彷徨出んとするか。ならば身の回りを良く探せ。幸福は近くにあらば。」

 確かゲーテがこのようなことを言っていたなと、うろ覚えに反芻した。どこにでもある、ただそれだけの存在というものが、もっとも我々が望むべきものの主体なのである。つまるところ、それは一言で言いくるめれば、私にとっては自然であった。どこまでも人間というものの意味を還元していけば、たどり着くものはきっとそこにある。我々には空より生まれ来て、土へと還る道しか用意されていない。その普遍的な事実を考えれば、物事は酷く単純で、小難しく目新しい物など必要もなくなるのだ。

 きっと今この時間も電気に囲まれて過ごしている人々は、不幸にも物が増えすぎたこの現代の犠牲者だ。加害者ではなく、不幸な犠牲者だ。これほどまでの幸福を享受できず、大半は気づく事もなくこの世を去っていくのだから、それこそ同情せねばなるまい。

 目を閉じて、息を深く吸い込むと、なんともいえない自然の香りが鼻腔を刺激した。この香りが好きで、しばしば自室の窓をあけて、夜中に堪能したものだった。三回…四回だろうか?数などどうでもいいが、深呼吸をした後、目を開く。眼前に広がる夜空は、満月を中心に据え、ただ静かに私を見下ろしていた。なんと美しいのだろう。どう言葉を尽くせば、どれほど力を労せば、この美しさを語り尽くす事ができるのだろうか。

 下調べをして、今夜を選んだ甲斐もあったものだ。時は秋の終わり。中秋の名月といえば団子を食べて、縁側でゆったりと楽しみたいところだが、山中で一人静かに眺めるのも良いものだ。携帯は家に置いてきたから、時間は確認できない。それに、そんなものはこの大自然の中で無粋というやつだ。あまりにも現代という時代と不釣り合いな考えに、私は一人、少しだけ笑った。本当に久しぶりに心の底から笑った。その笑みの正体が、自嘲であることが心の端のどこかを少しだけ痛めつけた。この小さな笑い声を、もしかしたら誰かがどこかで聞いていてくれはしないだろうか、そして私という矮小な存在に目を向け、肩を抱いてはくれないだろうか、と頭の片隅で考えた。

 いつまでも幼稚に子供のように純粋に、そんな存在が現れる事を望んでいた。どこまでも頼り切れるような、すべてを打ち明けても認めてくれるような、人物に出会うことを夢見ていた。そんなことは無理だとわかっていても、必要もないとわかっていても、どうしても望んでしまうのだった。私はどこまでも、ただの弱い凡人に過ぎなかった。これは私が短い生涯で得た確信だった。それに、あともう1つ、特別な人間など存在しないということも、確信だった。そもそも、我々が今考える特別な人間という概念自体、実に怪しいものに他ならなかった。価値観の崩壊した世界では、そういった概念は一様に意味がない。

 「普通」が高騰しすぎて崩壊した世界の特別が、なんの意味を持ちうるというのか。結局、この世界では人は自分を制御しているつもりになって、ただ仮面をすげ替えているだけなのだ。この世界の特別も、その仮面が幾分他者のものより造形に優れているに過ぎない。中身はどれもほとんど変わらず、仮面を取り払えば、そこには醜い猿が嗤っているだけだ。その仮面がいかに綺麗で素晴らしいからといって、素顔はいつでも変わらずにそこにあるのだ。それを自分でさえ認めたくなかったとしても、あるべき物はあるべき場所に、ただあり続ける。

 我々は、それを意識することなく生きている。利口とは、この価値観の世界ではそういうものだ。この利口さを会得しないものは、この世界では何も信じる事もできず、自らの成長という幼い頃から散々に叩き込まれる思想も、意味をなさない。やがてその思想は、希望という大きな光となり、人を生涯の旅路へと押し出すものであるというのに。しかし、それはどこまでも、現世的で、移り変わる世界に服従するための、体のいい鎖に過ぎない。鎖を纏う限り、今自分の目の前にある惨劇や幸福以外、それ以上のものを目にする事はあり得ない。見知った悲劇は確かに悲劇だが、驚くにも悲しむにも値しない。ただ新しいものこそ、本当の感情を揺さぶるのに値する。

 もう一度言うが、我々はどこまでも臆病で、そしてそれに気づかないように生きている。幸福なことにただ私という存在が、暇な時間と少しばかりの自己嫌悪を抱えたためだけに、それに気づいただけの話だ。もう嫌という程に気づかされた。ただそれだけのことだった。この仮面という存在が、多くの人にとって望ましいことであるのか、それとも忌むべきことであるのか、それは私にはもうわからないことだった。きっといつか、どこかの心理学者が、解決してくれるだろう。もしかしたら、それは哲学者かもしれない。あわよくば、体よくこの世界の価値観に沿った形でその解決は訪れるのかもしれない。そうしたら、もっと人は生きやすい世界になるのかもしれないし、そうでないかもしれない。だからといって少なくとも、今の私には必要もないし、関係もないことだ。私は確かに気づいたが、だからといってこの価値観に沿う何かを作り出す気力はない。物事を作り出すという行為は、どこまで真剣に考えることが出来たか、その物事にどこまで労力をさく事が出来たかの結果だ。その労力というものを費やすのに値するか否かを判断した結果、私はそれを否定したまでの話だ。

 私は周囲に存在する人という生物を、高次元の何かに昇華させるために手を貸すのは、まっぴらごめんだった。ただ単純に、明解に、そしてそれゆえに決定的に、それがそうであったというだけのことだ。馬鹿げた物思いに耽る時間は過剰な幸福と苦悩を私にもたらし続けたが、幸福の享受にも労力は必要だ。もう、時間がない。正確にいえば、もう時間は必要ない。

 今一度、深呼吸をした。中秋の名月は、清らかな月光を大地に注ぐ。それに答えるように、夜風が優しく森を撫でた。ああ、このときのためだけに、私は生きてきたのだ、と思う。傍らに置いた猟銃を手に取る。それは思いのほか長く、確かな質量を私の腕に伝えてきた。幼少の時、これをメンテナンスする祖父の横で、興味津々に眺めたことを思い出す。

 希望に満ちた強いヒーローは、どうやら今、悪役を殺すそうだ。

 きっと彼は喜んでくれるだろう。悪役はいつだって負けるべきで、ヒーローはいつだって勝つべきなのだ。私はヒーローにはなれなかったよ。この肉を捨てた後、もし可能なら神にでも悪魔にでも掛け合って、希望に心を満たしていた彼に、伝えにいこう。いつだってヒーローは勝つのだから、どんなときだってそうなのだから、安心して良いのだよと。

 ストックを地面にしっかり突き刺し、銃口を咥える。硝煙のような香りと、鉄の味が妙に生々しく感じられた。森の香りを遮られたことが、ほんの少し不愉快だった。ここでも人工物は、私を邪魔し、そして救済するのだと思うと、最高に愉快な皮肉だった。右腕を伸ばしてみたものの、引き金は腕で引くには遠すぎる。こういうときに便利な拳銃でも手に入れば良かったのだが、日本ではそうもいかない。少々不格好だが仕方がないと考え、靴を脱ぐ。どうやらウェルテルように美しく消えることは、私には出来ないらしい。足の指を引き金に添えた。貴方は足癖が悪いわね、という誰かの声が脳裏をよぎった。その誰かを、誰であるのか私は知っているが、もう考えるべきではない。無駄な思考を脳から追い払う。そして、今一度、空を見上げた。月は変わらず、輝いている。

 この世のすべてが目の前に広がっているような錯覚を覚えた。すべてをつかみ取ることが出来たような感触を掌に感じた。すべてが満たされたような幸福が心の隅々に渡るまで駆け抜けた。私がこの世界で最後に見た景色は、私にはもったいないほどに、最後まで残酷に美しかった。

「つひにいく道とは常に聞きしかど昨日今日とは思いざりしを」

 格好をつけてもいいだろう。どうせ誰も聞いていやしないのだから。洒落た上の句を投げかけてくれる人は、どこにも居なかったから、好きだった太田道灌の句は詠めなかった。業平のように色男でもないが、天界の彼はきっと笑って許してくれるだろう。

 それでは、おやすみなさい。私の憎んだ全てと愛した全てに有らん限りの幸福を。

 私は足の親指で引き金を引いた。

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丘の上 鹽夜亮 @yuu1201

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