月華追憶
玉簾連雀
月華追憶
その夜は、湿度の高い夜だった。雲に隠れがちな月が、朧げな光を地上に投げかけている。
(それにしても、だ)
嫌な空気だ。風が止み、どろりと生暖かい大気が澱んでいる。微かな月光が、雲に遮られた。無意識に足を速める。明かりの少ないビルの群れ、その隙間の、細い道へ。
「…………ッ!」
依子は立ち止まった。彼女の嗅覚は、今、確かに鉄の香りを捉えた。血の臭いを。
「……おいおい」
勘弁してくれ、と心中ごちながら、辺りを警戒する。曲がりくねった路地、その先へ続く血痕。全身の感覚を研ぎ澄ます。……この先にあるのは、今まで感じたことがないほど、禍々しいモノ。恐ろしいほどの強烈な気配が、闇の中で身じろいだ。
依子は、一瞬だけ逡巡した。先程別れた友人。これから帰る、自分の家のこと。胸の迷いは斬って捨てる。覚悟は、とうに済ませた。
依子は自らの胸元の赤い宝石手から、一振りの剣を取り出す。赫い刃が、闇を裂いて空を鳴らした。下段に構え、路地の闇の先へ。血が、一段と濃く薫った。
月明かりの消えた夜闇の中、蹲る人影。用心深く、数歩近づく。依子はそこで足を止めた。触れられそうなほどの殺気が突き刺さる。凄まじいプレッシャー。人影が身じろぎした。濃厚な血の臭いが周囲に広がる。
「……あんた、何」
赤く染まった白装束。透けるような銀の髪。翠玉の瞳が、緩慢に依子を捉える。
暗がりの中、掠れかけた声で、血濡れの少女が問うた。
「…………ッ!」
依子は、刀を力いっぱい握り締めた。必死で抗わなければ、ソレの殺意に呑まれる。
依子が瞬きもせず、歯を食いしばって己の恐怖と戦っている間に、その少女のカタチをしたものは、ゆらり、と身を起こす。
「お前……その刀……」
立ち上がった少女は、眉根を寄せて依子を見た。しかし直ぐに怪訝な表情は消え、虚ろな無表情になった。
「……まあ、いいや。……お前、戦える……?」
少女の翠緑の双眸が、すっと細まる。相手の手に血塗れの刀を認め、やっと依子の硬直が解けた。
「おい、アンタ。一体何者……ッ!?」
銀色の髪が、流星の如く夜を裂く。直後、依子の刀が跳ね上がり、高い金属音を立てて路地に転がった。
その、一瞬の交錯の間、依子は動けなかった。尋常ならざる殺気に呑まれただけでなく、少女の太刀筋が、全く視認できなかったのだ。
「……?」
淡く発光する刃は、依子の首を刎ねる直前で静止していた。
白い少女は首を傾げる。何度か腕に力を入れたが、刀は頑として動かない。
少女はため息をついて刀を下ろした。
「なんだ……また、駄目だった」
急激に膨れ上がった殺気は、あっさりと消えた。凄まじいプレッシャーから解放された依子は、よろよろと後ずさり、弾かれた刀を取り戻す。その間、少女はただぼんやりと、依子を目で追っているだけだった。
暗い路地裏を、静寂が包む。依子は、自分と刀にダメージがない事を確認し、何度か深呼吸をした。
意を決して、動作を停止している少女に語りかける。
「お……おい。アンタ、一体何者だッ!」
語尾が震えるのはどうにか阻止した。白い少女は、小首を傾げて依子を見た。深く澄んだ、底知れぬ翠い瞳。
「私……は……」
細い声は、意外なほど宵闇に良く通った。
「
白銀は、今度はしっかりと依子を見据えて言った。
「君は、
「え?あ……えーっと……」
予想外の質問に、依子は言葉に詰まる。そもそも、依子の問いに、白銀は根本的な所で答えていない。
そんな依子には構わず、白銀は、より滑らかに言葉を継ぐ。
「違うか。なら、同業者と言った所か?まあ何にせよ、ただの女学生ではないね?パトロールでもしていたのかい?……なら、心配は要らないよ」
白銀は、血の気が失せた顔に、微笑の成れの果てのようなモノを浮かべた。
「この辺をうろついてた魑魅魍魎の類いは、あらかた喰ってしまったよ。もののついでに小夜織も何人か殴ったか。全く、話を聞く気がないんだ、ああいう手合いは。まあ暴れてたのはオレだが……ああ、人間は殺してない。さっきの調子で、全員仕留め損なった」
依子に口をはさむ機会を与えず、かつ依子が最低限確認したかったところをおよそ話し終え、白銀はやっと黙る。話す内に、先ほどの異常な威圧感は薄れ、顔色も戻って、より人間らしくなっていく。
しかし話の内容的に、油断のならない相手であることに変わりはないようだった……少なくとも、殺されかけた依子は、到底この人物に背中を見せる気にはならなかった。本当なら今すぐ自宅に全速力(依子はクラスの大多数の男子より足が速い)で直帰し、夕飯と風呂を済ませ、友人に暫しの音信不通を詫びるメールでもしてさっさと布団に潜り込みたい所だったが、依子は己を奮い立たせ、この危険人物を問いただす。
「そ、そうか、オッケー、大体わかった。……いや、やっぱわからん……ええと、アタシが聞きたかったのは、アンタは一体なんで、そんな辻斬りみたいなことをしてたのかっていう、そこんところなんだけど」
「八つ当たり」
白銀は即答した。
「バッド入っちまったから、憂さ晴らし。効果と結果は、まあ、ご覧の有り様。……まあ、その一環でこの辺りの『悪いモノ』は大体片付けたから、プラマイゼロってことで、どう?」
小首を傾げ、悪戯っぽく笑う。意地悪く、でも無邪気な子供のようで、それでいて艶っぽい笑み。人を狂わせるような、魔性のそれ。
笑い事じゃない、と思いながら、依子は心のどこかで白銀を許してしまっている自分を発見し、脱力した。先程の緊張の反動で、疲れがどっと押し寄せる。
せめて、へたり込む代わりに問う。
「それで、アンタ、八つ当たりはこれで仕舞いにしてくれるのかい?」
白銀は頷いた。
「うん、止めにする。小夜織レベルの退魔師じゃオレを殺せないってわかったし。そもそもオレ、出来もしない自殺を試みるよりもっと他にやることあったし」
白銀は刀を鞘に収め、それを持ったまま、その場でくるりと一回転した。すると、一瞬なびいた白装束は闇に溶けるように消え、代わりに動きやすそうなジ
ャケット姿が現れた。武装を解除した白銀の姿に、依子は驚く。
「アンタ、その髪と目」
白銀色の髪はダークカラーに、翡翠色の瞳は、底知れぬ、暗い色に変化していた。
「こっちが元々。両方気に入ってるんだけどね。君も素敵じゃないか……君のそれ、自前かい」
「ああ、うん」
依子は、自分の明るいショートヘアに触れる。
「代々遺伝でさ。別に、帰国子女ってわけじゃないんだけどねぇ」
その時、不意に雲が切れ、滲むような月明かりが依子達を照らした。地面と白銀を染めていた血痕が、ゆっくりと蒸発していった。
依子は空を仰ぎ見る。
「……今夜は、綺麗な朧月だな」
さらり、と金色の髪が流れ、月明かりに煌めいた。見上げる深い青緑色の瞳が、光を映しこむ。
白銀が、小さく息を呑んだ。
「どうした?」
振り返った依子に、白銀は呟くように言った。
「君は」
暗い色の瞳に、一瞬、緑の光がちらつく。
「……君は、依子か……?」
依子は一瞬、驚いた顔をして、それから不敵な笑みを浮かべた。
「そうさ。アタシは四代目『津雲依子』。
と。首から下げた砂除けゴーグルを見せ付けるように胸を張り、依子は名乗った。
「依子」
白銀は、確かめる様に名前を呼んだ。
「白銀……?」
どこか張り詰めたような、泣き出しそうな目で。
「依子……依子、」
尚も、白銀は名前を呼んだ。白銀の瞳に、抑えきれない感情がよぎった。
ただならない白銀の様子に戸惑う依子の前で、白銀は目を閉じた。小さく苦笑のようなものを浮かべ、また、ゆっくりと目を開いて、
「……りこピン、だな」
「え?」
唐突にそう言った。
「君のあだ名。今決めた」
困惑する依子に、白銀は少し笑う。
「ま、親愛の証に、ね」
どこか含みのある微笑に、依子は、どこか孤独な陰りを見た。
依子は一瞬考え、そして白銀に言った。
「オッケー。じゃ、アンタのことは銀ちゃんって呼ぶよ」
「え、ええ?」
今度は白銀が困惑する番だった。謎めいた微笑が消え、代わりに浮かんだ焦った表情は、依子と同じ、ごく普通の少女のものだった。
依子は、ガハハ、と豪快に笑う。
「あだ名で呼び合うとか、なんかむず痒いねえ!」
「い、いや、銀ちゃんて、なんかその、色々と誤解されそうな……」
もごもごと何事か呟く白銀に手を差し出す。
「ま、悪くないよ、こういうの」
白銀は、呆気に取られて突き出された手を見つめ、それから呆れた顔をした。
「あのさあ、オレが言えた事じゃないんだけど、君、ちょっと大雑把というか、自由っていうか……」
「いいじゃん、あだ名を決めて来たのはそっちなんだから。大体、アンタがわけわからな過ぎなんだよ。なんだよ、八つ当たりって。こちとら、全然納得出来ないっての」
依子は笑う。心底楽しそうに笑う。
「まあ、色々聞きたいこともあるし、さ」
「今は聞かないのか……」
「なんか込み入ってそうだし。思いやりだ、優しさだよ」
「ありがたいことで……」
白銀は、依子の手を取った。
「……『親愛の証』?」
「友達になろうぜ、的な」
「今時何て陳腐な台詞を……」
ぼやきながら、白銀は堪えきれないように笑った。
「剣を交えて……名前を呼んで……握手で、友達……くくっ」
「あー、今アタシすげえ青春してるわ」
「ふ、くくくっ」
「何笑って、くっ……フフッ」
依子もつられて笑い出す。しばらく二人で笑い、それから、白銀がぽつりと言った。
「そういうとこ、変わらないね」
「え?」
聞き返した依子に、白銀はくすりと笑って答えた。
「何でもない。……それよか君、君の未来を教えてあげようか」
「は……?」
依子は白銀の底知れない瞳を見つめた。
「君の子供も、『津雲依子』を継いで、元気に跳ね回ってる」
「え?」
「オレの占い、よく当たるの。……ま、オレのわけわかんないのは、またおいおい話すさ……君の言う通り、込み入ってる」
白銀は、薄闇の路地を歩き出した。街明かりの方へ。
「君、数日の間に、間違いなく次の厄介ごとに捕まるぜ」
依子は追いつきながら尋ねた。
「マジかよ……どんなの?」
「さあ。そこまではわかんね」
白銀は肩を竦めた。
「まあ、ピンチになろうがなるまいが、助太刀に行くよ。そん時にまた色々話すさ」
路地を抜け、明るい通りへ。
「今はお互い帰って休もうぜ。オレもちょっと、色々……整理したいしね」
依子は立ち止まった。
「口約束だけかい?」
白銀は困ったような顔をした。
「いや……他に何かあるの……?」
依子は小指を立ててみせた。白銀は、ため息をつくと黙って小指を出した。
「ゆーびきーりげんまん、嘘ついたら……」
依子がにやりとした。
「退魔の一族だからな、おまじない系はマジだよ」
「指切り怖えー……」
「はーり千本のーますっ」
二人の声が重なる。
「ゆーび切った!」
白銀が片手を上げた。
「それじゃ、今日はここで」
依子は手を振って、家路へと歩いていく。
「それじゃあね!」
歩き去る姿を、白銀は束の間、見送る。
そして、空を仰いだ。夜空に浮かぶ朧月には、薄っすらと環虹がかかっていた。
「……依子」
小さく呟く。
「君の未来は、こんなにも……」
こんなにも、ひかりに満ちて。
かつて、その幸せを願った少女のことを……時の彼方で散っていった、眩しい姿を想う。
白銀は柔らかな
月華追憶 玉簾連雀 @piyooru
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