蝶
鹽夜亮
蝶
午頃に目を覚ますと、たっぷり眠ったのにも関わらず、彼は倦怠に近い睡眠欲を感じるのが常だった。コーヒーを啜りながら、彼の身体は、吸い寄せられるように絨毯の上へと横たわった。彼にはこのとき、脳が鬱血しているような気がしてならなかった。滞った血流が、脳のどこかで沈殿している、そんな気がしてならなかった。
この脳の鬱血を思う時、彼は一種の快楽を感じた。それはむずがゆく、脳髄の裏を鴉の羽で撫でるような、背徳的な快楽であった。それと同時に、その背徳的な快楽は嫌悪感にも限りなく隣接していた。この奇妙な感覚を、彼は好んでいた。
彼は横たわったまま、重い頭だけを動かして、窓越しに庭を眺める事にした。眼前には南天と百日紅がその静脈のように伸びた枝を日光に晒している。遠くに目をやると、晴天を裁断する電線の上に、鴉が一羽止まっている。彼にはその鴉がこちらをジッと見つめているように感じられた。
どこかバツの悪さを感じた彼は、視線を南天の元へと戻した。すると、そこにカラスアゲハが一羽、ひらひらと舞っていた。常には虫を嫌う彼も、この、華やかな色彩から見捨てられた蝶にだけは、一方的な共感を覚えていた。蝶は、一度だけ網戸にとまって自慢げに漆黒とも濃紺とも言える羽を開閉し、何度かそれを続けた後、どこかへ向かって飛び去って行った。
彼は、この蝶の来訪するのを、心のどこかで待ち望むようになった。しかし、その夏の間、もう一度として蝶が彼に羽を見せつけに来る事はなかった。かわりに、久方ぶりに彼が庭へ空気を吸いにいった時、黒い羽をボロボロに擦り切らせた無惨な蝶の死体が、一つ、玄関のタイルの上に張り付いていた。その近くの花の周囲に、アゲハチョウが一匹、ひらひらと舞っていた。日光に照らされ、劇的なまでに色彩豊かに輝いているそれは、彼にとってタイルにへばりついたカラスアゲハの死体よりもグロテスクに映った。
彼は、幾度かその二つを見比べた後、猛烈な吐き気と頭痛に襲われ、そそくさと玄関の中へ引き下がった。
蝶 鹽夜亮 @yuu1201
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