#2
ステアリングを握る博人は、何というきっかけもなく、誰かの視線を感じた。
そしてその感覚のままに、首をめぐらした。
ガラス張りの小さなカフェの窓辺の席に、さほ子が、いた。
博人もまた、からだが固まるような気持ちを味わった。
さほ子と彼の間には、背中を向けた子どもがひとり。おそらく彼女のふたりいる息子のどちらかだろうと、勤めて冷静を装って彼は思考した。
ふたりとも、一瞬の間、表情を失った。
階段室での抱擁。下着写真の携帯メール。路面電車のホームでのすれ違い。ペチカと蘇州夜曲とシャボン玉。
ふたりのストーリーが、交差した視線の中間で、いくつもフラッシュバックした。
忘れられないいくつもの瞬間と、交わした言葉。
「ママー」と、下の子がさほ子を呼ぶ。
見ると、彼の口の中で、ジャガイモが溢れそうになっていた。
さほ子は彼の口の下に右手を差し出した。
「出していいのよ」
と彼女は言った。息子は舌でジャガイモを押し出した。
固まった表情を解いて、子どもに手を差し伸べるさほ子。
小さく微笑んで、やさしく甘い顔になった彼女。
あぁ、そうか、と博人は思う。
と、クラクションが背中で鳴った。
見ると、信号が青になっていた。
博人はあわててシフトを入れると、ギアをつなぎ、オープンカーを発進させた。
手のひらに出された大ぶりのジャガイモを紙ナプキンに包んで、さほ子はもう一度、窓の外を見た。
博人のクルマは、もうなかった。
宅急便のバン。黄色の軽自動車。オリーブ色の、駐留軍のジープ。見知らぬクルマたちが、坂道をゆっくりと下っていた。
いつもの日常が、そこにあった。
さほ子はもう一度、クラムチャウダーをゆっくりとかき混ぜた。
ベーコンやあさりが、また、スープの表面に顔を出しては消えていった。
博人との物語が終わってから、憑き物がおちたように、さほ子は婚外に恋人をもつことをやめた。それは意識してなされたことでなく、ただ、必要がなくなったのだった。性的な冒険に興味が尽きたということでもあるし、男性と恋のさや当てをすることに興味を持てなくなったということもできる。
いずれにせよ、博人は彼女にとってちいさなきっかけだった。
あの時、階段室で互いの人生が遠くまで見渡せた瞬間が、おそらく彼との本当の意味でのクライマックスだったのだろう。
そこで、やってきたブランコに飛び乗れなかったのは、ふたりの呼吸が合わなかったからだ。
そして時は過ぎ、すべては乾いた思い出になった。あんなにも、胸を焦がした出来事は、静かな回想の一場面となった。
まるで、クラムチャウダーのカップをかき回すと、現れては消える、ベーコンやあさり達のように。
それは、陳腐化した、ということではない。
ベーコンもあさりも、クラムチャウダーには欠かせない材料であるのと同じように、いまのさほ子を形作るのに無駄なことなど、何一つないのだ。
あの頃よりも、より魅力的な自分になれただろうか、とさほ子は思う。
博人は、自分をひとつ、成長させてくれたあの優しい彼もまた、倖せになってくれていればいいのだが、とさほ子は思う。
「ママー」
と、息子が呼ぶ。
ほぼ食べつくしてしまったカップのなかに、彼にはすくえない幾つかのスープの実(ベーコンやあさりや玉ねぎやジャガイモといった、大切な脇役達)が残っていた。
さほ子は下の子からスプーンを借りると、そのひとつひとつをすくっては、息子の口に入れてあげた。
さよなら、と、さほ子は心の中で言った。ありがとう、と、そしてつづけた。
愛し、愛されたこともすべては、一杯のクラムチャウダーに回帰するのだ、とさほ子は思った。
愛し、愛され フカイ @fukai
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