出張と氷コーヒーとおみやげの話
今日の美晴さんは、ご機嫌が斜めらしい。
聞けば、朝一番によもぎ先輩に振られ、洗濯物を干し始めれば雨にも降られ。
ふられてばかりです、と連絡が入ったのは、ついさっきのこと。
顔は見ていないけれど、きっとショボくれた顔をしているのだろうなぁ、と彼女の様子を勝手に想像して、思わず頬が緩む。
決して面白くて笑っているのではない。それだけは断じて違う。
そう、これは
「何をにやにやしてんだ? 秋川」
スマホを弄りながら笑っていた僕に、同期の中島が中腰で膝に手を当てて声をかける。
「いや、ちょっとうちの奥さんが可愛くて」
「惚気かよ」
「違うよ、ただの感想」
「ふうん。ま、別になんでもいいけど。で、どうする? どこ入る?」
店前におかれたメニュー看板を覗き込んでいた上体を持ち上げて、中島がメニューを指差して僕を見やる。
「ザ喫茶店、って感じが嫌じゃないならここで良いんじゃないかな。ほら、中島の好きそうなナポリタンじゃないか」
「よし、じゃ此処で決定な。んで、飯食ったら土産買ってちょうど新幹線の時間になるだろ」
「そうだね」
ー 博多銘菓のひよ子が食べたいです。
ー いまの季節だと、茶ひよ子なんですよ。
ー 新茶の香りと……あと、皮が好きなんです。
席につきながら、家を出るときに美晴さんと話していたことを思い出す。
空港か、駅か。はたまた、デパートか。
どこかしらに寄る時間があるだろう。
そう考え、ここからすぐ近くの買える店舗で買わなかったことを、僕は後々にとても後悔をしたのである。
「……ごめんね、美晴さん……」
「茶ひよ子……福岡限定の……季節限定の……」
玄関先で、帰宅した僕を出迎えた美晴さんは、珍しいほどに落ちこんでいる。
それなりに長く彼女を見てきていたつもりだったけれど、僕もまだまだ彼女の知らないところがあるらしい。
落ちこんでいる美晴さんにはとても悪いとは思うものの、美晴さんの好きものをまた一つ知れた僕は、一人で勝手に嬉しくなっていたり。
「美晴さん」
「……何でしょう」
「代わりに、こちらなんていかがでしょうか」
「これは」
「東京駅限定、だそうなんですが」
美晴さんの小さな手に、黒い四角い箱を置けば、美晴さんの瞳と表情が輝く。
「君は、これを食べたことは?」
「僕? 僕はないよ。初めて見たから買ってきたのだけど……どうかな」
少しは気分が戻るだろうか、と彼女をちらりと見れば、美晴さんは嬉しそうにうなずく。
「二人で初めまして、ですね」
黒い小さな箱を手に笑った美晴さんに、出張で疲れていた身体のだるさも、どこかに吹き飛んでしまったような、そんな気がした。
「少しいいかしら?」
床に座り込みスーツケースの中身を出している僕の背に、美晴さんの声がかかる。
「ん? なんだい美晴さん。何かあった?」
「ううん。ただ、君が帰ってきてからもずっと作業をしているから、休憩にするのはどうかと思って。ちょうどおやつの時間も過ぎたのだし」
そう言った美晴さんの言葉に、壁掛け時計を見てみれば、15時半を過ぎたところだった。
「ああ、ごめん。結構な時間が経ってたんだね」
「大丈夫よ。私も私で少し作業をしていたから」
「それは良かった」
よいしょ、と小さく呟いて、広げている洗濯物の山と書類たちから離れ、テーブルへと歩いていく。
「あ、これ!」
「ええ、作ってみたのだけれど」
「やったぁ、僕これ好きなんだよね」
「ええ、知っているわ」
透明なグラスに入った茶色い四角いキューブが、カラン、と音を立てて揺れる。
「牛乳で構わないかしら?」
「うん。ありがとう美晴さん。あと、ごめんね」
氷コーヒーの入ったグラスと一緒に並べられた少し黒いひよ子に視線を動かしてから謝れば、美晴さんが数回の瞬きを繰り返したあと、ふるふると首を横にふる。
「私こそ、ごめんね、冬貴」
開けかけた冷蔵庫の扉から手を離し、僕を見て言った美晴さんに、僕は美晴さんの傍へと近づく。
「冬貴?」
突然、近づいてきた僕に不思議そうに美晴さんが首を傾げる。
そんな彼女に、僕は「美晴さん」と彼女の名前を呼んだあと、美晴さんにそっと顔を近づけた。
「そういえば、美晴さん」
「何かしら」
「氷コーヒー、というかアイスコーヒーの日本発祥については諸説がありすぎて論争が起こりやすいって知っているかい?」
「あら……そうなの? きのことたけのこのようなもの?」
「ううんと……発祥をめぐる方向性だからちょっと違うかもしれない。きのこたけのこ論争はどっちが好きか、の論争だからねぇ」
「……言われてみれば確かにそうね」
ふふ、と美晴さんが自身の言葉に静かに笑いながら、氷コーヒーが溶け出し、カフェオレになり始めたグラスを、ひょこっと顔を出ている半透明なちんあなごでかき混ぜる。
美晴さんがいま使っているマドラーは、以前に旅行先で買ったもので、マドラー自体がちんあなごになっている。
カフェオレの海から顔を出しているちんあなごが何とも言えない可愛さを醸し出している。
その日は、そのお店でいくつかのガラス細工のマドラーを買って、僕は僕で今日はペンギンがついたマドラーを使っていたりもして。
カラン、と動かしたマドラーと氷があたって、耳触りのいい音が鳴る。
「ちなみに、日本のアイスコーヒーの発祥地は、神田小川町の氷店だった、らしいんだ」
「神田小川町?」
「商業地域だからビルとかが多いんだけど……例えばそうだな……出版社さんとか、スポーツ用品店。ああ、あと神保町に隣接しているからか、カレー屋さんも多い町かな」
「なるほど……そんなお仕事の人が多い町で、日本のアイスコーヒーは生まれたのね」
「まあ、諸説は本当にあるんだけど、明治文化の研究をしていた石井研堂先生の本で、明治事物起原っていうのがあるんだけどね。そこに氷コーヒー二銭五厘っていう広告がのっていたらしいんだ」
「明治時代……随分と昔から日本にきていたのね。アイスコーヒーくんたちは」
「そうみたいなんだよね。でもね、どうやらパリとかアメリカとかではあまり普及しなかったみたいなんだよ」
「その話はよく聞く気がするわ」
「ね。1990年代に入って、大手のコーヒーチェーン店とかが頑張ってきたおかげで都市部ではアイスコーヒーが知られるようになったんだって」
「コーヒーが世界に登場したのは13世紀末だから、アイスコーヒーの世界認知度はかなり遅かったのね」
「そうみたいだよ。まあ、僕個人の考えとしては、日本では胡瓜とかスイカとかトマトとか、井戸とか川とか、冷たいところで冷やして食べるじゃない?」
「冷やして食べるといえば、お蕎麦とかそうめん、うどんも、当てはまるのかしら?」
「そうそう。そうやってさ、暑い夏に、何かを冷やして食べたり飲んだりするのに、そこまで抵抗のない国民性も、流行のきっかけになったのかな、って思うんだよね」
小さな煙のような模様を、牛乳の海に描く氷コーヒーを、ペンギンマドラーでかき混ぜながらに言えば、「そうかもしれないわね」と美晴さんが微笑む。
「まぁ。でも、熱いコーヒーを、氷で冷やすのは明治時代からしていたかもしれないけど、僕が氷コーヒーに出会ったのは、父さんと一緒に行ったあのドーナツ屋さんが初めだったんだけどね!」
「私は君と一緒に行って初めて知った、かな」
「それは何とも嬉しい言葉だね」
美晴さんの初めて体験を、ひとつ得ていたことに、勝手に頬が緩む。
「君、そんなに嬉しがることなの?」
「嬉しいとも。大事な人の初めてを、一緒に体験できる。何も持っていない僕にとっては、とても幸せなことだよ」
首を傾げる美晴さんに、そう伝えれば、美晴さんは一瞬、眉を潜めたあと、小さく息をはいて口を開く。
「君はまたそうやってそういう事を言う……。まぁ……それはあとにするとして……冬貴」
「ん? なんだい?」
「あーん」
「あー……、んぐ」
あーん、と聞こえた美晴さんの言葉に、かぱっ、と口を開ければ、ガッ、と口の中に何がが入ってくる。
「あ、ほへは」
「チョコレート餡の中にチョコレートがあるのだそうよ」
「へぇ」
口の中に広がった優しい懐かしい甘みと、僕を見やる美晴さんに、目尻が緩む。
そんな出張帰りの出来事。
秋川さんちのごはん 渚乃雫 @Shizuku_N
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