巌窟にて
雪車町地蔵@カクヨムコン9特別賞受賞
────常闇の巌窟────
そっと手で目を覆う。
あるのは暗闇。
手を取り払う。べっとりとしたなにかがまぶたに塗り付けられる。
より深い、ぞっとするような真っ暗闇が、変わらずにそこにあった。
ひどく、ひどく粘着質な闇だ。
指先を動かせば重くまとわりつき、口から、耳孔から、眼球から。
毛穴からすら、気を抜けば浸み込んでくるような暗黒がある。
呼吸のたびに、自分が侵されているのではないかと錯覚する。そんなコールタールのような汚れた黒。
そんな闇の中で、くちゃりくちゃりという咀嚼音が響き始めたのがいつだったか、私は覚えていない。
この巌窟に連れてこられたのは、私がまだ日常に生きていたころだ。
ある日突然、身に覚えのない借金が私の身の上に降りかかった。
それは遠い親戚が、私の名前を騙って勝手に結んだ契約によるものだったが、相手にとっては関係のない代物だった。
その親戚は、こともあろうにヤクザから金を借りていたのだから。
とつぜん我が家に押し掛けてきた、暴力の具現のような男たちに脅されて。
しかし、私は払えないと答えるしかなかった。
私は自営業を営んではいたが、お世辞にも儲かっているとは言えなかったからだ。
払えない、どこにもそんな蓄えはない。
そんな返事をした直後、私は腹部に衝撃を受けた。
かすむ視界が最後にみせたのは、バチバチと放電するスタンガンだった。
ああ、そのあとだ。
そのあと、私はここに連れてこられた。
巌窟。
気が付けば、この暗闇にいた。
ひょっとすれば、ほんの数時間前の出来事かもしれない。
それほど広いスペースではない。
手を伸ばしていけば、すぐに壁にぶつかる。
ざらりとした硬質な感触は、それがなんらかの岩壁であることを私に知らせるには十分な情報だった。
──否。
ここには、それ以上の情報がほとんどない。
触感が伝えるのは、壁や床のかたさと材質だけ。
視界は言うまでもなく無意味で、聴覚が拾うのは、先ほどのなにか湿ったものを噛み締める音だけ。
わからない。
嗅覚は──そうだ、嗅覚は、ずっとその異常を訴えていた。
腐臭。
もっといえば、死臭だろうか。
ものが死んだ臭い。
言葉にすれば陳腐だが、そばにあることが耐え難い、神経を苛む臭気。
本能的な嫌悪感と、それが告げる事実が嘔吐感を加速させる。
私は吐き出した。
べちゃりと、岩の床に腹の中身がぶちまけられる。
口のなかは饐えた酸っぱさと鉄臭さが混じっていて、気分は最悪だった。
私は苛立ち、腹腔いっぱいによどんだ空気を吸い込む。
ああ、臭い。
はたしてどのくらい、この暗闇に自分はいるのだろうか。
自我の境界すらも、いつしかあやふやになってきた。
自我。
そういえば、ここに入ってきたばかりのころ、私は他者を認識していた気がする。
……そうだ。
この巌窟には、私のほかにだれかがいた。
もぞもぞとうごめく、うめくだけのそれは、誰だったのか。
手足の腱を切られていたのだ、咽喉をつぶされていたのだ、目を抉られて鼻を削がれ耳を塞がれていたのだ。
だれだっただろうか、あれはなんだっただろうか。
そうだ、思い出した。
あれが私をここに導いたのだ。
あれのせいで、私はこんな巌窟にいるのだ。あれはたしか、生前私の親戚を名乗っていたモノだった。
だが、それに命はない。
ヤクザがここに放り込む前に、相当いたぶったのだろう。
美女だったらしいが、もはやそれは意味すらない記号的な形容だ。
香水の匂いなどとうに失せていたが、なぜだろう、かぐわしさが鼻腔をくすぐる。
その香りを真に自覚した途端、肩こりや、切なさに似た感覚が、私の胃袋を締め付けた。
これだ、これが先程から私を責め苛んでやまないものの正体だ。
きっと暗闇が、私の腹の中まで侵してしまったのだ。
空虚な暗闇が、この腹の中を満たしているから。
だから。
きっと。
私は、腹が減って仕方がないのだ。
また、私は手を伸ばす。
物言わぬ骸となったそれを引きずりよせた。
食欲を誘う、命が消えたものの匂い。
妙にべたつく口腔に辟易しながら、私はゆっくりと、屍肉に犬歯を突き立てた。
ぞぶり。
くちゃり、くちゃり。
暗闇の中に、また咀嚼音がこだまする。
いったいいつから、私はここにいるのだろう。
暗闇を厭うて両手で視界を覆えば、ねっとりとした血液がまぶたを侵した。
ああ、女のつぶれた顔が見える。
私は、自らの瞳が汚らしい黄色に染まり、爛々と輝くさまを幻視した。
巌窟にて 雪車町地蔵@カクヨムコン9特別賞受賞 @aoi-ringo
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