第3話
午後の日差しの差し込むその部屋には、濃厚なテレピン油と情事の香が漂っていた。
キャンバスと絵筆の間に、脱ぎ捨てられた服が蹲っている。
先程まで女の胸元で跳ねていた大振りなリングも、今はおとなしく白い肌に寄り添っている。
「絶対はずさないよな、それ。」
男の言葉に、女は悪戯っぽく微笑んだ。
「そりゃそうよ。だってこれは故郷なんだから。」
「ふうん…?」
男は分かったような分からないような、半端な返事をした。
「故郷、ねぇ?繁華街でフラフラして、たまにうちに来てモデルになることの繰り返しなのに?故郷なんて殊勝なものがあるのかい?」
女は答えず、革紐が通ったままのリングを指にはめて見せた。
磨き込まれた木目の見える輪の上部に、まるでそこから生えたかの様に伸び上がる水晶。中に何かが閉じ込められているのか、チラチラと夜色が光る。
「故郷はいつでも、ここにあるわ…」
その光は黒目がちな女の瞳にも映りこみ、望郷の色を添えた。
ふ…っと軽くため息をつき、リングから指を抜いた女は、男からの追求を断ち切る様に背を向けた。
男は起き上がり、まだ汗の浮いた白い肩へ唇を落とした。
「…結婚しよう。」
ピタリと止まった動きに気圧され、慌てて言葉を繋ぐ。
「家庭を作ろう。君との子供が欲しい。俺と寄り添って生きて、そこを故郷にしていこう。」
スルリとベッドから立ち上がった女の前に回り込み、男は女の服を先に拾い上げ、渡さぬ様に強引に抱き込む。
「それが嫌なら同居人でも構わない。なんなら、また気まぐれに訪れて、モデルになってくれるだけでも。」
そして女の胸元に揺れる、革紐を通したリングに手を伸ばす。
「君がどこのだれでも構わない。君のとどまるところに、帰るところになりたいんだ!」
突然、腕の中の女の服がフワリと解けほぐれ、みるみる薄い紗幕となって二人の間にひかれていく。
「待ってくれ!」
男は懸命に紗を掴み、引き裂こうとするが、薄紗はどこまでも柔らかく、まるで手応えはない。
「しないから!もう要求も詮索もしないから待ってくれ!」
薄紗の向こうではいつのまにか、磨き込まれ、木目の目立つ大木がそびえていた。
その幹を穿つ洞の奥に宵闇に沈む谷が見える。
女はその背中から透明な羽を広げ、洞をくぐろうとしていた。
「待ってくれ!」
男の叫びに、女はチラリと視線を投げた。
黒目がちだった瞳の代わりに、煌めく複眼が残光を残した。
ツイッと透明な羽が震え、女の身体が空に浮いた。
そしてその姿は、みるみる遠く小さくなり、谷の闇に溶けていく。
「…待って、くれ…」
男の握り締めていた薄紗も次第に薄れていき、ちらちらと儚く煌めくと、それを最後に全ては消え失せた。
「…愛しているんだ…」
低い嗚咽が、静かな部屋へと流れていった。
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