第4話
「そうして彼女は故郷へ帰った。」
彼はそう締めくくり、うな垂れた。
気のせいか、身体まで一回り小さくなったようだ。
「嘘だと思うんならそれでもいい。実際俺も、彼女を拾った繁華街を何度もさまよって彼女を探したし、彼女とつるんでいた連中にも片っ端から話を聞いた。だがな、何一つ分からない。それどころか、日が経つにつれて、彼女の事を綺麗さっぱり忘れるやつまで出てきた。…だから悟ったんだ。彼女はあの紗幕の向こう、故郷へ帰ったんだと…」
ゴクリと、私は生唾をのんだ。
いつの間にか身体に力がこもり、息を潜めていたのだ。
「…だったらこれは、朗報だ。」
私は強張る喉に力を込め、掠れ声を絞り出した。
「彼女、戻って来ているぞ。」
「…なに?」
うな垂れたままで、彼が問いかけてくる。
「先週、大きな企業コンペを勝ち取った新進の映像クリエイターにインタビューしたんだ。…そこにいたんだよ、彼女が。」
彼は動かぬまま、先を促してくる。
「おまえのモデルをしていた時と、全く変わらない様に見えたから、他人の空似か、もしや娘かと考えた。話を聞こうとも思ったが、件の映像クリエイターのガードが固くて、まるで接触できなかった。だがな…」
私は乾いた唇を舐め、見てきた事実を伝える。
「彼女、身につけていたぞ。革紐を通した、リングのネックレスを。」
「…そうか…」
ギシリ、と。
何かが軋んで壊れる音がした。
音源を探し、部屋を見回した私の耳に、今度は笑い声が忍び込む。
振り返れば、俯いたままの彼が笑っていた。
震える肩を自ら抱きしめ、湧き上がる笑いに耐えている。
「だったらそいつが、次の犠牲者だな。」
「…なに?」
私の不振な声に、ガバリと彼の顔が上がった。
「次の犠牲者はそいつだと言ったんだ。」
「…どういう事だ?」
「分からないのか⁈」
言い募る彼の目に力が戻り、かつて画壇に旋風を巻き起こした時の、あの威圧感までもが漂い始めた。
「彼女を何だと思っているんだ?妖怪か?家出娘か?単なる宿無しだとでも思っているのか?」
ついには立ち上がり、腕を広げ、私に掌を見せつけた。
「違う!違うぞ!アレは全くそんなもんじゃない!あれは信徒だ!美の女神に侍る邪妖精だ!ヴィーナスに捧げる美を狩る狩人だ!見ろよこの俺を!情熱も、愛も、俺の中にあった美も、全部彼女が持ってっちまった!すっからかんだ!」
喚く彼の背後には、いつのまにか大木がそびえていた。
磨きこまれて美しい木目を見せ、その幹を穿つ洞の中に、宵闇に沈む谷が見える。
「この頃、夢を見るんだ…」
激情が過ぎたのか、三日月型に引きつった唇から溢れる言葉は穏やかになり、眼はボンヤリと空を見上げている。
「彼女と過ごしたあの時を、何度も。何度も。残り香をかいだこともある…」
スルリと彼の背後から、白い腕が伸ばされた。
優しく首をかき抱き、細い指が頬にそっと添えられる。
「…そうだ。最期まで、持っていけ。」
彼の声が次第に茫洋としてくる。
「俺の中の全てを、底の底まで、一滴残らず持っていくがいい…」
青ざめたまぶたがゆっくりと下がり、終わりの時を告げようとしていた。
「待ってくれ!」
私は堪らず声を上げた。
「何故彼なんだ?何故あの映像クリエイターなんだ?私だって十分美を学んできた。次は私を選んでくれても、いいんじゃないか⁈」
キロリと、彼の肩越しに煌めく複眼が見えた。
可愛らしく鼻筋に小じわを寄せ、こちらを覗き込んでくる。
「いらないもの。」
一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
「その程度の才、いらない。」
どこまでも気高く傲慢なその言葉に全てを叩き潰され、私は愕然とした。
「きゃーははははははっ!」
狂った様な哄笑と、殉教者の静謐さを浮かべた彼の顔が眩しくて、私は固く目をつむり、ただ頭を抱えて恥じ入るしかなかった。
美の祭壇より、私は石もて追われたのだ。
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