7
* * *
煮えたぎる大地が豪雨に打たれてようやく冷え、二重螺旋と蛋白質(たんぱくしつ)を溶かした原初の海がこの星の上に生まれた。
原核生物から真核生物へ、単細胞から多細胞へ、植物と動物と、無脊椎動物から脊椎動物へと進化系統樹を登りつめてゆく。
繁栄を極め地上を闊歩した巨大爬虫類があっけなく滅び去った後にも、齧歯類(げっしるい)がしぶとく生き伸び、やがて二足歩行から知性が生まれた。
火と、言葉と、それから文明を、人類は手にした。
粗末な小舟に帆をかけて、新天地を求め大海原を征く者たちがいる。
砂漠のただ中に壮麗な金字塔と獅子人面像とが忽然とそびえ立つ。
巨大な木馬の中から次々に現れる武装した兵士達が密かに街を占拠する。
突如として噴火した火山の溶岩が、繁栄を謳歌する都市の住民たちを瞬く間に飲み込んだ。
北方から幾度となく攻め寄せる蛮族を退けようと、何千里もの山脈沿いに皇帝が城壁を築き上げる。
小さな鏡を手に太陽光を受け止めた巫女が、初めて女王となり、君臨する。
金色の小さな仏像が、海の向こうから伝えられた教えと共に寺の奥深くに安置され崇められるようになる。
何度目かの遷都の末、ついに千数百年のちまでも都となる都市が作られた。
海で、山で、二つの氏族が争い、あわれ幼帝は女官に抱かれ海底に沈んだ。
兄に追われた若武者は、海を越えてはるかな大陸の大王となったと言われる。
つかの間の平穏と、繰り返される争いと、乱世を駆ける梟雄と、あっけなく踏みにじられる者たちと、その中からついに天下を掴む者と、それすらも露と落ち、露と消えた。
はるかな海の向こうでも栄枯盛衰と勃興は絶えず、薔薇の戦、百年の戦だけでは到底語り尽くせるはずもなかった。
無数の王と女王と皇帝とが相争い、あるいは手を取り、裏切り裏切られ、あるいは許し、慈悲の欠片もなく報復に及んだ。
魔女と呼ばれた者、悪魔の使いとされた者たちが次々と、数えきれぬほど火刑に処せられたが、悪魔などどこにもいなかった。
むしろ神の名を掲げる者たちこそが悪魔よりも残虐に振る舞う光景すら垣間見えた。
薔薇と讃えられた王妃も無慈悲な断頭台へとおくられた。
火薬と蒸気と電気の力が瞬く間に世界を変えた。
西も、東も、北も、南も、世界中が相争った。
飛行機もその為の道具となり、モロトフのパン籠(かご)と二つのきのこ雲を市民の頭上に放り投げた。
冷たい戦争が世界を覆い、それでも局所的に火を噴いて、いくつもの国を分裂させた。
冷たい戦争が終わっても、かえって火種は増えるばかりのようで。
原子の光は手にしたものの、時折、それもやっかいな暴走を繰り広げた。
どれほど発展した力を手に入れても、それをはるかに越えた自然の猛威が多くの命をあっけなく奪った。
またしても飛行機は武器に仕立てられ、多くの人々を乗せたまま叩き付けられ、高くそびえた双子の塔は燃え上がり、崩れ去った。
それでも人類は月を越え、宇宙に至り、電子に情報を溶かして地球全体に張り巡らせ、ついには雲に浮かべた。
やがて──
人はついに人工の体と知性とを作り上げ、わずか三つの原則だけを守らせて後は自由に生きさせた。
生まれることのなかった命と、とうに滅び去った命も、二重螺旋から紡ぎだす術(すべ)を手に入れた。
そうして得た肉体すらも脱ぎ捨てて、人は自分自身を情報に変え、電子の海で永遠に生きる夢を現実のものにした。
海から生まれ、海へと還るのだ。
それらすべて、いや、もっともっと無数の情景が、ひと粒ひと粒の真珠に映し出されていた。
ほんの小さな、一人一人の命の生き死にまでもが、ひとつ残らず。
災厄と、祝福と。
絶望と、歓喜と。
歓声と喚声。共感と叫喚。
昏い、太古からの歴史も。
はるかな未来に見る夢も。
この先、人類が手にする全ての叡智ですらも、この死せる『神官』の見る夢なのだ。
しかし、それさえも──
それら全てをも塗り潰し、踏みにじり、滅びに追いやる者たちが、やがて星から至るだろう。
そのことも、彼らに仕える『神官』は知っているのだ。
知って、夢見て、待っているのだ。
その、時を──
真っ白い真珠に視界を埋め尽くされた夜間戦闘機の中で、はっきりと僕はそのことを知った。
相変わらず、風防の外側では嵐のように吹き荒れる真珠がいくつもの景色を僕の視野に突き刺してくる。
その中に、ひとつ。
僕の眼前をひどくゆっくりと、鮮明によぎる情景があった。
すべての明かりが消されているはずの病棟で、ひとつの病室だけが妙に明るい。
看護婦と医師とが慌ただしく出入(ではい)りをしている。
ベッドの上に横たわる、痩せて青白い顔の──
それでもう、僕はあそこに帰らなくてもいいのだと、わかった。
* * *
だんだんと、夜間戦闘機が高度を下げ始めた。
視界を埋め尽くしていた真珠の嵐はいつしか消えていた。
風防のガラスはいくつもの傷がついて、時折、回転を止めそうになっているプロペラも曲がってしまっているようだった。
銀色の機体も、翼も、おそらく無数に傷を受けているのだろう。
激しく傷ついた夜間戦闘機の後席で。
僕も、夢を見ている。
夢見ながら待っている『それ』と一緒に。
「もう、わかったでしょう」
銀色の女の声が僕の耳に届いた。
「あなた自身ですらも、『あれ』が見ている夢に過ぎないと」
「……いや、それでも……」
振り向きもせず問いかける女に、ようやく僕は口を開いて答えた。
「それでも、そうは思いたくない……。たとえ真実はそうだとしても、僕は僕だ」
これだけは、ちゃんと自分で答えたかった。
この世に生きとし生けるもの、この星の始まりから終わりまでの全ての生の行く末を、『それ』が全て司(つかさど)るだけに留まらず、あらゆる命ある者の夢見る夢を生み出しているというのなら。
僕の見てきた、いや、このさき僕が見続けるすべての夢さえもが、『それ』の見る夢であるのならば。
その時こそ、僕は『それ』の前にひれ伏すだろう。
「僕がひれ伏すのは、僕の幻想を越える者だけだよ」
女が振り返り、宣告した。
「ならばひれ伏すがいい」
そうか。
──いや。
それすらもう、どちらでもいい。
胸ポケットの手帳と鉛筆を意識する。
──それでも僕は、僕だ。
そうしてようやく、僕の中に、真珠色の豊かで静かな時間が流れるようになった。
山のような巨体を横たえた『それ』の頭部をかすめるように、夜間戦闘機はまだゆっくりと飛んでいた。
いつの間にか、『それ』の歌はもう僕の耳には聞こえなくなっていた。
寝返りを打つのをやめ、再び深い眠りについたのだ。
『それ』の眠る墓所を取り囲んでいたエメラルドの塔の密林も、あれほど激しく絶え間なく形を変え続けていたのをやめ、静かに、凍り付いたように、ただ立っていた。
もう銀の女も振り返ることはなく、黙って前席についていた。
こうして、島全体が間もなく死よりも深い眠りにつき、『それ』もろとも、また海底深くに沈むだろう。
『星辰の正しき刻』を迎えてついに浮かび上がるその日を夢見ながら……。
右のプロペラが動きを止め、ややあって左のエンジンも停止した。
推進力を失った夜間戦闘機は滑り落ちるように高度を下げてゆく。
墜ちてゆく、その先に。
夢見ながら死せる『それ』の黒い触手が滑走路のように長々と幅広く伸びていた。
飛行機は脚を出しているのか、胴着なのか、それすらわからない。
ぐんなりとした触手に受け止められた。
僕らの乗った戦闘機はずるずると滑るようにしばらく走りながら徐々に速度を落としてゆき、やがて完全に動きを止めたが、それでもまだ触手はその先にひたすら長く、どこまで伸びているのかその先端を垣間見ることすらできなかった。
* * *
シートベルトを外し、僕は大きく息を吐いて夜間戦闘機の後席に深々と座り直した。
胸ポケットから鉛筆と手帳を取り出す。
ぱらぱらと、ページをめくる。
手帳の中には、きっちりと書き込まれたページと、書きかけのページと、それからまだ何も書かれていないページとがあった。
まっさらなページは、めくってもめくっても、いくらでもあった。
鉛筆を手にしてキャップを外し、僕は続きを書き始めた。
いつの間にか前席から女の姿が消えていた。
きっと、他にもいる『夢』たちを迎えに行ったのだろう。
……いや、違うかもしれない。
でも、どちらでもいい。
「これでいい」
僕は呟いた。
このままでいい。
だって、ほら。
今でも僕はここで、こうして書いている。
(終)
銀と真珠の宴 日暮奈津子 @higurashinatsuko
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