丸二日たってようやく少し意識を取り戻したが、熱は下がらないままだった。

 溶けかかった氷嚢を乗せたままの頭をそっとめぐらすと、ぼやけた視界の中、ベッドサイドテーブルの上には僕の手帳だけが置かれていた。

 血だらけになってしまった寝具類と一緒に掃除夫が捨てようとしていたところだったのを、看護婦が見つけてくれたのだと回診の時に医師から聞かされた。

 だが、血まみれの手帳は乾き切り、全部がくっついたページを開くことはもう二度と出来はしないだろう。

 そうして僕の手帳の中の世界は窒息して死んだ。

 失われたのは手帳の中身だけではなかった。

 高熱と喀血と、激しく続く咳が僕の体力を根こそぎにした。

 身体の上に大岩を乗せられているかのようで、ただ息をするだけでも苦しくて、寝返りひとつ打つにも全身で喘(あえ)いだ。

 熱に浮かされた頭は体の苦痛だけを流し込まれ、縛られるばかりで、何一つ考えることさえできない。

 微熱だけでベッド上の安静を強制されながらも自由に空想し言葉を紡いでいた頃のイメージはもう、なかった。

 兄には連絡をしたが所用で来られないと返事があったと、看護婦が小声で医師に話すのを聞いた。

 医師はまたあらためて電報を打つよう指示していたが、僕はそんなものだろうと思っていたから、どうと言うこともなかった。

 病室の窓は閉め切られ、外の景色も風も入ってこなくなった。

 夜になっても、熱のせいか眠りが浅く、酷い呼吸苦と肺が裏返るほどの咳で頻繁に目が覚めた。

 気がつくと、僕は灰色の壁に囲まれた狭い部屋に一人で閉じ込められていた。

 僕の中の情景は、今やそれしかなかった。

 時折、そのセメントの壁が部屋ごとひどく揺れてひび割れることがあったが、それはただ僕が激しく咳き込みながら喀血しているだけのことだった。

 ひび割れた壁の中から、僕がかつて見た世界の光景が夢のように現れることがあったが、すぐに砂になって崩れ落ち、指の間からすり抜けて消えた。

 一瞬その景色が確かに見えたと思っても、掴み取ることもできずに、全て目の前から消失する。

 何度も。何度も。

 すべてが雲散霧消する。

 僕だけの世界が。全部。

 日々、病勢に喰い荒らされて空洞になっていくのは、僕の肺だけではなかった。

 毎夜毎夜、そんな幻視ばかりに塗り込められていたが、やがてそれすら見えなくなり、暗い灰色の焦燥だけが澱(おり)のように僕の胸に振り積もり、苦しめた。

 

 どうしてもっとちゃんと書いておかなかったのかと。

 最初から最後まで、せめて一つ。

 あんなに心躍る物語があったのに。

 あんなにあざやかな景色が広がっていたのに。


──いや、そうじゃない。


 鮮やかすぎて、苦しかった。

 あまりに激しく響き渡り、吹き荒れる光景に翻弄され、耽溺するだけで日々を終えていた。

 だが、そうして自分の中でうず巻いているものを、ただ目の当たりに立ち尽くして途方に暮れているだけではだめなのだ。

 逆巻く渦と組み合って、そこにあるものを掴み取り、言葉に替えて書かなければ何にもならない。

 僕自身が何にもなれない。

 そんな自分が情けなくなるだけなのだから。

 後悔しか、残らないのだから。

 やっとそれに気づけたのに。

 だから僕はずっと、僕の中で密かな戦いを続けていたのに。

 紙の上に言葉を叩き付け、僕はずっと叫んでいた。

 そう。あれは僕の叫びだ。

 なのに僕の心が描いた世界は何一つ形になっていない。

 この手はもう、あの情景を掴み取ることができない。

 繋ぎ止めて、言葉に置き換えることができない。

 手当り次第に書き散らした手帳とノートがあるだけで。

 何(なん)にも残りはしない。

 涙がこぼれた。


 身体の自由が奪われているからなんだと言うのか。

 それよりも自由に羽ばたくイメージの力が失われる方がずっと致死的だ。

 ばらばらになって、散る──

 このままこうして溺れることすら出来ずに沈んでゆくのだ。



 僕の中に最後に残された景色が、また、激しく揺れた。

 どこからも光の射さない暗がりで、セメントの壁がとうとう崩れ落ちた。

 その中から、かすかに光る丸いものがこぼれ出た。

 灰色の割れ目から、たった一粒、白い小さな真珠が転がって、落ちてゆく。

 沈んでゆく。

 二度と浮かび上がることもない底なしの暗闇に……



「ここにいた」


 声が聞こえた。


「私が引き上げる」


 白い手があらわれる。

 やわらかな手のひらが真珠を受け止める。

 いとおしげに微笑んで、真珠を見つめる。

 その顔、その瞳。

 銀色の──



 僕は目を開いた。

 


 病室のベッドに横たわる僕の目の前に、その顔があった。

 女だった。

 僕の頭のすぐ横に手をついて、覆い被さるようにして、僕をのぞき込んでいる。

 輝く銀の長い髪がまっすぐに、僕の顔の真横に流れ落ちている。

 見つめる瞳も銀色だった。

 明かりひとつない夜の病室でも、どこからかの光に照らされているかのように、それがはっきりと見えた。

 その銀色に、確かに見覚えがあった。


──飛び過ぎてゆく夜間戦闘機の前席に……


 僕の胸が大きく鼓動を打った。

 すべての音が消えていて、僕の鼓動だけが病室中に響いていた。

 ゆっくりと、息をする。

 押し潰されるような呼吸苦も、身を灼(や)く熱も消えていた。

 澄み切った夜の冷気だけが僕を包む。

「君は……」

 心地よい夜気を吸い込んで、僕は女に呼びかけた。

「ずっと、叫んでいたでしょう」そう言って、僕の胸に、女が手を触れた。

「え?」

「叫んでいるのが聞こえた」



──叫んでいるのが、聞こえていた……



「あ……」僕の目が大きく見開かれた。

「引き上げよう」

 白く冷たい手が、僕の寝間着と、皮膚と、胸郭と、肺を通り抜けて忍び入り、それを掴み取った。

 痛みも不快感も、なにも感じなかった。

 そのままするりと抜き出す。

 ベッドに横たわった僕の目の前に取り出された、それ。

 銀の女は僕の横に座り直し、見せた。

「ほら」

 女の手のひらほどの大きさの、白いあこや貝。

 やや長い爪を立てて、こじ開ける。

 僕もベッドから起き上がり、見守る。

 かつん、と硬い音を立てて蓋が開いた。

 女は貝の中をのぞき込み、微笑む。

「素晴らしい」

 僕を振り返り、差し出した。

「ご覧なさい」



「これがあなたの幻想」



 コンパクトのように立てて開かれたあこや貝の中に。

 淡い乳白色に輝く一粒の真珠が眠っていた。

 真夜中の病室の闇の中、その丸い光だけが僕たちを照らしていた。



 再びコンパクトのように貝を閉じると、銀の女は上着のファスナーを開け、大事そうに胸元にしまい込んだ。

「おいでなさい」

 ベッドから立ち上がり、僕の手を引いた。

「……どこへ?」

 問いかける僕に、彼女は黙って病室の窓の外を指差した。

 ずっと閉め切られていたはずの窓は開いていた。

 その向こうに。



「夜間戦闘機……」



 あっけにとられる僕の目の前、銀色の機体が病室の窓の外にあった。

 通常の深緑色の塗装は一切されておらず、主翼や胴体の赤い丸の塗り分け模様もなく、プロペラの一枚に至るまですべてが銀色だった。

 その銀一色の機体が三階の窓の外、支えも何もなしに、ゆったりと浮いている。

 二枚の主翼それぞれの真ん中よりやや胴体よりの部分にエンジンカウルがついていて、その前に取り付けられた三枚羽根のプロペラが、とてもゆっくりと回っている。

 前席と後席と、二カ所に別れて風防が開いている。

 夜間戦闘機の主翼が胴体との間で橋を架けるようにして病棟に横付けされている。

 ふわりと、その戦闘機の方から夜風が吹いて、女の銀色の髪をなびかせた。

 その風に導かれるように女は窓辺へと歩み寄ると、振り返ってもう一度僕を呼んだ。



「おいでなさい」



 ガラスをはった風防が二カ所、指示棒に支えられて上向きに高く開いている。

 そうして手招きしている。

 僕を──



「少しだけ、待って下さい」

 女に告げて、僕はベッドから降りた。

 一瞬、彼女は首をかしげたが、すぐに小さく頷いた。

 壁にかけてあったハンガーからワイシャツとズボンを取る。

 寝間着を脱いでベッドに投げ、手早く着替える。

 これを着るのは何日ぶりだろう。

 一週間か、十日? いや、もっと?

 さらりと乾いたワイシャツが肌に触れるのが心地よかった。

 そのまま、窓際で待っている女のところへ行こうとして、ベッドサイドテーブルの上の手帳に目が止まった。

 少し考えて、血糊で固まった手帳を手に取って、ワイシャツの胸ポケットに入れた。

 病室の隅、書き物机の上の筆箱から短めの鉛筆を一本だけ選んでキャップをつけ、これもポケットに。

 これで、いつも通りだ。

 銀の女を振り返る。

「行きます」

 窓枠の上で背を丸め、ひざを抱えて猫のように座っていた女が、頷いた。



「宴を始めよう」



 病室の窓辺から飛行機の翼の上に乗り移り、銀の女が手を差し伸べた。

 僕の方へ。

 その手を取る。

 窓を乗り越え、僕も病室から出た。

 しなやかな肢体を細身のズボンに包んだ女は主翼を橋のように渡ってゆく。

 僕も後に続く。

 胸が高鳴る。

 ひんやりとした主翼の上を素足で歩いた。

 エンジンカウルとプロペラを左手に見ながらコクピットへ。

 コクピットまで来ると女は機首側へと避(よ)け、僕が先に後席に乗り込んだ。

 思っていたよりもずっと狭い。

 女が指示棒を外して風防を閉めると、ひときわ圧迫感が増す。

 後ろは航法士の座席だとは聞いていたが、目の前に並ぶのは僕にはただ複雑な計器の羅列としか捉えられない。

 かろうじてシートベルトを座席の辺りを手さぐりして探し当て、自分で締めた。

 女も前席に乗り込み、風防を閉じた。

 急速にプロペラが回転を上げる。

 驚くほど静かに、機体が前にすべり出た。

 そのまま真っすぐ飛ぶ。

 左前方に明かりが見えた。

 看護婦詰所の窓だった。

 風防のガラス越しに中の様子が見える。

 夜中でもすべての明かりをつけて、数人の看護婦が立ち働いている。

 眼鏡をかけた医師が窓際の席で、カルテを前にして考え込んでいる表情までわかる。

 だが、誰も気づかない。

 機首を上げ、その光景が斜め下にみるみる遠ざかってゆく。

 きっと彼らの前には何もない夜空だけが広がっているのだろう。

 でも、いったいどちらが夢なのだろう?

 右へ旋回して海へ向かう。

 いつも歩いている砂浜に、置き去りにされたままの小舟の上を飛ぶ。

 夜の海に出た。

 うねるような波涛が沖から手前に向けて次々とやってくる。

 波涛の向こうに満月が見える。

 大きな真珠のように白い光を放つ月。

 その月に向かって飛ぶ。

 海の上には何も見えない。

 大小の島々が散らばる海のはずが、島影ひとつ見当たらない。

 上を見ると、風防越しに降るような星が夜空の一面に瞬いている。

 全天の星の光がつめたく僕たちを見つめている。

 なぜか、それにぞっとした。

 再び視線を海に戻す。

 やはり、海の上には何もない。

 数百もの有人島、無人島が散らばるはずの海だというのに。

 見えるのはひたすら次々と押し寄せる波涛だけ。

 対岸にあるはずの四国も見えない。

 ここはもう、僕の知っている故郷の海じゃない。

 わずかな時間のはずが、いったいどうやって、こんなところにまで飛んできたのか。

 前席の様子をうかがう。

 銀の女は、ただ真っ直ぐ前を向いて座っているだけのように見える。

 申し訳程度に操縦桿らしきレバーの上端に手を触れているようだが、それで何かを操っているという感じは全くしない。計器類に目をやる素振りもない。

 こうして乗っていても、プロペラやエンジンの音もほとんど感じない。

 後席のメーター類の針が、ただふらふらと意味もなく、僕の目の前で揺れている。

 なのに夜間戦闘機は夜の海の上をひたすら飛び続けてゆくーー


 それで気づいた。


──そうか。

 

 これは「記号」だ。

 記号の飛行機に乗って、記号の海の上を飛んでいるだけなのだ。

 僕が飛行機を見たから、あの夜間戦闘機の話を聞いたから、それに乗っているだけなのだ。

 だが、どこへ?

 前席の女が振り向く。


──やっと気づいたの。


 銀の瞳が、そう言った。

 そのまますぐ、前方へ向き直る。

 やがて機体がバンクして、戦闘機はその場で反時計回りに旋回を始めた。

 最初は大きくゆっくりと、そしてだんだんと、バンクがきつくなる。

 旋回半径を縮めているのだ。

 海を見下ろすと、今までは進行方向から手前へ向けて押し寄せてきているように見えていた波涛のうねりが、旋回の中心らしき一点から巨大な波紋のように周囲へ向けて広がっているのがわかった。

 あの中心に、何かがある。

 いや、いる。

 でも、いったい何が?

 旋回半径が一定になり、夜間戦闘機は同一の円周上を回り始めた。

 そのとき、前席の女が風防を開けた。

 飛び過ぎてゆく風が激しく銀の髪を掻き乱す。

 それでも女は強風の中、揺るぎなく、海面を見つめている。

 銀色に光るナイフが右手にあった。

 風に煽られる髪の一房を手に取ると、惜しげもなくナイフで切り落とし、海へ撒いた。

 背まで流れ落ちる長い髪は、さくり、さくりと切り落とされ、みるみる短くなってゆく。

 切られた髪は次々と、風に巻かれ、もつれ合いながら、夜の海へと落ちてゆく。

 真っ暗な夜気の中でも、あやしい月明かりがひどくはっきりとそれを照らし出していた。 

 長かった髪を全て肩口の所で切り捨てると、最後に女は海面へとナイフを投げた。

 ゆっくりと回転しながら、波紋の中心へとナイフが落ちていく。

 銀の刃を飲み込んで、そのまま波紋は消えた。

 でも。


──まだ終わりじゃない。


 僕の中に確信があった。

 

──宴はこれからだ。


 ちらりと後席を振り返った女の目が、それを肯定していた。

 胸元から白いあこや貝を取り出す。

 女の手の中で、コンパクトのように蓋が開いてゆく。

 ゆっくりと。

 かつん、と硬い音を立てて。

 その中に眠る真珠。

 ただひと粒の、いや──

 そこから光があふれた。



「これがあなたの幻想」



 蓋が開いた二枚貝から、驚くほど大量の真珠が光り輝く滝となって海へと流れ落ちた。

 ひと粒ひと粒の真珠が月光を受けて乳白色に、透き通る純白に、ささやかな薄桃色に、あるいは淡く青白く、あるいは密かな白銀に、きらめきながら、ざあざあと、真っ暗な海面に向かって絶えることなく降りそそがれる。

 あんなに小さなあこや貝ひとつに、あんなにたくさんの真珠が詰まっていたはずもないのに。

 いくらでも、いくらでも、尽きることなくあふれ出す。

 色合いはさまざまだが、形はすべて完璧に丸い。

 戦闘機の胴体や主翼にぶつかって跳ね返りながら流れ落ち、光のカスケードのように飛沫(しぶき)をあげている。

 空中でも互いに触れ合い、きらきら音を立てている。

 絶え間なく真珠を降り注がれ、海面は真っ白な波頭で泡立っている。

 その間もゆっくりと、夜間戦闘機は旋回を続けている。

 真珠の流れは止まらない。

 輝くらせんを描いて落ちてゆく。

 幾千、幾万もの言葉が真珠になって──。



 そう。

 僕はずっと、この真珠を育てていたのだ。

 この胸の中で。

 熱にも血にも汚されることなく、それはずっとここにあったのだ。

 僕の焦燥も、煩悶も、全ては無駄でなかったのだ。



 やがていつまでも続くかに思われた真珠の流れがついに、途絶えた。

 真っ白い波頭が海面できれいな円形に浮かんでいたが、それも消えた。

 ようやく空っぽになったあこや貝を、銀の女が手放した。

 二枚貝は蝶番(ちょうつがい)からふたつに分かれて、ひらひらとひらめきながら、暗い海へ落ちていった。



 真珠と銀を海へ捧げた女は風防を閉じた。

 やがてとろりと凪いだ暗い海に、どうん、と、ひとつ大きなうねりが現れた。

 波紋のように、それが広がる。

 やがて深海のはるか奥底深くから浮かびつつある何かの光を受けて、海面がぼんやりと透きとおる緑色に染まり始めた。

 その中心から。



 真っ暗な夜の海を貫いて、突き刺さるような緑色の尖塔がすさまじい勢いで夜空を切り裂きながら現れた。

 月明かりに輝く緑の尖塔は何百本、何千本と深海から次々に伸びあがり、それらを支える広大な大地までが海底から浮上して、あっと言う間に水平線の彼方までもあやしいエメラルド色に染め上げた。

 緑色の結晶が僕らの乗る夜間戦闘機よりもはるか上空へと伸びて、剣山のように林立する。

 エメラルドの鋭い尖塔は、しかし、ただそこにじっと立っているだけではなかった。

 緑の結晶が僕の目の前で不意に溶け崩れ、あるいは見る間に高々と背を伸ばし、あるいはふっつりと、折れて消える。

 ぎらりと光り、突如弾ける。

 脇腹が、肩口がふくらみ、横へ手を伸ばす。

 差し出された手を、緑の手が伸びて、握り返す。

 ふたつの塔が身を寄せ合い、ひとつになる。

 唐竹割りにされるかのように、まっぷたつに頂上から分(わ)かたれる。

 どうしてそこで折れてしまわないのかと、あり得ない角度に折れ曲がって、途中で折れて、曲がって、折れそうで、折れなくて、折ってしまいたくなる。

 それを察したかのように、瞬時に砂になって、さらさらとくず折れる。

 その様子が、まるで緑色の粘液に包まれたようにも見える。

 だが、それすらも、一瞬のちには移り変わる。

 戦闘機に乗って飛び続ける僕らの目の前で、生き物のように目まぐるしく蠢(うごめ)くありさまが繰り広げられる。

 それでも、何故か僕には判っていた。

 これが都市であることが。

 そう、この都市は生きている。

 深い深い海の底に沈んでいる間もずっと。

 そして、ようやっと浮かび上がった都市全体が、こうして息継ぎをしているのだ。

 太古の昔から海底に潜(ひそ)み、息を止めていたぶんを、今こそ取り返そうと激しく息を吸い込み、寝返りをうっている。

 その間を奇跡のように、銀の翼がすり抜けて飛ぶ。

 エメラルドの塔の密林は、絶え間なく形と高さと密度とを変えながらどこまでも続くかに見えたが、突如、僕らの目の前でふっつりと途切れた。

 


 すっぱりと、巨大な斧で根こそぎにされたかのように、密林の只中に広大な平原が現れた。 

 緑色の結晶の大地の上に、巨大な棺が安置されていた。

 うっすらと淡い銀色に透ける棺の中に。

 長々と、黒々と、触手を八方に伸ばして、『それ』がいた。

 だらしなく伸び切った触手の真ん中に章魚(たこ)のような頭部を、これもだらしなく、ぐてりと放り出している。

 頭部と触手の付け根の──あえて言うならば両肩の辺りからは、蝙蝠(こうもり)のような皮膜のついた翼がやや細長く、だが両脇いっぱいに広げられている。

 黒い鱗のびっしりと生えた胴体と、長い鍵爪を生やした太い手足を放り出して、山ひとつほどの面積と高さとを我が物顔に占拠している。

『それ』の前では翼竜ですら、子供だましの小鬼に過ぎない。

 だが、『それ』はぴくりとも動かない。

 死んでいるのだ。

 その巨体が、透明な銀の棺に納められている。

 でも、生きている。

 夢を見ている。

 間違いない。

 何故なら、『それ』が歌っているのが聞こえているからだ。

 透き通る棺と、飛び続ける飛行機の風防越しに、僕の耳に歌が聞こえてきた。



『腑にくるみ

 無垢なる

 苦痛降る

 瑠璃色に

 羽化成る

 孵化する』



「そう聞こえるのね」

 前席から女が振り返る。

 何故か、笑っている。

「何故って? だって……」

 だが、僕は、口に出してはいない。

 なぜ聞こえたのかと問うことすら、愚かな気がした。

 聞こえたのではなく、知っているからだ。

 僕にはそう聞こえるであろう、ということを。

「ルルイエを、瑠璃色とは」

 心底おかしそうに笑う。

「だって、この都市は全く瑠璃色ではないでしょう」

 そうだ。でも。

 僕には、そう聞こえる。

「それに、あれは」

 棺の中の黒い『それ』を銀の瞳で見下ろす。

「あれは、羽化も孵化もしない。神になどなれない。ただ夢見ながら待っているだけの、神官」

 夢見ながら、待っている?

 では『それ』が待っている神は、どこにいる?

「その神は、この地上にはいない。その名を、この地上の存在が知り得るものでもない」

 やはり僕が口に出す前に答えが返ってくる。

「神官クトゥルフですら、その存在をわずかにうかがい知るのみなのだから」

 ならば『それ』は──僕はいま耳にしたばかりのその名を脳裏に浮かべることすら恐れていた──何を知り、何を夢見ている?

「すべてを」

 すべて?

「そう。この星の命の、すべて」

 本当に?

「疑うのなら」

 女の顔から笑みが消えた。

 すうっと目が細められ、銀の瞳が凍る。

「見てみるがいい」



 巨大な棺に突如、亀裂が走った。

『それ』が横たわる銀色の棺が微塵に砕け散った。

 飛び散った破片は、しかし、銀ではなかった。

 やわらかく淡い輝きの、真珠に変わって。

 僕らの乗る飛行機に向けて無数に降り注いだ。

 猛吹雪の中を飛んでいるかのように視界が完全に白く埋め尽くされ、ざあっと音を立てて風防に叩き付けてくる。

 きらめく真珠が僕たちの乗る夜間戦闘機の周囲で踊るように舞い散っていく。

 その真珠の表面がすべて磨き抜かれた鏡のようになって、まるで一粒一粒が、こま送りにされた映写機のスクリーンのように、それぞれ全部違った光景を映し出している。

 スローモーションで提示されるすべての場面が、繰り広げられる無数の情景が、僕の網膜から視神経を通って脳へと雪崩(なだ)れをうって飛び込んできた。


(続く)

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