5
夢の後にも関わらず熱はなかったので、外歩きのできる様にワイシャツに着替えて医師の回診を待った。
またいつもの夢を見たこと、そのあと夜中に目が覚めて飛行機が飛んでいるのを見た話をすると、看護婦はそれも夢なのではないかと笑った。
「夢では着替えはできません」脱いだ衣服は朝食前に洗濯婦に渡してあった。
「でも夜中だと、どこを飛んでいるかわからなくなるんじゃないんですか? 真っ暗なのに」
「レーダーとかいうのがあるんじゃないんですか? たぶん……いや、僕も知りませんが」
「夜戦かな」
医師がカルテに書き込みながら誰に言うともなく小声でつぶやいた。
「夜戦?」
僕と、それから看護婦の視線に気づき、彼はカルテから顔を上げた。
「……ああ、夜間戦闘機というのがあるんです。二人乗りの戦闘機で、夜に飛ぶために、後ろに航法士を乗せるんだそうです」
「昨日の昼間も飛んでいましたね」頭上を飛びすぎる銀色の機影を僕は思い出す。
「いや、あれは通常の戦闘機でしょう。単座でしたし」
「先生、お詳しいんですね」
そう看護婦に言われて、医師は少し照れたように目を伏せてカルテを閉じた。
「好きだったのですよ、飛行機が。子供の頃は戦闘機乗りになりたくて。でも、親は猛反対で。うちは代々、医者の家系でしたから。……もっとも」
ペンを胸ポケットにしまい、苦い笑みを薄く浮かべて彼は眼鏡の縁に手をやった。
「私は、これでしたからね」
確かに目が悪くては、飛行機乗りは無理だったろう。
まして医者の家系では、夢を口にするだけでも大きな苦悩と確執があったはずだ。
だから結局、実現はしなかった。
それでも彼の中の憧れだけは死に絶えることはなかったのだ。
いまでも──。
黒縁の丸い眼鏡をかけた男の子が空を見上げる。
視線の先に、銀色に輝く翼の戦闘機が大空を駆ける。
はてしない憧れを込めて、彼は複座式の夜間戦闘機を見つめ続ける。
その後席に座っている人影が、見えた。
「あれは──」
──僕だ。
後席に僕を乗せた戦闘機は男の子を地上に置き去りにして、海の彼方へと飛び去ってゆく。
あの夜間戦闘機は僕をどこへ連れてゆくというのだろう?
僕をどこかへ連れてゆこうとしているのは誰だ?
前席にいるのは誰?
目を凝らして見ようとしても、そこにはただあやしい銀色の光があるばかり──
その光景が、病室にいる僕の目にはっきりと映った。
頭がぐらぐらして。
急激に広がる情景がぞわりと背を震わせる。
胸の奥底からあふれだす幻想に突き上げられて身体の重心がぶれる。
脚に力が入らない。
ふらついて、壁に寄りかかりそうになる。
「沢木さん」医師が気づき、声をかける。
ベッドの手すりを掴む。
「大丈夫ですか」
指先に、力を込める。
倒れないように。
自分の手のひらが手すりを掴み、腕がそれを支えて、肩までちゃんとつながっているのを意識する。
眼鏡の奥から、医師の目がこちらを見ている。
ゆっくりと、静かに息を吐く。
見透かされないように。
「ええ、大丈夫です」
白くなった指の関節を見つめながら答えた。
だが、医師は再び胸ポケットからペンを取り出した。
「今日は歩くのは、お休みにしましょう」
カルテを開き、書き込む。
「でも、熱はありません」
「……いや、やはりやめておきましょう」医師は僕から目をそらして窓の外の海を見た。
「風が出てきている。これからまた荒れるでしょう。熱も上がってくるかも知れません。昨夜も夢を見たようですし。顔色もあまり良くない。大事を取るにこしたことはありません。今日は安静にしていて下さい」
「……わかりました」
再びカルテを閉じて、医師は出ていった。
看護婦がまたノートと万年筆を部屋の隅へと片付け、窓を閉めると、医師の後から病室を出た。
ため息をつき、ベッドに腰掛ける。
こんなことは前にもあった。
病気になる前から、何度も。
仕事の合間にも不意に浮かび上がるイメージがあまりに鮮烈で、内側から揺さぶられてぐらりとくる。
まざまざと立ち現れる情景が脳裏をよぎって、眼前の現実を打ち消そうとする。
それでも、目の前には生徒達がいて。
他の教師達がいて。
だから、万が一にも気取られることのないように、ゆらぎを見透かされることがないように、堪(こらえ)えていた。
教卓の端を手で掴み。
脚に力を込めて、立つ。
なのに、さっきはそれができなかった。
病気で弱っているからか。
それとも。
ここなら堪える必要がないと、わかっていたからか。
好きなだけ幻想に身をゆだねていても、誰も咎(とが)めはしないからか。
だとしたら。
目を閉じて、ベッドに仰向けに倒れ込む。
力を抜いて手足を放り出し、すべての息を胸から吐き出す。
──ずっとずっと、本当は、こうしていたかった。
──ひと目もなにも気にせずに、時間を忘れ、野方図に、自分だけの幻想にひたすら溺れて……
胸元で何かがこそりと動いた。
目を開くと、胸ポケットから手帳と鉛筆が顔をのぞかせていた。
──そうか。
これから歩く予定だったから、ワイシャツに着替えて手帳と鉛筆もいつものようにポケットに入れてあったのだ。
──これがあれば。
まだ何も書かれていないページを開いて、鉛筆を手に取る。
昨日のようにベッドの上で書こうとして。
突然、激しく咳き込んだ。
またいつもの、と思ったが、違った。
何十本もの焼け火箸を同時に胸に突き込まれ、肺を焼き焦がしながらずたずたに引き裂いてゆく。
肺の奥の、気管支の細かい分岐をひとつ残らずひしぎ潰しながら一斉に患部が破裂した。
辛うじて朽ち果てずにつながっていた虚ろな臓器が全てあっけなくむしり取られる。
ざっくり開いた傷口から鮮血が吹き出した。
こみ上げてくるものを押しとどめることができない。
止まらない。
とめどなく、あふれ返る。
息ができない。
枕も、シーツも、手帳も真っ赤になった。
それでも。
──いやだ。
それでも僕は鉛筆を手にとろうとして。
なのにそれが掴めなくて。
──書きたい。
引きつる指先をすり抜けて鉛筆が床に落ちる。
手が届かなくなる。
──書きたいんだ。
ベッドに倒れ込んだまま床に手を伸ばす。
届かない。
書きたいのに。
また激しく咳き込む。
床にも血だまりを広げながら。
体ごと僕も落ちる。
「沢木さん、どうしました」
ドアが開いて看護婦が入ってきた。
床に落ちたままの僕はもう返事もできない。
あとからあとから出てくるのは咳と血ばかりだ。
「先生、来て下さい」
ドアの外に向かって看護婦が叫ぶ。
「先生。早く来て下さい、先生」
僕の胸の中からごっそりと無慈悲な手でえぐり取られる。
灼けるように熱い血と混じり合い、吐き出される。
失いたくない。
失われる。
僕の中から。
僕が──
そのまま昏倒した。
(続く)
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