雪の天使
キジノメ
雪の天使
『今年、分からないけど、いつもの場所で待ってて。きっと行く。』
画面をオフにしたら、真っ黒なスクリーンに雪が落ちた。画用紙の様な空から小雪が舞っている。お母さんに手を引かれた男の子が、天を指差し歓声をあげた。
かじかむ両手を擦り、息を細く吐いた。
ここはショッピングセンター一階の、吹き抜けになっている広場だ。背後の、二階まで届く高さのクリスマスツリーは、昼だから点灯されていない。ライトアップがあればもちろん存在感は増すけれど、そんなものが無くとも、ツリーは空よりも我が物顔で場を覆っていた。頂点に輝く金の星、お菓子を抱えたクマが飾ってある。輝度の高いモビールが幾重にもツリーを覆い、華々しい見た目になっていた。
外にスピーカーがあるのだろう、ジングル・ベルが少し音割れしながらも、高らかに奏でられていた。
建物の仲介地点でもあるここは、人が途切れることなく波を作っている。右から左へ、左から右へ。ツリーを見上げて写真を撮り、雪を見つけて笑っている。どの人も大きな紙袋を抱えていた。あそこを歩く人の、あれはきっとケーキの箱だ。足早に出口へ急いでいる。
眼鏡にかかった雪を指で拭って、ぼくはポケットの中身を確認した。薄いオレンジの紙に、真っ赤なリボン。全部は取り出さず、端っこを見て、また仕舞いこんだ。
今は昼の三時。目の前の時計を見てもっと細かく言えば、三時五分。柘榴のメールから、これで一日経つ。柘榴とは毎年、約束をしていた。クリスマスの日、美園町のショッピングセンターのクリスマスツリーの下、そこで会おう。
たった一回の出会いがどれほど貴重なのか、ある程度理解していた。そして彼女が簡単にはこちらに来られない状況に、甘んじなければならないことも。けれど、逃げだすことを心から願っていた。いや、今も願っている。理解と納得は別物だ。あのきれいな手を引いて、誰も彼女を探さなくなるまで、逃避行をしたいと思っている。
全体を見るために、もう一度包みを取り出した。出した途端リボンに雪が付き、慌てて手で払った。手のひらサイズの四角い箱。去年のプレゼントは食べ物で、その大きさに持って帰れないと柘榴が泣きだしそうになったから、別れる前にふたりで食べた。高級な味の濃いチョコ菓子は、だいぶ食べるのが辛かった。だから今年は、食べ物ではない。柘榴にとって、これの方が持ち帰るのは難しいのかもしれない。そう泣かれたら、来年まで自分でつけていようと思う。そうして来年の一日、柘榴につけてもらおう。
箱を仕舞い、時計を見て少し不安になった。去年、柘榴が待ち合わせにやってきたのは午後一時。もう二時間も超えていた。どんよりと悲しみが広がる。今年は、会えないのかもしれない。年に一度の逢瀬すら許されないのが悔しかった。来年会える保証は無いのだから、一年に一度の今日は、どうしても会いたいのに。
一年に一度しか会えないのに焦れているなんて、どうかしている。そんな女捨ててしまえばいいのに。合コンを訳と共に断ったら、そう友達に笑われた。でも、捨てたくないし、会いたかった。誰かのためにプレゼントを買うなら彼女がいいし、誰かとクリスマスを何時間も過ごすなら、彼女以外耐えられそうになかった。
雪が止まない。積もらずとも、ちゃんと目の前を横切っていく。ならば会えるだろうか。彼女と会い始めて四年。雪がクリスマスに降るようになって四年。今、雪は降っている。だから彼女に、会えるだろうか。
「おまたせ」
懐かしい声に、自然に俯いていた顔をあげる。
「……遅いよ」
そこには柘榴が立っていた。満面の笑みなのにあまりに目尻が歪んでいて、今にも泣きそうに見えた。
「ごめん、本当に、ごめん。時間かかっちゃった」
「待つのはいいんだよ、別に。でも、出来れば連絡が欲しかった」
「だって携帯、あそこでしか使えないもん。今日は関所で捕まっちゃったの!」
「分かったって」
わたしのせいじゃないの、と頬を膨らませるから苦笑いして許した。寒々していた心は、そんな冷たさが無かったかのように、ほかっと暖かい。彼女の隣に並ぶ。立っていたせいで膝が固まり、こけそうになった。
「本当に待たせてごめんね」
「いいから。じゃあまず、探しに行こう」
「うん」
今年は、探し物がとても困難な場所にあった。電飾をまとった街路樹の地面の中。こんな場所、見つけるなと言われているようなもんだ。遂にぼくらの逢瀬を絶とうとし始めたのか。
泣きそうになる。けれど柘榴は微笑んで、掘り出した銀色の羽を飲み込んだ。
「ノルマ、これでクリアだね」
「……」
「ねえ。見つかったからいいじゃない」
「でも、来年は」
「来年の場所なんて、来年考えるわよ」
どうして柘榴の方が強いのだろう。ぼくは1年間、何も辛くないのに。柘榴と会えないのが悲しいだけで、済んでいるのに。けれどこの子は、ずっと針のむしろに座っている。ぼくと会ったから。ここに来てしまったから。その罪のせいで、何年も。
「今から何しようか! まだ六時間もあるのよ」
目を拭ったぼくを、柘榴が引っ張ってくれた。怒りもしない。一緒に泣こうともしない。けれど、ぼくの手が白くなるほど強く握って、前に引っ張ってくれた。
夕方七時。今回はぼくの家で最後まですごすことにした。
「立派な物、食べたい? チキンとか、回らないお寿司とか」
「お寿司もいいな。でも、今年はコンビニで適当に買って食べようよ。わたし、コンビニのご飯、好きよ」
「よく覚えてるね。最初に会った時、食べたっきりじゃないか」
「覚えてるよ、
「……」
「照れないでよ!」
柘榴はカルボナーラを買って、ぼくはけんちんうどんを買った。それとホールケーキが売ってたから買うことにした。あと、ワイン。どうせなら、と一番高いのを買ってみる。
「初めて、コンビニで五千円超える買い物したよ……」
「ケーキも買ったもんね。食べるの楽しみ」
「今日半分こで食い切るぞ。明日残っても困るんだから」
「そのためのパスタだけよ。大丈夫!」
雪は地面を白く染め始めていた。歩けば薄い足跡が残る。そっと振り返ると、ふたりの足跡がひっそり残っていた。
マンション五階の隅がぼくの部屋。重たいけれど柘榴に荷物を持ってもらい、鍵を開ける。さきに靴を脱いで上がり、柘榴から荷物を預かって奥へ向かった。あまりに廊下が暗いから、電気をつける。そのせいでリビングが、より一層闇を飲み込んだ。
部屋が寒々しい。早くエアコンを付けよう。リビングに入って電気を付ければ、食卓の花が目についた。今日のためにと買った、赤い花を中心に生けられた花。ちょっとでも華やかになればと思ったけれど、まだ温度の低い部屋では不格好なままだ。これも明日捨てるかな、と思う。きっとひとりじゃあ、悲しいだけ。
「寒いねー」
「今、暖房付けたから」
「ありがとう。よし、早く食べよう!」
ようやくロングブーツを脱いだのか、柘榴がばたばたとリビングに入ってきた。ぼくが食卓に置いたビニール袋を漁る。
「ちょっと、適当に置くからケーキ傾いてるんだけど!」
「味は変わんないって」
「見た目が変わるでしょ、ばか遥」
まあちょっとだからいいけど……、とむくれる柘榴の後ろから手を伸ばして、パスタとうどんを取る。さきにパスタをレンジに突っ込んで、温めを押した。
「ワイン飲む?」
「飲む」
柘榴は席に座って、目をキラキラさせている。ぼくも笑って、出したグラスを置いた。
深い赤色のワイン。アルコールの匂いがふわりと包む。
「じゃあ、今年も出会えたことに」
「最高の夜になることに!」
「乾杯」「乾杯!」
食べ終わって、片づける時間も惜しいからテーブルもそのままに、順にお風呂に入った。リビングが主にケーキの匂いで甘ったるい。アルコールも混ざって酔いそうだ。いや、ワインを飲んだのだから酔っているのかもしれない。思考が浮ついていて、柘榴の頭を撫でながら髪を乾かすのが楽しくてしょうがなかった。
「ぼくは柘榴に触れてるんだぞー」
「そうだーわたしは遥に髪を乾かしてもらってる!」
あはは、とふたりで声を上げて笑った。そこに柘榴がいることが、こうやって頭を撫でられることが、嬉しくてたまらない。そこにいる、夢じゃない。今日はクリスマスだもの。
拭いていたタオルを横に置いて、頭のつむじにキスをした。えへ、と柘榴が緩やかに笑う。
「わたしは幸せ者だなー。ねえ遥」
「そうだよ、今だけぼくら、世界一の幸福者だ」
ベッドから降りて、同じ床に座って柘榴を抱きしめる。お風呂上がりだから、しっとりとあたたかだった。明日もこうしていられたらいいのに。首に顔を埋めて息を吸う。さらさらと、あったかい。
柘榴が振り向く。ぼくも柘榴を見つめて、引き寄せられるようにキスをした。
「大好きだよ、柘榴」
「わたしだって負けないくらい、遥が好きよ」
一息ついて、ベッドから体を起こした。柘榴は隣で脱力し、ぼくに背を向けたまま横になっている。
その、何も着ていない背中。
折りたたまれた羽が、凍ってるかのように固いまま。
「……たった四年の罪滅ぼしじゃあ、溶けないのか」
「何年もかかるわ」
横になったまま、掠れた声で柘榴が言う。ぼくは渡し忘れていたプレゼントを思い出して、床に放られたコートのポケットから、包みを出した。
「柘榴。遅くなった。これプレゼント」
柘榴がごろりと仰向けになり、横着にぼくに手を伸ばす。分かりましたよ、王女様。ラッピングを開けて、中の物を取り出した。
先に天使の像が付いた、ネックレスだ。天使は羽を広げて、片手で持ったラッパを吹いている。全体が銀色で作られているそれは、サイドテーブルの明かりで鈍く輝いていた。
「きれい……」
「貰ってくれる?」
「……うん。何が何でも、隠して持ってる。絶対、持ってる」
いつのまにか、柘榴が泣いていた。オレンジの明かりに、それはてらてら光っていた。
きれいな、オレンジ色だった。泣き顔はむしろブサイクなのに、ひどくきれいだと思った。
柘榴が掴んだネックレスの像をぼくも触り、囁く。
「柘榴の羽もこうやって自由になったら、ずっと一緒にいられるかな」
「……いられる。いられるように、する。今だって、羽が凍ってなかったら切り落として、遥といるのに」
わたしがなにしたっていうのよぉ。
遥の腕が、すとんと落ちた。顔をくしゃくしゃに歪め、涙が目から溢れ出る。ぼくは慌てて遥を抱きしめた。首元で鼻を啜り、柘榴が喚くように言葉を吐く。
「羽が、羽さえ凍ってなかったら、遥といられるのに。切り落として天使止めて、遥の傍にいるのに。どうして人間を愛しちゃいけないのよぉ。どうして愛したせいで、羽を切り落とすことすら禁止されないといけないのよぉー……」
遥が毎年クリスマスにこちらに来られるのは、罪滅ぼしの行為があるからだ。羽の氷を溶かしたいのなら、毎年クリスマス、天が落とした銀の翼を見つけて来なさい。そしてそれを、飲み込みなさい。それをしなければ、柘榴の羽は一生凍ったまま。一年でも欠かせば、罪滅ぼしの行為すら許されなくなる。
そうして、余った時間でぼくと会っている。ぼくと会ったことが罪なのに、それの許しを請いながら会っている。見つかったらタダじゃすまない。
だから、本当は会うべきじゃないのだ。そんなこと、二人とも理屈では分かってた。
でも、会いたくて。
次の年なんてどうでもよくなるくらい、今この瞬間、触れたくて。
ぼくだって、柘榴に「会うのを止めよう」なんて言えなかった。柘榴とすごしたい。柘榴と街を歩きたい。柘榴とご飯を食べたい。一日と言わず、本当はいつまでも一緒にいたいのだから。
終わりの時間が迫っている。柘榴を促し、服を着させた。
「また来年も、絶対に来るから。絶対、何がなんでも」
「何がなんでも、来てほしい。待ってるから。ずっと、待ってる」
「そうだ、これ」
柘榴が右耳のピアスを外し、ぼくの耳に止めた。紫の宝石がはめ込まれた、スタッドピアスだった。
「ネックレスのお返し。あげるから、覚えていて」
「うん。絶対に忘れない」
もうすぐ零時だ。舞踏会の鐘なんて、シンデレラも望んでいなかっただろう。誰のために、今の時間は進むのだろうか。
「ねえ、空見たい」
柘榴がそう言うから、ベランダから外に出た。柘榴はコートも着て、帰る格好で。ぼくはセーターに、適当に上着を引っ掛けた。
柘榴が手すりに寄りかかり、空を見上げる。雪はもう止んでいた。そうだ、もう、出会える時間は終わりなのだから。雲は早くも東の空へ流れていき、明るい星が真上で光っている。
「あ、流れ星」
え、と慌てて空を探したけれど、もう流れてしまったのか、ぼくには見えなかった。
「なにかお願いした?」
「まさか。あんな短時間で出来るわけないでしょ?」
そうだね、とぼくは笑った。柘榴もおかしそうに、くすくすと笑った。
手すりを掴む手を引き寄せて、右手に握りこむ。
「……流れ星が、隕石として落ちてきたらいいのにね。一瞬で、一緒に死ねるよ」
「わたし、死ねるのかな。人間じゃないよ」
「じゃあ、ぼくが心臓を刺すよ」
そしたら死ねるかな、一緒に。そして、死の先の生まれ変わりで、同じ世界に転生させてくれるかな。同じ場所で死んだのだから、同じ世界に生きさせてくれるかな。
風が突き刺すように寒かった。柘榴の手を思いっきり握ってしまう。
「痛いよ、遥」
「ごめん……」
「ねえ、死ぬ話なんて止めようよ。わたしは来年、遥に生きて会いに来るのよ」
ピアス、あげたでしょう? そう言われたら、ぼくだけが弱音を吐いていることなんて出来ない。柘榴はぼくより、ずっと強かった。いつか会えなくなるならと、死すら望むぼくよりも。
「ちゃんと、会いに来たいから……」
でも柘榴の顔を見て、驚いた。
柘榴は笑いながら、泣いていた。ごしごしと、手で両目を擦っていた。
「柘榴……」
柘榴も不安なんだ。そりゃそうだ、ぼくよりも周りからの目線が辛い場所で、何年も生きているのだから。なんでぼくが、彼女より弱気になっているんだ。
分かっていた事にもう一度気付き、はっと目が覚めた気分になる。握っていた手を強く撫でた。
「会いに来たいから。お願い、祈って。頑張るから。わたし、頑張るから……!」
「うん、うん」
手を撫でるだけじゃ足りなくて、身体を抱きしめた。もう時間だ。柘榴の手先、足先が消えだした。白い泡が生まれて、ぱちぱちと宙で弾ける。
「ずっと祈ってる。一年間、待ってるから。祈ることしか出来ないけど、頑張って」
「うん、頑張る……」
「絶対、待ってるから」
「うん、うん……」
柘榴が消えていく。白い泡がふわふわ浮かび、弾けて消えていく。
「ばいばい」
透明になった柘榴の泣き笑いが宙に浮かび、消えた。
二十六日、午前零時。
また一年間、ぼくはひとりだ。けれど。
一年、待ってる。
待ってるよ、柘榴。
空を見上げて、でもやっぱり辛くて、ぼくはひとり、涙を拭った。
雪の天使 キジノメ @kizinome
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