1-06『それは、素敵なことだね』
坂道を降って、海岸沿いに出る。久住先輩と並びながら歩き、湊は白砂を踏んだ。
夏休みの時期は海水浴客も訪れる小さな海岸だ。この時期はまだまだ暑いとはいえ、もう泳ぐことはできない。そうなると海辺も閑散としたもので、見渡してみても久住先輩と湊しかいないのである。
「君は変わり者だね、鷹峰くん」
おもむろに、久住先輩はそう言った。
「そうですか?」
「わたしについて来ても面白いものはないと思うよ」
そう言って、先輩は遠くの水平線を眺める。
「とは言え、一緒に歩きませんかという提案はとても嬉しかった。わたしは、そういう機会にあまり恵まれなかったからね」
「そうですか? 一緒に歩くくらいならいつでも付き合いますよ」
「それは嬉しいな」
浮世離れした久住先輩の態度は、どこまで本気にして良いのかわからないことがある。ただ、いまこの時だって、決して嘘をついているわけではないだろうと、湊は思った。
砂を踏みしめて歩く先輩を、湊は後ろからついて歩く。
「先輩はいま、どこに向かってるんですか?」
「特にないよ。散歩みたいなものだ」
「ですか」
さて。
どんな話をしたもんだろうか。
春にけしかけられ、仲良くなって来いと送り出されたは良いが、その糸口がつかめない。いや、春にけしかけられたからという理由はダメだな。湊は湊として先輩と個人的に仲良くなりたいという願望がある。
もちろん円滑なキスの再現性を推し進めるためだ。それ以外に何がある。
ひとまず湊は、久住先輩の顔を真横から覗き込んだ。
「浮かない顔ですね」
「そうかな」
「そうですよ」
実はそうでもない。
本当に久住先輩が嘘をついていたなら、きっとそこはずっと引っかかっているはずだと踏んでのカマかけである。実際、久住先輩は少し黙り込んでしまった。今度はこちらが騙しているようで、少し気の退ける部分はあるものの。
「そうかな……。だとしたら、君たちに後ろめたいことがあるからかもしれない」
やっぱりそうなのか、と、湊は思った。
「いやまぁ、いいんじゃないですか。多少は後ろめたいことがあっても」
「え、そ、そう?」
「俺だって先輩には後ろめたいことがありますからね」
具体的には、水泳部の隠し撮り写真のことである。当然のことながら、あれの存在を久住先輩は知らない。怒る先輩の姿は想像できないが、ドン引きする先輩の姿はちょと想像できてしまうので、あまり見せる気にはならないでいた。
「そうか。そういうものなのか」
久住先輩は、ちょっとだけ安心したようだ。
「わたしは友達がいないから、他人との距離感を測りあぐねるところがあってね」
「あれ、山添先輩は?」
「彼はちょっと、そういうんじゃないから」
「気になるなぁ!!」
山添先輩の言葉を信じるなら、別に付き合っているわけではないらしいが!!
「……許可や了承を得ずにキスをしたのは、君が初めてだったんだ」
急に立ち止まり、空を見上げて、先輩が呟いた。
「何度か話したことはあったけど、別にそこまで親しかったわけじゃないし、今もそうだと思っている」
「そうですね。それはそうだと思います」
「わたしは、誰かにいきなりキスをするのは良くないことだと聞いていた。だから嫌われても仕方ないかなと思ってキスをしたんだけど」
「生命の危機でしたしね」
「そう」
頷く先輩。湊と先輩の間を、海風が凪いでいく。
「こういってはなんだけど、わたしは自分の命を優先するために君に嫌われても良いという判断をした。うしろめたさと言えばそういう部分もあるな。だってその判断をしたのに、君はわたしのことを嫌っていないから」
「嫌った方が良かったですか?」
「そういうわけじゃないんだ。嫌われていないと分かった時はほっとした。そもそも、好き好んで誰かに嫌われたいと思うほど変わり者じゃない」
久住先輩はちょっと自分のことを甘く見すぎである。
本当に見ず知らずの人間ならともかく、在校生であれば先輩のことを知らぬ者はいない。その先輩に、不意にキスをされたとして、驚くことはあれど嫌悪を抱く者など、あまりいないのではないか。
湊は単にラッキーであった。今もラッキーである。
先輩は続けた。
「そして困ったことに、似たような状況に陥ったとき、すぐさま同じ判断ができる自信がない。君に嫌われるような判断をすぐにくだせる自信がないんだ」
つまり君は、以前に比べるとわたしの中で得がたい存在になっているんだ。と、久住先輩は言った。
あれ? これはいけるのでは?
湊は思った。
いや湊ではない。湊の中に巣食う悪魔が思った。悪魔は春に似た形をしていた。
結構いいムード。いいシチュエーションではないか。先輩もこちらを憎からず思っていることを伝えてくれている。先輩は湊に嫌われたくないと思っている。けっこう強引に行けばいけるんじゃないか?
いやいや待て。
湊の中の天使が言った。天使は図々しいことに湊本人の姿をしていた。
先輩の好意にすがって手前勝手な欲望を押し付けるなど紳士のすることではない。そうした横暴的振る舞いを憎んだからこそ、おまえは山添先輩と不毛な嫌がらせ合戦に身を投じてきたのではないのか。冷静になれ。自らが紳士であったことを思い出せ。
うるせぇ紳士なだけでメシが食えるか! 今は悪魔が微笑む時代なんだよ!
悪魔が天使を投げ飛ばした。天使は死んだ。
ついでに悪魔のことも放っておくと増長しそうなので消しておいた。
「久住先輩」
湊は口を開く。
「なにかな」
「俺は先輩が、何かを隠しているんだろうな、とは思ってますけど、それを聞こうとは思ってないんですよ」
「……うん」
先輩は声のトーンを落とし、ややうつむいた。
「でもね先輩、なんか先輩が危ないことをやってるんじゃないかな、という想像はつくんですよ。現に先輩は土曜日なのに制服を着てるし、またキスが必要なくらいフラフラになっていたし。それが心配なんですけど」
「うん」
湊はここで一呼吸おいて、少し気合を入れた。
「例えばね。例えばですよ。その、先輩がまた何か大変なことに巻き込まれてしまって、力が出なくなってしまった時に、すぐにキスの補給ができる奴がいたら、便利だなって思いません?」
「……それは」
そんなことを尋ねられるとは思っていなかったようで、久住先輩はびっくりしたように目を見開いていた。そして、もう一度『それは』と呟いて、しばらく言葉を選んだ様子を見せてから、このように言う。
「……それは、素敵なことだね」
「ですよね!?」
湊は食い気味に頷いた。
「そういう存在になろうと思うんですよ。ど、どうですかね!?」
「とても良いと思う。わたしの一存では決められないけど、それは是非お願いしたい」
ミもフタもない言い方をすれば、これはセックスフレンドならぬキスフレンドにならないかという提案であり、極めて背徳的な契約であった。が、『キスをしないと死んでしまう』という久住先輩の体質を免罪符に、前向きな合意が成立しようとしている。そしてそこに疑問を差し挟む者は誰もいないのであった。
もちろん湊は純粋にキスの再現性を担保するために提案した側面はあるが、同時に久住先輩の体調を気遣っているのも嘘ではない。どちらの割合が多いかという話ではなく、この二つは単純に不可分だ。
久住先輩の体調を慮った結果、そこにキスというご褒美がついてくるなら特にそれを忌避する理由はないのである。世の中がうまくできているという話だった。
「……そうだ、鷹峰くん。渡したいものがある。ついてきて」
久住先輩は不意に思い立ったように言って、坂の方へと歩きだした。
「え、どこ行くんですか」
尋ねる湊に先輩は振り返ることもなく、平然とこう言った。
「わたしの部屋」
久住先輩の家は、坂を登っていく途中にある、小さなアパートの一室だった。家族の姿はなく、未成年女子が独りで住むにはセキュリティも不完全で、あまりにも不用心な印象を受ける。
湊は最初は部屋に呼ばれると思ってドキドキしていたのだが、いざ部屋に足を踏み入れると、その気持ちは一気に霧散してしまった。
家具も所持品も最低限。手狭なはずの部屋を、広く感じてしまうほどの、物悲しい寒々しさ。ますますもって、年頃の女子の部屋とは考えづらい空間が、そこにはあった。
「上がってくれていいよ。面白みのない部屋だけれども」
久住先輩はそう言って、丁寧に靴を脱ぐ。ちらりと玄関の床に目をやると、学校指定の革靴が3足ほど、その他には動きやすさを重視した登山靴や、ブーツのようなものがあるくらいだ。
部屋の真ん中には小さなちゃぶ台が置かれていて、カラーケースがワンボックス分と衣装用ラック、パイプベッド。それが部屋に置かれたすべてだ。衣装用ラックには、先輩がいま着ているものと同じ制服が何着も並び、その中に一着だけ、女の子らしい白のワンピースがある。
カラーボックスの上には写真立てがあり、その中には久住先輩と山添先輩、それと、見覚えのない男女が1人ずつ映っていた。
「あった」
カラーボックスの一番下を漁っていた先輩が取り出したのは、小さな防犯ブザーのような代物だった。
「なんですかこれ」
「発信機」
「えっ」
先輩はスマホを取り出し、見たこともないアプリを起動させると、その画面をこちらに寄越して見せてくれた。
「肌身離さず持っていてくれれば、わたしはいつでも、君も居場所を確認できるし、それを通じて通話もできる」
「いや、だったら連絡先交換しません?」
「じゃあそれもしよう。でもそれはとても精度が良いものだからね。その分大きいけど、携帯電話が通じないような地下や宇宙空間でもひとまず通じる」
「なんなんですか」
「発信機だけど」
そうではなくて。
思ったよりも大がかりな何かがありそうなので、湊はちょっとビビってしまった。この部屋のはどう見てもアレだ。情緒をあまり育てられなかった少女兵士とか、そういった類のキャラの部屋そのものだ。衣装ラックにかけられた白のワンピースはきっと、初めて買い物にいったとき、必要性を感じない彼女に仲間が買い与えたものに違いない。
久住先輩はきっと、何度か戦いを経験していて、その中で初めてこのワンピースに袖を通した日常回があったのだろう。遊園地とかにも行ったかもしれない。くそ、なんで自分はその時そこにいなかったんだ、と湊は唇を噛んだ。
「異能に目覚めてぇ……」
「え、やめときなよ。良いことないよ」
「先輩は持ってるからそういうこと言えるんですよ! いやすいません、困らせる意図で言ったわけではない!」
湊は、発信機にストラップがついていたので、ひとまずスマホにブラさげておくことにした。
「これは本当にありがとうございます。もしキスが必要だったら言ってください」
「うん。そうする」
「ていうかもらって良いんですか? (機密的に)大事なものなんでしょ?」
「もともとは別の任務で使っていたものだけど、もう使わないからね」
任務って言っちゃってるしな……。
「鷹峰くん」
「はい」
「わたしは明日、電車に乗って都市部の方に出る用事があるんだ。何があるかわからないから、もし良かったら一緒に来てもらえるかな」
来た。
デートのお誘いだ。
いや厳密には全然そんなものではない。というかデートではないな。ただアレだ。先輩はトラブルやアクシデントの発生を予期して、同行に誘っている。すなわちそれは、湊の出番があり得るということで、湊の出番というのはつまりキスのことだ。
行くしかないな。
「行きます」
改めて述べるが、先輩のことを心配に思う気持ちはもちろんある。あくまでもそこは不可分なのだ。
霊吸い先輩は舌を入れてくる ぶりきば(非公式) @kiva_blitz
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