1-05『先輩って人間なんですか?』

 やらかしたな、と湊は思った。


 後先考えずに突っ走るのは悪い癖だ。反省したい。しかし翻って省みたところで、それを活かす機会が残されているのかは疑問だ。手放した意識の奥底にあって、不思議と湊は落ち着いていた。

 死とは決して忌むべきものではない。終焉は実に穏やかだ。自身を取り巻く空気はほのかに温かみを帯びていて、わずかに覆い被さるような圧迫感がある。夏風に混じって、柑橘類を思わせるさわやかな香りがした。


 唇に柔らかい何かが押し当てられていて、まるでキスをしているような感覚があった。


 っていうかキスをしていた。舌も入っていた。


「んむっ、むっ! むぅっ……!」

「は、ふぁ……ちゅっ……」


 吐息が無駄にエロい。湊は地面に仰向けになっており、覆い被さっているのは久住先輩だった。


 そう、久住先輩だった。


「せんぱいっ!?」

「あっ」


 がばっと上半身を起こすと、久住先輩はびっくりしたようにのけぞる。


「先輩がどうしてここんむっ!」

「もうちょっと待って」


 口を唇で塞がれ、湊は結局黙らざるを得なかった。湊の身体を抱きすくめる腕の力は強く、大きな胸がぐいぐいと押し付けられてくる。生徒手帳に忍ばせた隠し撮り写真のプロポーションを思い出すと、自然と身体が熱くなった。


 先輩は、蛇のような舌先で容赦なく湊の咥内を蹂躙していく。もはや湊は、ジリジリと鳴く蝉の声を聴きながら、されるがままにじっとする以外できることがなかった。そして、なにやらぱしゃぱしゃと耳障りな音が聞こえると思えば、一眼レフを手にした春が真横から何枚も写真を撮っていた。


 とりあえず湊は腕を伸ばし、春に向けて中指を立ててやった。





 どうやら一命は取り留めたらしい。通りがかりの先輩が助けてくれたとのことだ。怪物は、先輩がひと睨みし、『何やってんの?』というと、そそくさと退散してしまったらしい。

 傷もすっかりふさがっていて、これも先輩が手をかざしたら勝手に治ったとのことだ。さすが久住先輩だと湊は思った。さすがのひとことで看過できる現象ではないものの、真っ先にそこを追求するのも礼を失しすぎているから、まずは感謝の言葉を述べるのが先だ。


「久住先輩、本当にありがとうございます。調査レポートだけでなく、湊くんまで助けていただいて」

「お礼を言う順序逆じゃない?」


 思わずツッコミを入れてしまってから、湊は咳ばらいをして、改めて久住先輩に頭を下げる。


「ありがとうございます先輩。生きてるだけで丸儲けです」

「うん。わたしとしても、鷹峰くんが生きていてよかった」


 と、久住先輩は頷いてから、自らのテーブルの前に置かれた山盛りのクレープを見つめた。


「ところでこれは」

「謝罪や謝礼の証明として烈風堂のクレープを奢る習わしがありまして」


 いつまでも野外で話すのもアレだったので、場所は駅前の喫茶店『烈風堂』に移している。かれこれ数十年は営業が続いているレトロな感じのお店で、地元民の憩いの場だ。この店のクレープは絶品なのである。


「そうか。じゃあ、いただくことにするね」

「どうぞどうぞ」


 先輩は、ナイフとフォークでクレープを切り分けながら、それをゆっくりと口に運んでいく。湊はその様子をじっと眺めていた。


「え、なんだろう」

「いや、気にせず食べ続けてください」

「あ、うん」


 土曜日だというのに、久住先輩の恰好は学校指定制服のブレザーのままだった。先輩の私服が見たかった身としては、ちょっぴり残念な気持ちもある。

 先輩はひょっとして、おとといの『用事』とやらから、一度も家には帰っていないのだろうか。そもそも『用事』とはなんだったのか。気になることは尽きないが。


「先輩、あたしから質問があります」


 横に座る春が、ぴっと手を挙げた。


「なんだろう」

「先輩って人間なんですか?」

「ちょっ」


 いきなりのブッ込んだ質問に、湊がかえって狼狽してしまった。久住先輩は久住先輩で、クレープを食べる手を止め、どこか真剣そうに考え込んだ後、


「わたしは、人間だと思ってるけど……」


 という、意味深な言葉を残す。


「人間という定義にもよるしね」

「あたしは、霊吸いっていう都市伝説について調べてるんです」

「たますい?」


 聞きなれない言葉だとでも言いたげに、先輩は聞き返した。


「なにそれ。うなぎの肝吸いみたいなやつ?」

「発想のセンスが! 湊くんと同レベル!」


 春は拳をガンと机に叩きつけたが、湊はちょっと嬉しかった。


 春の言い分はわかる。実はその可能性を、湊はちょっと疑っていた。手をかざしただけで傷を癒やすという特異能力もさることながら、キスをしないと死んでしまうという久住先輩の言い分は、いかにも、生命エネルギーを吸っていそうな感じがしたからだ。


 いや、あれ。春はその話を知っていたか?


「ああ、先輩から聞いたんですよ」


 首を傾げる湊の心中を察して、春はそう言った。


「久住先輩はすごく辛そうで、2日くらい何も食べてなさそうな顔をしてました」

「キスをしないと死んでしまうからと春日井さんに同意を求めたんだけど、せっかくだから鷹峰くんにしてくれと勧められたんだよ」

「その方が湊くん喜ぶかと思いまして」

「確かに。ありがとう」


 湊の礼を神妙な顔で受け取ると、春は久住先輩に霊吸いの説明を始めた。


 霊吸いは人間の生命エネルギーを吸収する。

 被害者が疲労や健康被害を訴えているところから、そうした憶測がたっている。

 人間の姿をしており、人間社会に溶け込んでいる。

 若い女性の姿で目撃されている。


 エトセトラ。


 春は、どこどこでどういった人物が霊吸いに生命エネルギーを吸われたのかといった事件の発生を、マップ付きで細かく説明した。


 久住先輩はアイスティーに口をつけながら、春の話を聞いている。その間、湊はストローをくわえる先輩の唇をじっと眺めて、この瞬間はストローになりたいと考えていた。


「なるほど」


 春の話を聞き終えて、久住先輩は頷く。


「……なるほど」


 そして、もう一度そう頷き、しばらく考え込んでしまった。何かを真剣に吟味しているようで、答えを出すのには慎重そうだった。じっと黙り込んだ後、久住先輩はこう答える。


「春日井さんの言う定義に照らし合わせれば、わたしは霊吸いということだね」

「……なるほど」


 春はわずかに目を細め、調査レポートに何かを書き込んだ。


「つまり先輩は、他人の生命エネルギーを吸収して生きていると」

「うん。まぁ、そうだね」

「なるほど」


 思ったより喜ばないんだな、と湊は思った。念願の霊吸いの存在を証明できただけではなく、まさかの実物と接触できたのだ。いつもの春ならば、もうちょっとテンションをあげてしかるべきだが、今はそれが見られない。


「じゃあ、わたしはそろそろ行くね」


 そう言って、久住先輩は立ち上がった。


「クレープ、ごちそうさま」


 湊としてはまだ聞きたいことがある。先輩に後ろから声をかけようとしたが、先に立ち上がったのは春の方だった。春は、歩き去ろうとする先輩の肩にぐっと手をかけ、先輩を振り向かせる。そして、身体をぐっと縮めると、振り返ってきた先輩にタイミングを合わせて思いきり背を伸ばし、


 それから先輩の唇に、自分のそれをぐいっと押し付けた。


「ええええええええええええええ!!」


 傍から見ていた湊からすれば、もう何がなんだかわからない。ガチャンという音がしたのでそちらの方を見てみると、カウンター内にいた烈風堂のマスターが、コーヒーカップを落として割っていた。


 驚いていたのは久住先輩も同じだ。完全な不意打ちに目を見開いていたが、しかし先輩はすぐに目を閉じて、ぐいっと春の身体を抱き寄せる。そこから先は湊にしたことと同じだろう。熱い吐息が漏れ、舌が絡み合う。湊は思わずテーブルの上の一眼レフを手に取って、その光景を写真に収めた。


「ぷはっ」


 長い長いキスが終わる。春はウインドブレーカーの袖で、ごしごしと唇をぬぐっていた。


「……いきなり、こういうことをするのは、良くないと思う」


 少し顔を背けて、久住先輩が言う。


 言っていることはもっともだが、彼女はノリノリで春に応じて舌を入れていたから、言葉にはあまり説得力がない。


「すみません唐突に。以後気を付けます」


 春の返事は事務的なものだ。久住先輩はいまだ困惑を隠しきれないようでありながら、こちらに小さく手を振ると、からんと鳴るドアベルを鳴らして、降り注ぐ残暑の陽射しの中へと戻って行った。


「久住先輩は、霊吸いではないと思いますね」


 その後、開口一番春の言葉を、湊はちょっとした驚きをもって受け止める。


「おまえさっきと言ってること違くない?」

「あの時も別に、本当に先輩が霊吸いだと思って言ったわけじゃありませんよ」


 春が向かい側のソファに腰かけなおすので、湊も席に着く。


「久住先輩は不思議な治癒能力を持っている。キスをしないと死んでしまう。まぁこの二つは事実だとしましょう。キスをして相手から生命エネルギーを吸い取っているという憶測は、まぁ納得できます。あたしも最初そう考えてましたし」


 思ったよりも真剣に考えているようだ。湊も腰を入れて聞くことにした。春が開いた調査レポートのページを、身を乗り出して覗き込む。


「先輩が最初フラフラで、湊くんにキスをしたら元気になった。これも憶測の裏付けにはなります」

「俺が最初キスされた時もそうだった」

「キスをすることが先輩にとって何かしらの補給活動であるのは間違いないでしょう。本当に生命エネルギーみたいなものを吸っているのもあるかもしれない」

「だったら霊吸いじゃないのか?」


 湊は当然の疑問を口にしたが、春は首を左右に振った。


「霊吸いの被害者は、何かしらの健康被害や、極度の疲労を訴えています。湊くんにはそれが見られなかった。そもそも、それなりの傷を負って気絶した人間を治療したあとで、健康被害が出るような行為を取るというのは、ちょっと筋が通りません」

「確かに」


 先輩は、最初は春にキスをしようとして、しかし湊にするよう勧められたから湊にキスをした。本来の霊吸いであれば、そこは多少食い下がるなり、湊にキスをすることによるリスクを説明して然る場面だ。


「一応、あたしも確かめようと思って先ほど先輩にキスをしましたが、特に疲れたりとかはなかったです。ただ気持ち良いだけでした」

「先輩が生命エネルギーを吸収しなかった可能性は? 俺のときはフラフラ状態から元気になってたけど、さっきは最初から元気だったろ」

「だったらあそこまで長くキスをします?」


 するかもしれない。気持ちが良いからという理由で舌を入れてくるような女性ひとだ。


 湊がそのように反論すると、春は頷いた。


「そうですね。あたしは、先輩は霊吸いではないのでは、と考えてはいますが、結局憶測の域を出ません。霊吸いかもしれない。まだどっちもあり得ます」

「仮に霊吸いではなかった場合は、なんで先輩は嘘をついたんだ?」

「そこですよ湊くん。実際、あたしも湊くんも健康被害はないわけです。先輩が、自分がキスした相手にそうした被害が出ることを認識していたとは思えない。だったら、ひとことキチンと訂正を入れてくるはずなんです。『わたしはキスして生命エネルギーを吸うけど、相手に悪影響を及ぼすことはない』と」


 そこを、わざわざ訂正しなかった理由。

 その上で、先輩が『自分が霊吸いである』と嘘をついた理由。


 春はイキイキと喋りながら、ひとつの仮説を立てた。


「先輩は、もしかしたら本物の霊吸いについて知っているのかもしれない」


 自分が霊吸いである、と宣言するのは、本物の霊吸いに湊や春を近づけさせないための方便、カバーストーリーの類であるのかもしれない。


「………」


 湊は、ごくりと唾を飲み込んだ。


 先輩がおととい残した、『用事』という言葉。家でゆっくり休んだ様子もなく、制服のまま再び姿を表した理由。湊の中でいろんな事実と春の憶測が繋がっていき、ある具体的なイメージを紡いでいく。


「……じゃあ、久住先輩は何者なんだ?」

「わかりません。というわけで、そこの調査を湊くんにしてもらいたいわけですね」

「調査」

「湊くんは、久住先輩と仲良くなってください。湊くんの研究を進める上でも、これは悪くない提案なのでは?」


 ちらりと烈風堂の外を見た。久住先輩が歩いているのが、遠くに見える。今から追いかければ、すぐに間に合うだろう。湊はそれを見て、ない襟を正した。


「よし、じゃあちょっくら行ってくるわ」

「行ってらっしゃい。あたしはここでしばらく涼んでいます」


 湊は、カランと鳴るドアを押しのけて、残暑の陽射しに身を躍らせた。駅前の道路を走って行き、少し先を歩く先輩に声をかけた。


「先輩!」

「鷹峰くん」


 久住先輩はいつもの調子で振り返る。


「良ければ、少し一緒に歩きませんか」


 湊がそんな提案をすると、先輩は少しだけ驚いた顔をしてから、それから小さく微笑んだ。


「良いね。そうしようか」

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