1-04『すっごいよ!』

 湊たちの暮らす場所は、海と山に囲まれている。風光明媚というよりわけではなく、むしろわかりやすく錆びれていて、電車に乗って少し行くと、マキノ学院高校のある少し大き目な町にでる程度の土地だ。

 山から海に向けて坂や階段がいくつもあって、おかげで湊も春も健脚に育った。きっと久住先輩も健脚なのだろうと、湊は思った。


 この土日、湊は春に付き合って、地元のフィールドワークへと赴くことになった。


 暇だったという理由がひとつ。

 春に烈風堂のクレープを奢らせたかったという理由がひとつ。

 あともうひとつ、おそらくこのあたりに住んでいるであろう、久住先輩の所在を確かめられたらいいなと思ったのもある。


 夏が開けてもまだ残暑は続き、遅まきの蝉がジリジリと鳴き喚いている。

 寂れた駅前のロータリーに立ち、湊は春が来るのを待った。


「お待たせしました、湊くん」


 待ち合わせの時間きっかりに、春は訪れる。ナイキのロングパンツにスポーツシューズ、Tシャツの上からウインドブレーカーを羽織っていた。頭には麦わら帽子、首から紐でボールペンを下げ、右手にはスケッチブック、肩から鞄をかけている。


 気合いの入った格好だった。


「俺、手ぶらで良いって言われたから何も持ってきてないぞ」

「もちろんです。湊くんに期待する役割は荷物持ちなので」


 そう言って、春はちらりと後ろを振り向く。春日井パパが車のトランクから、大量の荷物を降ろしている最中だった。そういうことか。湊は小さく会釈をして、そちらへと歩いていく。


「ご無沙汰です、おじさん」

「いやすまんね湊くん、春のワガママに付き合わせて」

「いや構いませんよ。どうせ暇ですし」


 春日井パパが車から降ろしたのは、クーラーボックスと撮影機材一式。女の子の細腕に任せるには文字通り荷が重いものばかりだ。湊はそれらをよっこらせと背負う。湊だって文化部のモヤシなので軽々しく持てるわけではないが、こういう時は男を見せるのが信条だ。鷹峰湊は時代遅れのジェンダー論を好む。


 春日井パパが車で去っていったのち、フィールドワークが始まる。都市伝説研究会として、春は『霊吸い』の調査に乗り出した。湊はそれに付き合わされている形だ。


「そもそも霊吸いってのは、この辺特有の怪物なのか?」

「そういうわけじゃないんですけどね。今年の1月くらいからかな。いろいろ噂が出るようになりまして」

「ふわっとしてんなぁ」


 あくまで噂であって、目撃情報とかではないんだな、と湊は思った。


 冬から春先にかけて、ちょっと気を失って意識が飛んだとか、精気を抜かれたかのような気怠さが続くだとか、そんな症状を訴える市民が続出した。彼らは一様に、症状を発する直前に見知らぬ女から接触を受けたと報告しており、そんな情報がまとめて、匿名掲示板に投稿されたりしていたのだそうだ。


 情報ソースに欠けた、いかにも胡散臭くて根も葉もなさそうな話である。


 が、地元の話題であるので春はちょっとテンションをあげてしまい、受験勉強が終わったという時期柄も相まって、この噂の調査に乗り出したのだ。


 入学して間もなく、山添先輩に調査レポートをビリビリに引き裂かれるまでは、彼女の調査は極めて順調だったという。


「(だからあそこまで落ち込んだのか)」


 自慢のレポートを失って、見る影もないほどしょげてしまった幼馴染の顔を思い出し、湊はひとり納得していた。今日に至るまでの山添先輩との不毛な争いはそこに端を発している。


「しかしようやく調査レポートも復元できました。いやぁ苦労しましたよ。いろんな研究と並行して進めてましたからね」


 うきうきとした様子で楽しそうに、春は胸を張った。


 どうやら、春が片手に持っているスケッチブックが、その調査レポートとやらであるらしい。後ろから見ると、霊吸いの正体に対する細かい憶測だとか、情報の出処がどこであるとか、割と事細かに書き込まれている。


「で、フィールドワークって何やるんだ」

「聞き込みと現地調査です。いちおう、霊吸いの被害にあったと思われる人たちのことは特定済みなので。話を伺いに行きます」


 坂をずんずんと登っていく春。重い荷物を抱えながら、湊はそれをえっちらおっちらと追いかけていく。


 それで、調べてどうすんの、という疑問は野暮だ。春は都市伝説オタクである。匿名掲示板のオカルト板に張り付き、昼夜問わず眉唾物の噂話の真偽について、同士と語り合うことを趣味としている。おかげで話の合う友達もいない。

 春は、霊吸いの実在を証明したいのである。証明すればそれで満足だ。


  現在並行して研究を進めている、血まみれ怪物とやらについてもそうなのだろう。


「(しかし、思ったよりもしんどいなぁ)」


 坂道を登るには、いささか重装備にすぎる。だからこそ春は湊を荷物持ちに呼んだのだろうが。


 これは烈風堂のクレープを奢ってもらうくらいでは、ちょっと割に合わないかもしれない。と、湊は思った。





「えっ、引っ越した?」


 春はスケッチブックを片手に、拍子抜けしたような声をあげる。安アパートの一室から出てきた主婦と思しき女性は、子供を抱きかかえたまま、こちらのことを不審がっている様子だ。


「ええ、私たちがここで暮らし始めたのが6月くらいだから、多分その前には……」

「あの、どちらに行かれたとかは……」

「ちょっとわからないですねぇ……」

「そ、そうですか。すいません、お邪魔しました」


 ばたん、と無慈悲に扉が締まる。春はがっくりと肩を落として、自身のスケッチブックにバツ印を書き加えた。


「全滅か」

「………」


 湊の言葉に、無言で頷く春。


 春が聞き込み調査をしようとアタリをつけていた数人の霊吸い被害者は、みなすでにこの街にはいなかった。ほとんどの者がこの半年以内に引っ越していて、失踪という形で行方をくらませた者も1人だけいる。


「うーん、頑張って突き止めた手がかりだったんだけどなぁ……」

「頑張ってって、おまえどうやって突き止めたの?」

「そりゃあ、掲示板のIDから別の書き込みを探して、そこから日常生活のさりげないヒントを見つけたりしてですね」

「怖ッ!!」


 被害者たちが引っ越したのはこいつ自身のせいだったりしないだろうな。


「まぁ話が聞けないなら仕方ありません。そこの裏手のあたりが、霊吸いの目撃情報があったあたりなんですよ。行ってみましょう」

「霊吸いってどんな見た目なんだっけ」

「人間と寸分違わぬ姿です。他人の精気を吸い取って生きています。まぁ吸血鬼の魂版みたいな感じですね」


 アパートの裏手側には、夏草がぼうぼうと生い茂っていて、背の低い春の身体を覆い隠してしまうほどだった。が、春はもちろん躊躇しない。このために長袖長ズボンだったのだと言わんばかりに、果敢に茂みの中へと切り込んでいく。


 ぴょこぴょこと動く麦わら帽子を目印に進んでいくと、不意に春が口を開いた。


「湊くんの研究は、進捗どんな具合ですか」

「俺の?」

「久住先輩とのキスと、その再現性について」

「あー」


 湊は天を仰ぐ。そうか。それは研究扱いになっていたのか。


「こっちもあまり芳しくはないな。昨日は学校じゃ会えなかったし」


 用事がある、といってフラッとどっかに行ってしまい、その翌日に学校を休んだのだから心配にもなる。山添先輩は風邪だと言っていた。でも絶対に風邪ではないと思うし、山添先輩がそれを知っているということが心をざわつかせる。


 落ち着け、俺はただキスがしたいだけなんだ。


 おおよそ最低と言っていいその呪文を繰り返し唱えることで、ひとまず湊は精神の安定を図っていたりするのだった。できれば、また舌を入れていただきたい。


「久住先輩もこの付近に家があるなら、ついでに探して見るというのはどうで」


 どうで、まで言ったところで、春の動きがぴたりと止まる。


「さすがに家を突き止めるというのはキモくないかな。別に俺は先輩と会ってどうこうしたいというわけじゃないんだ春。いや、具体的にキスをしたいという気持ちはあるが。っていうかさ、別にこの付近に家があると決まったわけじゃない。だってこの辺の学区って俺たちとモロ被りだろ。中学の頃にあんな人いたっけ? 名前を知らなくてもあんだけ美人なら顔くらい知っていてもいいと思うんだよな。途中で引っ越してきたのかもしれ」「Grrrrrrrr……」「ないと思ったけどそれならそれでぐるる?」


 何かおかしい。湊ははたと気づいて顔を降ろし、正面に向けた。目の前には、春の麦わら帽子があって、その先に、なにやら見たことのない、毛むくじゃらの、3メートルはあろうかという巨大なシルエットが、茂みの中からのそりと立ち上がっている。

 それは残暑を引きずる9月の田舎、澄み渡る青空の下で遭遇するにはいささか場違いな存在であるかのように思えた。


 これだけ明るい中でも爛々と赤光を宿した双眸がはっきりと確認でき、肥大化した両腕の先には刃渡り数十センチのナタを思わせる爪が4本ずつ備わっている。荒い呼吸とともに唸り声を発し、それは一歩、また一歩、のそりのそりと春の方へと歩みを進めているのだった。


「バケモノじゃねーか!!」


 湊は叫ぶなり、春の腕をぐいと引っ張って走り出した。撮影機材もクーラーボックスもすべて放り捨てる。春が『もったいないっ!』と叫んでいたが、どう考えても命の方がもったいない。


 いや、あの毛むくじゃらと相対して命を失うと決まったわけではない。ああ見えて以外とフレンドリーで、花と音楽を愛する心優しい性格かもしれなかった。しかしその可能性に賭けるには、天秤の皿に載っているものがいささか大きすぎるのである。


「み、みみ、みみみみ、湊くん!」


 腕を引っ張られながら、春の声はあからさまに動揺している。


「見た!? ねぇ今の見た!? すっごいよ! 湊くんすっごい! 見た今の! すっごいよ湊くんっ!!」


 大興奮のあまり地が出ていた。


「あれはなんだ妖怪博士!」

「あたしは妖怪博士じゃないよ! ですよ! 見たことも聞いたこともないですね。新たな都市伝説アーバンレジェンドの誕生かもしれませんよ!」

「都市伝説って実在するかどうか不確かなものを言うんじゃねーのかよ!」


 歩幅と走る勢いに差がありすぎるので、湊は春を肩に担ぎ上げて走る。春はカバンから一眼レフを取り出し、ぱしゃぱしゃとシャッターを切りまくっていた。きっとこいつは長生きする。ここを切り抜けられればの話だが。


 湊も決して脚が早い方ではないのだが、まだ追いつかれる気配はない。意外と怪物も鈍足なのか。そう思った瞬間、ぶん、こ風を切るような音がして、春が『あっ』と声を上げた。


 鞄の紐が切断され、中身がばさっと地面に広がる。湊は逃げながらそれを目撃した。中には春のスケッチブック、すなわち調査レポートも含まれる。


 思わず湊は足を止めた。振り返れば、目と鼻の先に怪物がいる。怪物も足を止め、こちらを警戒するように唸り声を上げていた。

 怪物の足元に、春の荷物が転がっている。湊は春をゆっくり地面に下ろして、それから調査レポートに目をやった。


 これをまた失わせるのは、湊的には少ししんどい。


「湊くん……」


 湊の背後で、春が張り詰めた声をあげた。


「湊くんはあたしの夢、覚えてますか?」

「ああ、俺の結婚式で新郎の友人代表スピーチやりたいってやつ? あれ本気だったの?」


 いきなり何を言い出すのかと思ったが、ひとまずは律儀に返事をしてやる。


「もちろん本気です。あたしはできることならその夢を叶えたい……。しかし無理にとは言いません。お葬式のときの弔辞でも我慢できます」

「ちょっと待ってそこは俺が死なないように無理を突き通す場面じゃない?」

「でもでも! あの調査レポートいちから作りなおすのに半年かかったんですよ!」

「俺はここまで育つのに16年かかったわ!」


 絶対レポートのために死んでやらねぇからな。っていうか弔辞は絶対お前には任せないからな。むしろ俺の方が長生きしてお前の弔辞を読む。と、湊は息巻いた。


 漫才をしている間、怪物は律儀に威嚇を繰り返していた。話のわかる奴だ。


 しかし結局これではジリ貧だ。やはりレポートは諦めるしかあるまいが、諦めてうまく逃げ仰せられるかというと自信がない。春はじっと怪物を眺め、なにかを考えているようではあった。

 怪物は、爪の生えそろった腕を振りかぶる。足元に散らばった荷物を鬱陶しそうに睥睨し、何故かその中のひとつに狙いを定めたかのように見えた。


 その瞬間である。脳裏にフラッシュバックするものがあった。


 それはバラバラになった紙片を集めて、ひどく落ち込んでいた。泣いてこそいなかったが、それはかつて自分を交わした約束を律儀に守っているだけに過ぎない。


 そんな光景を思い出してしまえば、もう無理であった。


「ぬおおおおおーっ!!」

「み、湊くーん!」


 ざしゅっ。


 振り下ろされた爪が湊の身体を抉った。湊の身体はどういうわけか駆け出していて、地面に落ちたスケッチブックを守るために投げ出されていた。湊はせめて何かカッコイイことを言おうとしたが、思いつく前に意識を手放した。

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